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鬼が一晩で造ったという、大小不揃いの石が積まれた急な階段を、息を切らして登ぼり切り、そそり立つ崖に、熊野磨崖仏を見た時の感動は今も忘れられない。有終の彼方を見つめるような厳しい凄みを感じさせる目つきの大日如来がまるで岩そのもののであるかのように、迫ってくるのである。ここでは、岩は仏をあらわすための素材ではない。岩そのもののが仏であり、岩に対する信仰がそのまま仏に対する信仰なのである。 奈良の寺院の天平彫刻や鎌倉彫刻をを見慣れていた私は、「臼杵磨崖仏や大谷寺磨崖仏などか石仏の傑作である。」と思っていた。そして、日本の石仏は、木彫仏や銅像、塑像、乾漆像に比べれば造形美としては一段劣ったものであると認識していた。しかし、この熊野磨崖仏を見たとき、私のそのような認識はどこかに吹き飛んでしまった。 天平彫刻や飛鳥彫刻のフォルムの素晴らしさと深い精神性は比類ないものであろう。しかし、熊野磨崖仏に代表される、岩(石)の持つ美しさ・厳しさと人々の信仰心が結びついた、磨崖仏・石仏の造形美も、見直す必要があるのではないだろうか。 私が石仏(特に磨崖仏)に興味を持ち、全国の石仏まわり、写真を撮るようになったのは、40年ほど前に、この熊野磨崖仏を見て以降である。そこで、この熊野磨崖仏を最初に、今まで全国を回り、撮影してきた磨崖仏を100体選んでアップロードすることにした。岩の持つ美しさ・厳しさと人々の信仰心が結びついた、磨崖仏の造形美をお楽しみください。 |
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磨崖仏100選一覧 時代別一覧 所在地別一覧 | |||
磨崖仏100選U 磨崖仏100選V |
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大分県豊後高田市平野 「平安時代後期」
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大日如来 | |
熊野磨崖仏大日如来像はわが国の第一級の巨像で、顔は大きく、鮮明な半肉彫りである。腹部以下は刻み出されていない。(崩れてなくなったという説もある。)大日如来は通常の大日如来に見られない螺髪である。有終の彼方を見つめるような厳しい目つきで、凄みを感じさせる磨崖仏である。岩と一体となった表現は臼杵磨崖仏とはまた、違った意味で日本を代表する磨崖仏といえる。 大日如来の頭上に、両界種子曼陀羅が刻まれていて、この曼陀羅と不動明王で、熊野山・金峯寺・大峰山を表し、熊野三山信仰を具体的に彫像で表現したものである。 大日如来像は像高約約7mで像高8mの不動明王像とともに熊野磨崖仏として国の史跡及び重要文化財に指定されている。 |
不動明王 |
大小不揃いの石が積まれた急な階段を登り切った所でまず目に入るのがこの不動明王像である。高さ8m、厚肉彫りの磨崖仏としては我が国最大のもので、思わず息をのむほど大きい。円く頭髪を結び、編んだ髪を左肩に垂らし、両頬がふくれ、球形に目が飛び出した顔で、右手に剣を構えた姿はおおらかで悠然たる姿の磨崖仏である。 |
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大分県臼杵市深田 「平安時代後期」
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大日如来 | |
質・量・規模ともわが国を代表する石仏、「臼杵石仏」は大分県臼杵市深田の丘陵の山裾の谷間の露出した凝灰岩に刻まれた磨崖仏群である。平安後期から鎌倉時代にかけて次々と彫られたもので、谷をめぐって「ホキ石仏第2群」「ホキ石仏第1群」「山王山石仏」「古園石仏」の4カ所にわかれている。とんどが丸彫りに近い厚肉彫りで、鋭い鑿のあとを残す。現在61体の石仏が国宝指定を受けている。
その中でも特に優れているのが、古園石仏の大日如来像とホキ石仏第2群の阿弥陀三尊像である。阿弥陀三尊像は丸顔に、伏目という、いわゆる定朝様式の阿弥陀像で、堂々とした量感あふれる磨崖仏である。古園石仏の大日如来は、「臼杵石仏」の象徴といってよい石仏で、1993年まで転落した頭部が前の石壇に置かれていた。力強く厳しい、気品のある顔が印象的である。 臼杵石仏の制作者については、真名長者小五郎(炭焼小五郎)が、敏達天皇の時代に、中国から蓮城法師を招いて造顕したという伝説が残っている。もちろん史実とは言い難いが、この伝説のように、この地方に有力豪族が住み、その保護の下、すぐれた僧侶が石仏や寺院を造営したことはまちがいないだろう。 制作年代については、様々な説があるが、ホキ石仏の阿弥陀三尊像や古園石仏群(古園十三仏)などの様式や堂が迫石仏の上の台地にある、2基の五輪塔の嘉応2年(1170)・承安2年(1172)の紀年銘などから、12世紀頃から制作が始まったと考えられている。 1980年から1994年までの14年間、保存修復工事が行われ、各磨崖仏群に覆屋も設置された。古園石仏の大日如来も仏頭が元の位置に戻され、造顕当時の荘厳さをうかがわせるようになった。1995年、59体の磨崖仏が石仏としてはわが国ではじめて「国宝」の指定を受けた。(2体の金剛力士立像が国宝に追加され現在は国宝は61体) 山王山石仏から山腹に沿ってしばらく下るから山腹に沿ってしばらく下ると、日吉神社の参道に出る、その参道を横切り、右手にすすむと、臼杵石仏の白眉といえる古園石仏がある。 「古園十三仏」と呼ばれるように、像高3m近い金剛界大日如来を中心にして左右に各六体の如来・菩薩・明王・天部像の計十三体を、浅く彫りくぼめた龕の中に、厚肉彫りしたものである。もろい凝灰岩に丸彫りに近く彫りだしたため、甚だしく風化・破損して、下半身はほとんどの石仏が下半身を剥落していて、大日如来をはじめとして如来はすべて首が落ちていた。(現在は修復され、仏頭は元に戻された。) 臼杵石仏のシンボル的存在である大日如来の頭部は、彩色が残り、新月形の長い眉、ややつり上がった眼、引き締まった口など、端正で威厳に満ちた表情で、豊かな頬から顎にかけての肉取りとともに、見るわれわれを圧倒する。宝冠を欠損するが一部を残した宝髪と冠紐の鮮やかな色が全体を引き締めている。 修復された大日如来は、頭部が下に置かれていた時と比べると、下から見上げるせいか、貞観仏を思わせる厳しさはやや薄まり、藤原仏らしい優雅を見せていてる。 |
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大分県臼杵市深田 「平安時代後期」
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阿弥陀三尊 | |
ホキ石仏第二群は2つの龕に分かれていて、最初の龕は(第2龕)は九品の阿弥陀像である。中心となる第1龕に、古園石仏の大日如来とともに臼杵石仏を代表する「阿弥陀三尊像」がある。2つの龕とも末法思想の流行とともに、来世に阿弥陀の浄土に生まれることを願って像像されたものである。 第1龕の阿弥陀三尊の阿弥陀如来像は像高3m近い、丈六仏で、臼杵石仏の中では最も大きい像である。丸彫りに近いほど厚肉に彫り出され、衣紋や目鼻など、冴えた鑿あとを残し、木彫仏のような鮮やかさをたたえている。丸顔に、伏目という、いわゆる定朝様式の阿弥陀像で、制作年代は11世紀〜12世紀とされているが、肩から胸にかけて逞しく量感があり、厳しい表情とともに平安前期の様式も残す。脇持の観音・勢至菩薩も2mを越える巨像で苦渋を秘めた強い表情が印象的である。 下は保存修復工事前の覆堂ができる前の写真で、光が入り、陰影がついて、鑿あとの鋭さがよくわかる。 |
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大分県臼杵市深田 「平安時代後期〜鎌倉時代」
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釈迦如来座像・阿弥陀如来座像・薬師如来座像(第2龕) | |
地蔵菩薩半跏椅像・十王座像(第4龕) | |
ホキ石仏第二群に続いて、ホキ石仏第一群(堂が迫石仏)がある。4つの龕に分かれていて、最初の龕(第4龕)は地蔵十王像を厚肉彫りする。中央の地蔵菩薩は右手は施無畏印、左手に宝珠を持つ古様で、石仏では珍しい右脚を折り曲げ、左足を垂らして座る半跏椅像である。左右に五体づつの十王像は鮮やかな色彩が残っている衣冠束帯の道服の姿で、個性的な怪異な顔が魅力的である。鎌倉時代以降の制作と考えられ。 次の龕(第3龕)は金剛界大日如来を中心とした龕で、やや硬いいが引き締まった彫りである。 続く第2龕は堂が迫石仏の中心となる龕で、像高も一番高く、等身大より大きい(釈迦如来座像は2m、他の如来は173〜178p)。制作年代も堂が迫石仏ではもっとも古く、ホキの阿弥陀三尊、古園石仏につく゜。重厚感のある体躯と引き締まった威厳に満ちた顔は貞観仏を彷彿させる。よく見ると、ホキの阿弥陀三尊のような鑿跡の冴えはなく、衣紋は平行状に刻まれていて形式化が目立ち、やや鈍重な印象である。 一番奥の第1龕も第2龕と同様に阿弥陀・釈迦・薬師の3如来を中心とした石仏群である。 |
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大分県臼杵市深田 「平安時代後期」
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釈迦如来座像 | |
薬師如来座像 | |
堂が迫石仏の向かいの山が山王山である。遊歩道は堂が迫石仏からカーブして山王山の山裾を通る。この山裾に通称「隠れ地蔵」と呼ばれる山王山石仏がある。地蔵ではなく一光三尊形式の三体如来像である。中尊は像高約270pで、釈迦如来と伝えられている。(印相は施無畏与願印と思われるので釈迦如来であろう。)丸顔で額は狭く、頸が短く、目鼻口が小さい童顔で、ホキの阿弥陀三尊や堂が迫の第2龕の如来座像の厳しい顔とは対照的である。 脇侍は向かって右が薬師、左が阿弥陀と称されているが、中尊と同じような印相で区別はつけがたい。薬師像は破損が激しかったが修復された。脇侍の2尊もおだやかな親しみのもてる顔である。 |
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大分県大分市元町2-25 「平安時代後期」
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大分市街の南東部、JR九大線近く、道路に面した通称薬師堂といわれる堂内に、元町磨崖仏がある。元町磨崖仏は三尊形の磨崖仏で、本尊は薬師如来と伝えられる像高が3mを越える如来形座像である。向かって右には多聞天立像、左には不動明王立像と矜羯羅童子とセイタカ童子が刻まれているが、共に首が欠落していて、共に昔の面影はない。 臼杵石仏と同じく丸彫りといってよいほどの厚肉彫りである。向かって左の頬の下部が現在剥落し、両手首から先も欠失しているが、整った螺髪、伏目て締まった唇、円満相で豊かな頬、厚い胸など定朝形式の木彫仏を思わせる秀作である。若杉慧氏は「石佛のこころ」の中で「石佛の王者」と表現された。 岩男順氏著「大分の磨崖仏」によれば、この磨崖仏は剥落した部分に鉄釘を打ち込んだ跡や右手首の付け根の鉄芯などから、地石の不足する部分を粘土や別石で仕上げた、塑造・木造・石造彫刻の技法が併用された豊後地方磨崖仏制作技術の自由さをを示す磨崖仏であるという。 そのせいか、熊野磨崖仏や日石寺不動磨崖仏のように岩を生かし、岩と一体となった美しさに乏しく、私には「石佛の王者」という言葉がこの元町磨崖仏には不似合いなような気がする。しかし、本尊の迫力のある体躯とともに優しい眼差しは魅力的である。国指定史跡。 |
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大分県大分市高瀬910-1 「平安時代後期」
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深沙大将 | |
深沙大将・大威徳明王 | |
高瀬石仏は、霊山の山裾が、大分川の支流、七瀬川に接する丘陵にある石窟仏である。高さ1.8m、幅4.4m、 奥行き1.5mの石窟の奥壁に像高95〜139pの馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の5像を厚肉彫りする。赤や青の彩色が鮮やかに残り、馬頭観音や大威徳明王の火炎光背や大日如来の光背の唐草文様などは印象的である。 中尊は丸彫り近い厚肉彫りで、宝冠をいだいた、法界定印の退蔵界大日如来である。他の4体は半肉彫りで、如意輪観音像の動的な姿態や大威徳明王が乗る牛の体勢など立体的な絵画表現を巧みに行なった秀作である。 高瀬石仏で最も知られているのが、左端の深沙大将である。赤い頭髪を逆立て、胸に9個の髑髏の首飾りをし、左手に身体に巻き付けた蛇の頭を握る異様な姿は、興味が尽きない。腹部には童女の顔が描かれている。深沙大将は葛城山の護法神で毘沙門天の化身とされ、馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の配列は葛城山系の修験道との関連が考えられる。 これらの諸像は神秘的であるが、表現は穏和で柔らかみがあり、平安時代後期の作と考えられる。国の史跡に指定されている。 |
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大分県豊後大野市三重町浅瀬乙黒 「平安時代後期」
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薬師如来 | |
千手観音 | |
豊肥本線菅尾駅の北西1.5q、徒歩20分。小高い山の中腹に覆堂があり、向かって右から千手観音・薬師・阿弥陀・十一面観音と多聞天(これだけ半肉彫り)の五体の磨崖仏が刻まれている。 千手観音から十一面観音までの四像は丸彫りに近い厚肉彫りで、臼杵石仏とならぶ木彫的な藤原調の石仏として知られている。この磨崖仏は昔から「岩権現」といわれており、紀州熊野権現を勧請したもので、四像は熊野権現の本地仏である。国の史跡で重要文化財に指定されている。 |
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大分県豊後大野市緒方町久土知71 平安時代後期」
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豊肥本線緒方駅南約2.5q、徒歩30分。近くには豊後のナイアガラとよばれる原尻の滝がある。低い丘陵斜面の東南に彫られた石窟の奥壁に、大日如来と伝えられている如来形座像を中尊として右に不動明王立像、左に持国天像を厚肉彫りする。その左右の壁面に一体は破損しているが、仁王立像の半肉彫り像が刻まれている。 中尊の如来像は臼杵のホキ阿弥陀像に比肩する巨像であるが、 ホキ阿弥陀如来のような森厳さはなく、茫洋としていて、親しみを覚える。大陸的な風貌で、どことなく東大寺三月堂の梵天像に雰囲気が似ている。 この像は、右手施無畏印、 左手与願印であるから、釈迦如来、または薬師如来か阿弥陀如来と考えられるが、豊後地方では如来形大日と伝えられるものがあり、熊野磨崖仏大日如来、 元町磨崖仏如来形像とともにこの本尊もその一つである。国指定史跡。 |
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大分県豊後大野市久士知38 「平安時代後期」
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宮迫東磨崖仏から100mほど離れた小高い丘の中腹の大きな石龕の中に釈迦・阿弥陀・薬師の三如来の丸彫りに近い厚肉彫りがある。いずれも基壇、台座、仏像の三段から構成されている。 いずれも彩色されており、 螺髪は方眼状に刻出されているところなど、やや形式的な作風が見られる。 保存状態は非常によく、仏身や光背に原初の色彩や文様が残っている。国指定史跡。 |
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山口県山陽小野田市有帆 菩提寺山 「奈良時代or昭和6年」
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美術史家久野健氏によって日本最古の磨崖仏として紹介された「菩提寺山磨崖仏」は熊野神社の裏山の菩提寺山の中腹の岩に彫られている。像高316cmの観音立像で、左手に水瓶を持ち、右手は下に下げて指で天衣をつまんでいる。衣紋の表現や二重の瓔珞・両耳の耳飾りは薬師寺聖観音像など天平彫刻に共通する。頭が大きく、4頭身に近い。このような表現は奈良時代の小さな金銅仏によく見かける。 大きな花崗岩を半肉彫りで量感のある菩薩像を表現する点は韓国石窟庵の十一面観音や狛坂寺跡磨崖仏などに共通する。頭が大きく、4頭身に近い石仏は、慶州拝里三尊石仏や南山七仏庵磨崖仏など韓国(新羅時代)にも見られる。花崗岩という硬い岩を加工する技術から考えて、8世紀から9世紀にかけての新羅からの渡来人の石工によって彫られたものであろう。 この磨崖仏については、昭和6年建立説がある。村田芳舟という修行僧が、この山の石を切り出していた石工の道具を借りて彫ったものだという説である。しかし、奈良時代の特徴を備えたこの磨崖仏は、私には昭和期に素人の修行僧がつくったものとは思えない。山陽小野田市が「有帆菩提寺山磨崖仏調査委員会」を発足させ、調査が行われたが結論はででいない。この石仏の発見者、山口歴史民俗資料館元館長の内田伸氏は、奈良時代の作とし、如来形の髪や百毫などが村田芳舟の稚拙な改刻としている。(「山口県の石造美術」 マツノ書店) |
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滋賀県栗東市荒張 金勝山 「平安時代初期」
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近江アルプスとよばれる金勝連峰は、花崗岩の巨岩が露出した独特の風景を見せ、絶好のハイキングコースとなっている。その金勝連峰には東大寺の良弁僧正がが開いたといわれる金勝寺があり、その金勝寺の西部の山中に狛坂寺跡がある。狛坂寺跡には、現在、この磨崖仏とともに、石垣の跡が残るのみである。狛坂寺は平安初期に興福寺の僧、願安が伽藍を建てたといわれているが、詳細は不明である。 狛坂寺跡磨崖仏は、寺跡の南側の、北面する巨大な花崗岩石に刻まれている。高さ、約6m幅6mの岩肌に像高約3mの如来座像と像高約2.3mの菩薩立像2体を彫る。 格狭間入りの基壇の上の須弥座に結跏趺坐する弥勒菩薩と思われる中尊は、たくましい体躯で、威厳があり堂々としている。脇侍はやや腰をひねって、如来側の手を胸に、外側は下げる立像である。三尊とも半肉彫りであるが、立体感のある重厚な像である。この三尊の上部に2組の小さな三尊像と3体の小さな菩薩形立像を浮き彫りする。また、この磨崖仏の向かって左には別石の三尊像もある。 作風は朝鮮の新羅時代の南山の七仏庵磨崖仏とよく似ていて、花崗岩という硬い岩を加工する技術から考えて、渡来人系の石工の作と考えられている。 この磨崖仏を初めて見たのは30数年前のことであるが、何回訪れても、大きな感動を与えてくれる磨崖仏である。量感や迫力においては、熊野磨崖仏などに劣るが、威厳と優美さにおいてはこの磨崖仏に匹敵する磨崖仏は日本には見あたらない。 |
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京都府相楽郡笠置町笠置笠置山 「平安時代後期」
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笠置寺はの巨大な弥勒仏を本尊とする寺で、平安時代以降、弥勒信仰の聖地として栄えた。鎌倉幕府打倒を企てた後醍醐天皇が笠置山に篭って挙兵した元弘の乱の時に、兵火で笠置寺は炎上し、弥勒磨崖仏も火を浴びて石の表面が剥離してしまった。他にも薬師石、文殊石などの磨崖仏があったが、虚空蔵菩薩像が刻まれたとする虚空蔵石磨崖仏のみが当初の姿をとどめている。 虚空蔵石磨崖仏は花崗岩の壁面を二重光背式にほりさげて、内部を平らにし、そこに太い彫線で彫刻した石仏である。宝相華文を刻む宝冠をいだき、瓔珞を胸に飾り、右手を上げて指頭を捻じ、左手を膝上にのべる結跏趺坐の像、寺伝では虚空蔵菩薩像というが、如来のように持物を持たず、宝冠・瓔珞を加えて菩薩形にしている点から、弥勒菩薩と思われる。造立年代については本尊と同じ奈良時代説もあるが、現在の所、平安後期説が有力である。 |
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京都府木津川市加茂町北大門 「平安時代後期」
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他の当尾石仏群から一体だけ離れているため、訪れる人も少なく、「笑い仏」とくらべるとあまり知られていない。 しかし、当尾石仏中、最古最大の磨崖仏であり、堂々たる体躯や幅のある丸い厳しい顔の表情など、近畿地方を代表する磨崖仏の一つである。 二重光背形を浅く彫り、 その中をさらに彫りくぼめて、裳懸座に座る如来形を半肉彫りしている。 手の部分の一部が不明瞭で印相がわからず、 像名は阿弥陀・釈迦・弥勒など諸説がある。造立年代については奈良時代後期・鎌倉時代など諸説があるが、幅広い丸顔や豊満な仏身の表現から平安後期造立説が有力である。 |
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奈良市白毫寺町 地獄谷 「奈良時代〜鎌倉時代」
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首切り地蔵の分かれ道を左に行くと、地獄谷に通じる。地獄谷の名は、昔この付近に屍をすてたところからでた地名とも、春日山中の地中に地獄があると考えられたところから生まれた地名ともいわれる。その地獄谷の山中の凝灰岩層の露出した岩場に石窟が彫られていて、壁面に数体の線刻像が刻まれ彩色されている。それが、通称聖人窟と呼ばれる、線刻の磨崖仏の傑作である。 現在、はっきりと残っているのが3体で、奥壁の中央には、座高1mあまりの施無畏・与願印の如来像が彫られている。胸には卍が刻まれているとのことであるが、金網で保護されていて近づけないので確認できなかった。尊名は弥勒・釈迦・盧遮那仏など諸説がある。のびのびとした流麗な線で衣紋を描き、顔は東大寺大仏の蓮弁に刻まれた如来像によく似ていて、豊かな気品のある顔である。造立年代は天平から鎌倉まで諸説がある。 如来像の向かって左側には、二重円光背を背負った施無畏・与願印の如来立像(吉祥薬師像という説がある。)が、右側には同じく二重円光背を背負った十一面観音が彫られている。中尊に比べると線は伸びやかさに欠け時代は下ると思われる。東壁面には妙見菩薩が刻まれているとのことであるが金網の外からは確認できなかった。 |
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奈良市春日野町 春日奥山 「保元二年(1157) 平安時代後期」
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東窟(六地蔵) | |
西窟(多聞天・阿弥陀座像) | 奈良奥山ドライブウェーは高円山ドライブウェーと新若草山ドライブウェーにつながっているが、一方通行で高円山ドライブウェー側からは車は入れない。したがって、奈良奥山ドライブウェーの出口が高円山ドライブウェーの終点となる。その終点の場所から南側へ登る細い道があり、その道を50mほど歩くと穴仏と呼ばれる春日石窟仏がある。その穴仏の少し下に旧柳生街道の石畳の道が通っている。 春日石窟仏は東西2窟から成り立っていて、凝灰岩層を深く削りくぼめて、つくられた石窟で、全面はかなり崩壊していて、造立当初の様子は知ることはできないが、平安時代後期の保元二年(1157)の墨書銘が残る、わが国では珍しい本格的な石窟仏である。 東窟は中央に層塔としてつくられたと思われる石柱があり、塔身にあたる部分には、四仏が彫られている。東窟の西壁には、頭光背を背負った厚肉彫りの像高90pほどの地蔵立像が4体残っている(もとは六地蔵だと思われる)。左端の一体は右手は与願印で、左手に宝珠を持つ。残りの三体は両手を胸前に上げ、何かを捧げる形であらわしている。一体一体、表情は異なるが顔は引き締まった中に穏やかさをみせている。東窟には、他に観音菩薩と思われる像が3体(もとは六観音)、天部像が2体残っているが破損が大きく痛ましい姿となっている。 西窟は金剛界の五智如来座像が彫られていて、左端の阿弥陀如来と思われる一体と多聞天のみがほぼ完全な姿で残っている。阿弥陀如来は像高94pで、穏やかな満月相で、なだらかな丸みを持った肩や流麗な衣紋など典型的な藤原様式となっている。 多聞天は顔の部分は痛んでいるが、火焔光背を背負い邪鬼を踏み、右手に矛、左手に宝塔を捧げ持つ姿が鮮やかに残っている。 |
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富山県中新川郡上市町大岩 「平安時代後期」
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不動石仏の中で最も優れ、古いのが、富山県の日石寺不動磨崖仏である。日石寺不動磨崖仏(平安時代後期・重要文化財)は、山から露出する大岩面に半肉彫りされた像高3mの不動明王座像で、頭上に蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣、左手に羂索を持ち、両牙は下唇をかむ大憤怒相の力強く豪快な磨崖仏である。本尊の不動明王以外に脇持の矜羯羅童子像・制咤迦童子像、阿弥陀如来像、僧形像が刻まれていて、僧形像(行基菩薩像)は後刻と思われる。 |
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福島県南相馬市小高区泉沢 「平安時代後期」
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泉沢の大悲山には丘陵地の岩層を利用して開いた石窟が3か所現存する。その中で、最も保存状態がいいのが、この薬師堂磨崖仏である。中央に3mを超える高さの如来三尊座像[釈迦・弥勒(薬師)・弥勒(阿弥陀)]と菩薩立像などを厚肉彫りする。側面には如来(薬師)像がある。中央の釈迦如来は蓮台を含めれば5mを越え力強いフォルムである。 覆い堂がかかっているが、岩質がもろく、 相当崩れていて、痛ましいが量感や迫力は少しも失っていない。 |
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岩手県西磐井郡平泉町達谷(西光寺境内) 「鎌倉時代?」
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平泉の西南約6キロ、美しい渓谷美を誇る厳美渓(名勝天然記念物)に至る道路の途中に、達谷窟毘沙門堂(西光寺)がある。
達谷窟毘沙門堂は坂上田村麻呂が蝦夷平定の際、京の鞍馬寺を模して毘沙門堂を建立し、108体の多門天(毘沙門天)を安置したのが始まりとされてい.る。現在、毘沙門堂は崩れて浅くなった窟の壁面に半ば食い込む形で建てられている。昔は深い大きな窟で、蝦夷の王、悪路王(アテルイ?)や赤頭らがたてこもったともいわれる。 毘沙門堂の横、高さ40mほどの大岸壁にこの大日如来磨崖仏がある。現在は顔面と肩の線を残すのみであるが、その大きさは十分うかがえる。九州の熊野磨崖仏や普光寺磨崖仏に匹敵する巨像で、日本最北の磨崖仏といわれている。 顔は下ぶくれの角顔で三角形の大きな鼻と厚い唇の大きな口が特徴である。大まかで上作とは言いがたいが、切り立った岩壁の迫力と無骨な東北人を思わせる顔が印象に残る磨崖仏である。髪は螺髪のようなので、阿弥陀如来であるという説もある。 永承6(1051)年、源頼義が、安倍貞任を成敗したときの戦死者の供養のため、弓弭で図像を岩面に描いたのを、彫り出したのがこの大日如来であると言い伝えられている。 |
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宮城県柴田郡柴田町富沢岩崎山 「嘉元4(1306)年 鎌倉時代後期」
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東北本線槻木駅の北約3qの柴田町富沢の小さな丘、岩崎山の西面する山裾に通称「富沢大仏」と呼ばれる阿弥陀磨崖仏がある。丘陵端の凝灰岩の岩層を利用して作られた磨崖仏で、堂内に保存されていたため保存状態はよい。
岩面を1mばかり彫りくぼめ、像高240pの定印の阿弥陀如来座像を厚肉彫りする。ほとんど丸彫りに近く彫られた角張った大きな顔と大粒の螺髪が、「富沢大仏」という通称にふさわしく雄大である。大きな鼻と厚ぼったい唇など達谷窟大日如来磨崖仏と共通する表現で、いかにも東北らしい鈍重であるが素朴な力強さを感じる磨崖仏である。 像に向かって右壁面に「嘉元4(1306)年」の年とともに恵一坊藤五良なるものが父の供養のために刻んだ旨がかかれた銘文があり、東北地方唯一の在銘磨崖仏として資料的価値も高い。 |
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福島県須賀川市舘ヶ岡向山 「鎌倉時代」
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東滑川の南岸、中世須田氏の居城であった向山丘陵の西崖面にある。この地方の中世の磨崖仏の中では最も風化が少なく、後でつけられたと思われるが赤い彩色も残る。 硬い安山岩に彫ってあるため螺髪を省略した大まかな像容であるが、硬いシャープな線のフォルムが魅力的である。像高2.15mの体躯も量感に富み、頼もしい体つきで東北を代表する磨崖仏の1つである。 |
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福島県いわき市小名浜住吉町 「鎌倉時代」
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小名浜住吉町の遍照院金剛寺の裏山墓地の、第三期砂岩層に彫られた石龕の中に像高190pの厚肉彫りの阿弥陀如来座像がある。地層と像が重なり合って、独特の彫刻美を見せる。近くに阿弥陀座像、20mほど離れたところには阿弥陀三尊像もある。 |
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神奈川県足柄下郡箱根町元箱根 「永仁元年(1293) 鎌倉時代」
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西面 阿弥陀如来立像・地蔵菩薩立像 | |
東面右端 地蔵菩薩立像 | 精進池沿いの遊歩道に戻り、遊歩道を精進池に沿って進むと「火焚地蔵」と呼ばれる地蔵磨崖仏や宝篋印塔があり、さらに進むと三角状に突き出た高さ3mほどの大きな岩が見えてくる。 この岩に阿弥陀如来と蓮台を捧げる供養菩薩と21体の地蔵菩薩が厚肉彫りされている。国道を挟んだ岩に彫られた3体の地蔵菩薩と合わせて26体(菩薩は25体)になり、「二十五菩薩」と呼ばれている。 その中でも、優れているのが、阿弥陀如来や東面の向かって右端の地蔵菩薩やそれに続く東面の大型の地蔵菩薩である。ともに、木彫風の精巧で丁寧な彫りで、衣紋の表現も写実的で、見ごたえがある。岩に舟形を彫りくぼめてそこに厚肉彫りで彫られているため、岩の存在感、生命感が感じられ、磨崖仏としては六道地蔵よりは優れているように思える。 東面の右から2番目の地蔵菩薩の横に二十人ほどの結縁衆の名前とともに、「永仁元年(1293)癸酉八月十八日 一結衆等敬白 右志者為各□聖霊法界衆生平等利益也」の記銘かあり、地蔵講結縁衆が、先祖の霊を供養し現世の利益を願って造像したものであることがわかる。 |
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神奈川県足柄下郡箱根町芦之湯 「正安二(1300)年 鎌倉時代後期」
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箱根山中には多くの石仏があるが、特に知られているのが、芦の湯から元箱根に通じる国道1号線沿いの、精進池の周辺にある元箱根石仏群である。
精進池周辺は厳しい気候と火山性の荒涼とした景観で、地獄の地として、また賽の河原として、昔から地獄信仰の霊場となっていた。その地に、地蔵講結縁の衆が救済や極楽浄土を願つて、鎌倉時代後期に石塔や地蔵磨崖仏がつきつぎとつくられていったのがこの元箱根石仏群である。 現在、元箱根石仏群周辺は史跡公園として整備され、六道地蔵の地蔵堂も復元された。駐車場の近くには、立体映像や迫力あるサウンドを駆使し、絵やジオラマで地獄や地蔵の救済を再現する展示施設である僧坊風の木造建築物石仏・石塔群保存整備記念館(ガイダンス棟)もたてられた。 ガイダンス棟から精進池のまわりの遊歩道におり、国道下のトンネルをくぐり、10mほど上った山裾に、六道地蔵(六地蔵)と呼ばれる元箱根石仏群、最大の地蔵磨崖仏がある。高さ3m余りの蓮華座上に結跏趺座する巨像で、左手に宝珠、候補の右手には鉄で作られた錫杖を持つ(右手と錫杖は地蔵堂とともに鎌倉時代風に作り替えられた)。向かって左の岩面に「奉造立六地蔵本地仏」・「正安二(1300)年八月八日」などの文字が刻まれている。 厚肉彫りというより丸彫りに近い磨崖仏で、引き締まった端正な表情、薄ものの質感を巧みにとらえた衣紋の襞、胸の華やかな瓔珞など、写実的な表現で木彫仏を思わせる。熊野磨崖仏のような岩の存在感、生命感があまり感じられず、巨像の割に迫力を欠くように思える。 |
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三重県津市芸濃町楠原 「鎌倉時代」
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阿弥陀如来立像 | |
地蔵菩薩立像 | 昔の面影を残す白壁塗りの店舗や家屋の残る、「日本の道百選」に選ばれた、宿場町、関宿の南2qの丘陵に石山観音磨崖仏があるこのあたりの丘陵は安山岩や凝灰岩などの巨岩が露出していて、石山観音磨崖仏は高さ40mほどの岩肌に大小の磨崖仏が刻まれている。石山観音は、江戸時代に三十三ヶ所観音霊場の観音を彫ったところから名づけられた。 その群像の中には、鎌倉時代の阿弥陀仏や地蔵菩薩も、彫られていて、もともとは阿弥陀仏を主尊とする寺院であったと思われる。 第一番札所の石仏から少し上がった所に、像高3mを越える大きな地蔵磨崖仏がある。巨岩に二重光背を彫りくぼめ、右手で錫杖を持ち、左手に宝珠を捧げる地蔵立像で、穏やかな面相で、悠然とした風格のある鎌倉時代の作風の石仏である。(県指定文化財) 阿弥陀磨崖仏は三十三ヶ所観音石仏巡拝コースの最後にあり、巡拝コース入り口付近から見上げた、岩山に彫られている。直立した岩肌に、二重光背を深く彫りくぼめ、蓮華座に立つ、像高352pの上品下生の来迎印の阿弥陀如を厚肉彫りしたものである。像の下には二面の格狭間を刻んだ須弥壇が設けられている。平行線に整えられた衣紋は美しくのびやかで、総高5mを越えるこの磨崖仏は迫力があり、下から見上げると、破壊されたアフガニスタンのパーミヤンの大仏を連想させる。格狭間の様式などから見て鎌倉後期の作と思われる。(県指定文化財) |
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三重県伊賀市寺田中之瀬 「鎌倉時代」
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伊賀上野から東へ、木津川の支流、服部川に沿って伊賀街道(国道163号線)が津に通じている。その川沿いの道の北側のそそり立つ岩壁に中之瀬阿弥陀三尊磨崖仏が彫られている。本尊は像高2.5mの巨像で来迎印の阿弥陀如来立像を薄く半肉彫りしたもので、鎌倉時代のおおらかで雄壮な磨崖仏である。 放射光を刻んだ頭光背など、柳生のあたい地蔵と呼ばれる阿弥陀如来立像磨崖仏に表現は似るが、あたい地蔵に較べると、口元が大きく、素朴で力強い面相である。 脇侍の観音菩薩と勢至菩薩は、線刻像で、後世の追刻である。他に、不鮮明であるが、阿弥陀三尊の左右に線刻の不動明王と地蔵菩薩立像が彫られている。 |
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三重県伊賀市大内岩根 「徳治元(1306)年 鎌倉時代後期」
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上野市大内の花の木小学校の校門を入ってすぐ、校庭の右側に廃道があり、その廃道沿いに巨大な岩塊が露出している。その南面に幅220p、高さ148pの長方形を彫りくぼめ、像高約1.2mの三体の立像を厚肉彫りする。 向かって右から、釈迦・阿弥陀・地蔵で、釈迦は施無畏・与願印、阿弥陀は来迎相、地蔵は錫杖・宝珠を持つ。各尊の間には蓮花瓶を浮き彫りに配している。地蔵の上部に「徳治第一年九月日 願主沙弥六阿弥」の刻銘があるという。(摩耗していてるため、見た目ではわからない。)各尊とも、写実的で力強い秀作である。 |
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三重県伊賀市島ヶ原 中村 「鎌倉時代後期」
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JR関西線「島ヶ原」駅から東踏切を北へこえ、しばらく行くと、道の左手に大きな石に六地蔵を彫りつけた石仏がある。(慶長9(1604)年の刻銘)その石仏の前を右手に下りたところに薬師堂がある。薬師堂の扉の内すぐに岩面があり、薬師如来座像と、阿弥陀三尊が半肉彫りされている。 堂でおおわれているため、保存状態は良く、光背と衲衣が朱と黒で彩色されている。鎌倉時代の石仏にしては力強さに欠けるが、やわらかい素朴な表現の磨崖仏である。 この中村薬師堂の北には東大寺の二月堂の修二会(お水取り)とよく似た修正会が行われる正月堂(観菩提寺)がある。 |