観音石仏50選T
平安時代〜室町時代
  
 
 我が国の仏教尊像の中で最も親しまれているのが観音菩薩で、仏像の中では時代を問わずその作例は最も多い。石仏においても地蔵や阿弥陀とともに数多く造像された。

 「法華経」普門品によれば、観音を念ずれば、七難(火・水・風・刀・鬼・獄・賊)を避けることができ、四苦(生、老、病、死)からも逃れ、三毒(貪・瞋・痴)を滅し、願う子宝にも恵まれるという。現世利益的功徳が強調され、8世紀には多くの観音像がつくられ観音信仰が盛んになる。

 平安時代、六道輪廻思想の発達に伴い、六道抜苦を求めて六観音が形成され、密教の普及とともに貴族社会に六観音の信仰が大いに広まっていく。紀州那智山を観音浄土補陀洛山の霊跡に当て 、各地に観音霊場の寺院を考え、そこに参詣することが盛んになり、平安末期には西国三十三観音霊場巡礼の信仰が成立する。その後、板東・秩父の札所もでき、貴族だけでなく幅広い層に観音霊場巡礼が広がり、室町末期から江戸時代には、大衆化し、民衆の文化・経済の向上に伴い、遊楽的要素さえ兼ねて、観音霊場巡礼は盛行するに至る。

 観音菩薩は梵語では「アヴァローキテーシュヴァラ」と呼ばれ、観世音、観自在などと漢訳されている。一切衆生を観察し、自在にこれを救済し、守護するために、それに応じるように三十三の姿をあらわすという。(法華経、普門品・三十三応身)六観音は全ての観音菩薩の基本形となる聖観音と変化像の千手観音・十一面観音・馬頭観音・如意輪・准胝観音(天台宗では不空羂索観音)をさす。

 石仏では奈良市の滝寺跡磨崖仏の六観音と思われる六体の菩薩像が最も古い作例で、八世紀初期と思われる。しかし、剥落がひどく確認できない。他に奈良時代の観音としては頭塔の来迎印の阿弥陀三尊の脇侍や久野健氏によって日本最古の磨崖仏として紹介された菩提寺山磨崖仏があげられる。平安後期の六観音としては奈良奥山の春日石窟仏があげられるが、これも破損が大きく痛ましい姿となっている。平安後期の観音石仏としては栃木県の大谷観音(千手観音)、大分県の菅尾石仏(千手・十一面)観音、高瀬石仏(如意輪・馬頭観音)などが知られている。平安後期から鎌倉時代の観音石仏としては臼杵石仏のホキ石仏のように阿弥陀三尊の脇持として造像されたものが多い。
観音石仏50選U 



観音石仏50選(1)   菩提寺山磨崖仏
山口県山陽小野田市有帆 菩提寺山 「奈良時代or昭和6年」
 美術史家久野健氏によって日本最古の磨崖仏として紹介された「菩提寺山磨崖仏」は熊野神社の裏山の菩提寺山の中腹の岩に彫られている。像高316cmの観音立像で、左手に水瓶を持ち、右手は下に下げて指で天衣をつまんでいる。衣紋の表現や二重の瓔珞・両耳の耳飾りは薬師寺聖観音像など天平彫刻に共通する。頭が大きく、4頭身に近い。このような表現は奈良時代の小さな金銅仏によく見かける。
 大きな花崗岩を半肉彫りで量感のある菩薩像を表現する点は韓国石窟庵の十一面観音や狛坂寺跡磨崖仏などに共通する。頭が大きく、4頭身に近い石仏は、慶州拝里三尊石仏や南山七仏庵磨崖仏など韓国(新羅時代)にも見られる。花崗岩という硬い岩を加工する技術から考えて、8世紀から9世紀にかけての新羅からの渡来人の石工によって彫られたものであろう。

 この磨崖仏については、昭和6年建立説がある。村田芳舟という修行僧が、この山の石を切り出していた石工の道具を借りて彫ったものだという説である。しかし、奈良時代の特徴を備えたこの磨崖仏は、私には昭和期に素人の修行僧がつくったものとは思えない。山陽小野田市が「有帆菩提寺山磨崖仏調査委員会」を発足させ、調査が行われたが結論はででいない。この石仏の発見者、山口歴史民俗資料館元館長の内田伸氏は、奈良時代の作とし、如来形の髪や百毫などが村田芳舟の稚拙な改刻としている。(「山口県の石造美術」 マツノ書店)


観音石仏50選(2)   臼杵石仏の観音像
大分県豊後高田市平野 「平安後期」
 質・量・規模ともわが国を代表する石仏、「臼杵石仏」は大分県臼杵市深田の丘陵の山裾の谷間の露出した凝灰岩に刻まれた磨崖仏群である。平安後期から鎌倉時代にかけて次々と彫られたもので、谷をめぐって「ホキ石仏(ホキ石仏第2群)」「堂が迫石仏(ホキ石仏第1群)」「山王山石仏」「古園石仏」の4カ所にわかれている。(石仏配置図参照)ほとんどが丸彫りに近い厚肉彫りで、鋭い鑿のあとを残す。現在61体の石仏が国宝指定を受けている。

 その中でも特に優れているのが、ホキ石仏の阿弥陀三尊像と古園石仏の大日如来像である。観音像は「ホキ石仏(ホキ石仏第2群)」の阿弥陀三尊の脇侍の1体と「古園石仏」の1体がよく知られている。他に「ホキ石仏(ホキ石仏第2群)」の第2龕に1体、「堂が迫石仏(ホキ石仏第1群)」に阿弥陀像の脇侍の観音像2体があるが、風化・摩滅がひどい状態である。
 
古園石仏観音像 「平安後期」
左は普賢菩薩
 臼杵石仏のシンボル的存在である像高3m近い金剛界大日如来で知られる古園石仏は、「古園十三仏」と呼ばれるように、大日如来を中心にして左右に各六体の如来・菩薩・明王・天部像の計十三体を、浅く彫りくぼめた龕の中に、厚肉彫りしたものである。もろい凝灰岩に丸彫りに近く彫りだしたため、甚だしく風化・破損して、下半身はほとんどの石仏が下半身を剥落していて、大日如来をはじめとして如来はすべて首が落ちていたが、現在は修復され、仏頭は元に戻された。 

 勢至・文殊・普賢・観音の菩薩像はは比較的破損は少なく、昔の面影を残す。共に宝冠を頂いたよく似た座像で、下半身や手など摩滅していて持物や印相がわからず、一見しただけでは菩薩名が判断できない。文殊菩薩は宝冠には彩色が残り、端正な顔が印象的である。観音菩薩は向かって右端にある菩薩像で、とがった顎など本尊の大日如来と共通する様式で、本尊の大日如来や他の菩薩像とともに臼杵ではもっとも古い時期の制作と考えられる。宝冠正面の化仏は欠けてしまっている。
 
ホキ石仏(ホキ石仏第2群) 第1龕阿弥陀三尊観音菩薩「平安後期」 第2龕観音菩薩立像 「鎌倉時代」
 ホキ石仏の中心となる第1龕に、古園石仏の大日如来とともに臼杵石仏を代表する「阿弥陀三尊像」がある。阿弥陀如来は像高3m近い、丈六仏で、臼杵石仏の中では最も大きい像である。丸彫りに近いほど厚肉に彫り出され、衣紋や目鼻など、冴えた鑿あとを残し、木彫仏のような鮮やかさをたたえている。丸顔に、伏目という、いわゆる定朝様式の阿弥陀像で、制作年代は11世紀〜12世紀とされているが、肩から胸にかけて逞しく量感があり、厳しい表情とともに平安前期の様式も残す。

 脇持の観音・勢至菩薩も2mを越える巨像である。特に向かって右の脇侍、観音菩薩は比較的保存状態がよく彩色も残り、苦渋を秘めた強い表情が印象的で、臼杵石仏を代表する像の一体である。

 第2龕は像高1mほどの九体阿弥陀像を中心とした石仏群で中尊は定印の阿弥陀座像で他の8体の阿弥陀像は立像である。九体阿弥陀の両脇に菩薩像があり、向かって右の菩薩像が観音立像である。阿弥陀三尊の観音像と比べると穏やかな顔の像で鎌倉初期の像立と言われている。



観音石仏50選(3)   菅尾石仏
大分県豊後大野市三重町浅瀬乙黒 「平安時代後期」
千手観音
十一面観音
 豊肥本線菅尾駅の北西1.5q、徒歩20分。小高い山の中腹に覆堂があり、向かって右から千手観音・薬師・阿弥陀・十一面観音と多聞天(これだけ半肉彫り)の五体の磨崖仏が刻まれている。 千手観音から十一面観音までの四像は丸彫りに近い厚肉彫りで、臼杵石仏とならぶ木彫的な藤原調の石仏として知られている。

 千手観音は像高198pで裳懸座に座る座像で、膝元で禅定印で宝珠を持つ手と胸元で合掌する手、顔の横で錫杖と三叉戟を持つ手の6臂を大きく表して、他の手を膝元と体の後ろに小さく表すことによって見事にまとめている。十一面観音も裳懸座に座る座像で、右手に蓮花、左手に数珠を持つ。

 この磨崖仏は昔から「岩権現」といわれており、紀州熊野権現を勧請したもので、4像は熊野権現の本地仏である。国の史跡で重要文化財に指定されている。



観音石仏50選(4)   高瀬石仏
大分県大分市高瀬910-1 「平安時代後期」
如意輪観音・馬頭観音
如意輪観音
馬頭観音
 高瀬石仏は、霊山の山裾が、大分川の支流、七瀬川に接する丘陵にある石窟仏である。高さ1.8m、幅4.4m、 奥行き1.5mの石窟の奥壁に像高95〜139pの馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の5像を厚肉彫りや半肉彫りする。赤や青の彩色が鮮やかに残り、馬頭観音や大威徳明王の火炎光背や大日如来の光背の唐草文様などは印象的である。

 中尊は丸彫り近い厚肉彫りで、宝冠をいだいた、法界定印の退蔵界大日如来である。他の4体は半肉彫りで、如意輪観音像の動的な姿態や大威徳明王が乗る牛の体勢など立体的な絵画表現を巧みに行なった秀作である。

 高瀬石仏で最も知られているのが、左端の深沙大将である。赤い頭髪を逆立て、胸に9個の髑髏の首飾りをし、左手に身体に巻き付けた蛇の頭を握る異様な姿は、興味が尽きない。これらの諸像は神秘的であるが、表現は穏和で柔らかみがあり、平安時代後期の作と考えられる。国の史跡に指定されている。



観音石仏50選(5)   石貫穴観音磨崖仏
熊本県玉名市石貫2387 「平安時代〜鎌倉時代」
 装飾古墳として知られる石貫ナギノ横穴から500mほど離れた、丘陵の山裾に同じく古墳時代後期の石貫穴観音横穴がある。大小5基の横穴で構成され、中央の大型横穴の石室の奥壁に千手観音が半肉彫りされている。2臂を頭上にあげ、手を組んでその上に化仏をのせる清水寺式千手観音である。

 日本近代考古学の父とされる濱田耕作(濱田青陵)が大正時代に調査し、千手観音は追刻で平安時代の様式としている。その後、千手観音像は奈良朝の横穴古墳構築の際彫られたとする説も主張されている。しかし、清水寺式千手観音が奈良時代には見られないことなどから千手観音は追刻と思われる。追刻された時期は平安後期から鎌倉時代ではないだろうか。千手観音横には大きな千手観音座像石仏(近世の作?)が置かれている。

 古墳時代には仏教は伝えられていない。古墳は古代の人々の自然崇拝やアニミズムから生まれたものであり、仏教とは直接的な関係はない。釈迦の称えた「悟り」を説く仏教は、やがて、自然崇拝から生まれたインド古来の神々や伝来地の種々の信仰と結びつき、豊潤な命を育む宗教に展開していく。日本でも例外ではない。磨崖仏の魅力はそのような仏教が、石や岩そのものに対する信仰と結びついた所にある。

 したがって、古墳の石室を仏の世界に変えた石貫穴観音は、何の不思議もない当然の結果といえる。実際、古墳の石室・玄室に石仏などの仏像を安置した例は各地に見られる。(奈良県桜井市の文殊院西古墳・東古墳には不動石仏が安置している。石室の壁に仏像などを彫った例は岡山県にも見られる。)

 石貫穴観音の千手観音自体は、大分などの磨崖仏と較べると迫力に欠け、ノミの冴えも劣る。しかし、そこには古代から脈々と続く、石に対する信仰が感じられ、魅力的である。(石貫穴観音には2回、訪れたが、いつも花が供えられ、ロウソクが立てられていた。)



観音石仏50選(6)   立石観音磨崖仏十一面観音
佐賀県唐津市相知町相知861?13  「平安後期〜鎌倉時代」
 相知町の中心部から南、平山川の支流に面した、砂岩の断崖の下面の、自然の半洞窟(高さ3m、幅20m、奥行き5m程)のような岩に薬師・阿弥陀・十一面観音の体を薄肉彫りで刻む。

 左端の薬師如来が一番大きく、像高約2mである。薬師如来は丸みを帯びた大きな顔の部分だけ薄肉彫りにして、体は線彫りで簡単に処理しているため、岩の中に仏像がとけ込んでしまったような印象を受ける。阿弥陀如来と十一面観音は体の部分も半肉彫りで、顔もやや細長く、作者や造立年代が違うように思える。

 十一面観音は一般的には、左手に花瓶を持ち、右手を下げて施無畏印であるが、この像は胸元で合掌している。そのためか、相知町が設置した案内板では2臂の千手観音としている。仏頂面以外の顔は摩滅が進み確認できない。

 近くの鵜殿窟磨崖仏と同じように地方色濃厚な石仏である。鵜殿窟磨崖仏に較べると土俗的な怪奇さは少ないが、共通した印象を受ける。平安末期の作と伝えられているが、鎌倉時代の制作と思われる?。 



観音石仏50選(7) 安楽寿院阿弥陀三尊観音菩薩像
京都市東山区茶屋町527 京都国立博物館 「平安後期」
 安楽寿院は鳥羽上皇により、阿弥陀三尊を祀るために、保延3年(1137)、鳥羽離宮の東殿に、建てられた御堂を起源とする寺院である。中世以降衰え、現在は江戸時代の大師堂や書院などが残のみで、本尊の阿弥陀如来などに当時の面影をとどめる。

 三尊石仏は江戸時代に、安楽寿院の西の聖菩提院跡から掘り出されたものである。凝灰岩の高さ1mあまり、幅1.1m〜1.2m、厚さ0.4mの方形の切石に釈迦三尊と薬師三尊と阿弥陀三尊を厚肉彫りしたものである。釈迦三尊・薬師三尊の2基は参道ぞいに仮堂に安置されている。軟質の凝灰岩のためこの2基は痛みがひどい。

 阿弥陀三尊は、京都国立博物館の西の庭に安置されている。この像は3基の三尊像のなかで最も保存状態がよく、豊満な顔、丸みのある体躯など、平安時代後期の様式がよく残る。向かって右の脇侍の蓮台をささげた観音は顔は体躯と比べると大きく丸顔で、目鼻が摩滅しているためか、幼い子供のように見える。



観音石仏50選(8) 宇治橋観音石仏
京都府宇治市宇治乙方  「鎌倉時代」
 宇治川にかかる宇治橋のたもと、京阪宇治駅の東詰にまつられている観音石仏である。花崗岩製で、別石の蓮華座の上に、二重光背を負った高さ115pの聖観音を厚肉彫りしたものである。宝冠をつけ、左手に蓮華を持って結跏趺坐している。かなり摩滅が進んでいるがやさしい顔の表情はまだ残っている。

 京阪宇治駅が改築され、駅周辺も大きく変わり、この観音石仏の周辺は喫茶店や雑貨店となっている。



観音石仏50選(9)   藪の中三尊磨崖仏十一面観音
京都府木津川市加茂町東小 「弘長2年(1262)」
 東小高庭の集落の南、府道を隔てた樹林の中に「藪の中地蔵」または「やぶの地蔵」と呼ばれる磨崖仏がある。露出する二つの岩面にそれぞれ船型の彫り窪みをつくり、向かって左から阿弥陀・地蔵・十観音の各像を厚肉彫りしたものである。中尊の地蔵菩薩は像高153pで、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ引き締まったおおらかな面相の重厚感のある秀作である。観音は左手で水瓶、右手で地蔵のように錫杖を持つ像高113pの長谷寺式十一面観音で、穏やかで優しい顔の像である。

 「弘長二年」の紀年銘や願主とともに「大工橘安繩 小工平貞末」と石工名の刻銘があり、尾の在銘石仏としては東小会所阿弥陀石仏とともにもっとも古い。



観音石仏50選(10)   十輪院合掌観音石仏
奈良市十輪院町27 「鎌倉時代」
 奈良町にある十輪院は元正天皇の勅願寺で、元興寺の別院といわれ、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)の開基と伝えられる古寺である。創建当時の建物はなく本堂(国宝)や石龕内に安置された本尊の地蔵石仏など鎌倉時代の文化財が多く残り、中世以降は地蔵信仰の場として知られた寺院である。

 十輪院合掌観音石仏は、高さ2mの板状の花崗岩に等身大の合掌する観音像を薄肉彫りしたもので、斜めに傾けた顔の部分は半肉彫りで、張りがあり、顔を姿は気品があり、魅力的な石仏である。境内の庭の北側不動石仏の覆堂の近くにある。



観音石仏50選(11)   専称寺如意輪観音
奈良県高市郡明日香村大字祝戸101 「鎌倉時代初期」
 専称寺如意輪観音は石舞台古墳の南にある祝戸集落のなかほど、専称寺の門前、明日香川沿いの道脇の一段高いところにある小さな観音堂に祀られている。厨子内に安置されていて、山形状の黒い自然石(蛇紋岩)に六臂の如意輪観音座像を薄肉彫りしたものである。像の前に神鏡が祀られているため全身を見ることができなかったが、化仏を正面にあらわす宝冠を頂き、頬杖をついて瞑想する顔は優美で、絵画的な美しい石仏である。


観音石仏50選(12)   地獄谷聖人窟十一面観音
奈良市白毫寺町 地獄谷  「鎌倉時代〜室町時代」
 首切り地蔵の分かれ道を左に行くと、地獄谷に通じる。地獄谷の名は、昔この付近に屍をすてたところからでた地名とも、春日山中の地中に地獄があると考えられたところから生まれた地名ともいわれる。その地獄谷の山中の凝灰岩層の露出した岩場に石窟が彫られていて、壁面に数体の線刻像が刻まれ彩色されている。それが、通称聖人窟と呼ばれる、線刻の磨崖仏の傑作である。

 現在、はっきりと残っているのが3体で、奥壁の中央には、座高1mあまりの施無畏・与願印の如来像が彫られている。胸には卍が刻まれているとのことであるが、金網で保護されていて近づけないので確認できなかった。尊名は弥勒・釈迦・盧遮那仏など諸説がある。のびのびとした流麗な線で衣紋を描き、顔は東大寺大仏の蓮弁に刻まれた如来像によく似ていて、豊かな気品のある顔である。造立年代は天平から鎌倉まで諸説がある。

 如来像の向かって左側には、二重円光背を背負った施無畏・与願印の如来立像(吉祥薬師像という説がある。)が、右側にこの十一面観音が彫られている。十一面観音は二重円光背を負って蓮華座上に立つ、像高87p線彫り像で、面部・頭部化仏などは彫らずに色彩で描かれ、全体に彩色されている。中尊に比べると線は伸びやかさに欠け時代は下ると思われる。東壁面には妙見菩薩が刻まれているとのことであるが金網の外からは確認できなかった。 



観音石仏50選(13) つちんど墓地阿弥陀三尊観音石仏
奈良県宇陀市室生区小原 「永仁6年(1298) 鎌倉後期」
 つちんど墓地の奥まった所に、阿弥陀三尊を、一体ずつ、別石で彫られている。中尊の光背面に永仁6年の紀年を刻す。中尊は高さ約1.8mの細長い板状 石の表面に、二重光背形の彫りくぼみをつくり、像高1.3mの来迎印相 の阿弥陀如来立像を半肉彫りする。

 向かって右の脇侍が観音菩薩で、板石は中尊よりやや小さく、中尊と同じく二重光背形の彫りくぼみをつくり、両手を腕前に上げて蓮台をささげるて蓮華上に立つ高さ85pの像を半肉彫りする。

 三尊とも顔は優しく温厚な表情で印象的である。一方、衣紋や全体の彫りは、硬く抑揚に欠ける表現である。しかし、その硬さが、石の美しさを引き出していて、 木彫の仏像にはない魅力を作り出している。



観音石仏50選(14) さんたい阿弥陀三尊磨崖仏(笑い仏)観音像
京都府木津川市加茂町岩船 「永仁7年(1299) 鎌倉後期」
 大門仏谷磨崖仏とともに、当尾の里を代表する石仏である。岩船寺から西南500mの山裾に露出する大きな花崗岩の岩に、 舟形に彫りくぼめをつくり、 蓮座に座した定印の阿弥陀像と蓮台を捧げる観音像と、合掌する勢至菩薩像を半肉彫りにしている。蓮華座と結跏趺坐する下半身は薄肉彫りである。

 「永仁七年(1299)二月十五日、願主岩船寺住僧‥‥‥大工末行」と3行にわたる刻銘があり、宋から渡来した石大工伊派の一人、伊末行の作とわかる。花崗岩の岩肌を生かして柔らかい丸みのある表現になっていて、 「笑い仏」 という愛称もつけられている。



観音石仏50選(15) 富川磨崖仏観音像
滋賀県大津市大石富川町    「鎌倉時代」
 信楽川沿いの山腹の40mを越える大岩壁に刻まれた阿弥陀三尊磨崖仏である。像高6.3mで線刻彫りの大野寺や笠置寺の磨崖仏を除くと近畿では最大の磨崖仏である。

 一見線彫りのように見えるが、中尊の阿弥陀如来は、像の周りをやや深く彫り沈め、板彫風に線や面を薄肉彫りした陽刻である。そのために、口や目などの表現が不自然になっている。観音と勢至の脇持は普通の手法の薄肉彫りである。

  九州の磨崖仏のほとんどは厚肉彫りか半肉彫り・薄肉彫りで、線刻の像は少ない。中には臼杵磨崖仏や菅尾・元町磨崖仏のように丸彫りに近い磨崖仏もある。それに対して、近畿の磨崖仏は線刻彫りや薄肉彫りの像が多い。それは、技術の違いというよりは素材の違いである。つまり、近畿地方の岩のほとんどが硬質の花崗岩であるのに対して、九州は加工しやすい柔らかい凝灰岩であることが、この違いを作り出したといえる。

 特に、この富川磨崖仏のような大規模な磨崖仏となると、花崗岩の岩に半肉彫りをすることは非常に困難なことと思われる。そのため、笠置寺虚空蔵磨崖仏(像高約9m)や大野寺弥勒磨崖仏(像高約11.5m)は線刻彫りである。笠置寺虚空蔵磨崖仏や大野寺弥勒磨崖仏は近畿を代表する磨崖仏として知られているが、私はあまり魅力を感じられない。確かに、線は美しく優美であるが、表現は絵画的で岩の雄大さ、力強さを生かしていないように思える。

  富川磨崖仏は、笠置寺虚空蔵磨崖仏や大野寺弥勒磨崖仏のような優美な表現でないが、薄肉彫りや陽刻の線彫りといった方法で、岩の厳しさに正面から取り組んでいて、大岩壁をうまく生かした力強い表現で、忘れがたい磨崖仏である。




観音石仏50選(16)   鹿谷阿弥陀三尊観音像
宮崎県串間市福島鹿谷  「永仁六年(1298) 鎌倉時代後期」
宮崎県の南部、串間市の鹿谷に鎌倉時代の阿弥陀三尊磨崖仏がある。鹿谷の集落の西300m、県道ぞいの、高さ約250p、幅約220pの大きな凝灰岩の岩に阿弥陀三尊を厚肉彫りしたものである。道からやや下がったところにあるためうっかりすると見過ごしてしまう。

 阿弥陀如来像は、摩滅のためか、他の鎌倉時代の磨崖仏と比べると鋭さや厳しさがないが、面長の優しそうな目をした顔がすばらしい。額付近が右から左に斜め帯状に剥落しているため、正面から見ると顔を傾けているように見える。

 三尊像の左に石塔があり、「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」の願文と「永仁六年(1298)」の年号が墨で書かれている。また、その横には、一石に彫られた五輪塔があり、これも市指定有形文化財である。

 なお、この磨崖仏には「鉄砲の腕を自慢するため、向かいの飯盛山から三尊に鉄砲を撃ちかけ、観音にあたり、天罰を受け狂い死んだ。」という伝説が残っている。(「串間の民話と伝説」串間市教育委員会参照)

 向かって右の観音菩薩は蓮台を持たず勢至菩薩と同じように合掌する。鉄砲に撃たれた跡なのか?頬のあたりがえぐるように欠けている。



観音石仏50選(17)   鵜殿窟磨崖仏十一面観音
佐賀県唐津市相知町相知和田  「鎌倉時代後期〜室町時代」
持国天・十一面観音・多聞天
大きな丘の頂上近くに切り立つ岩壁を穿った石窟に不動明王像など多くの像を半肉彫りする。石窟は現在著しく崩れ、かって窟内にあった磨崖仏はほとんど露出している。現在58体が遺存する。歯を食いしばる形相は怪奇的で、地方色濃厚な磨崖仏である。

 鵜殿窟は、大同元年(806)、唐から帰った空海(弘法大師)によって阿弥陀・薬師・観音の三像が大洞窟にに刻まれたことに始まると伝えられている。天長年間には鵜殿山平等寺が建立され真言密教の寺院として栄え、その後、天文の戦火にあい、衰滅していったという。

 石窟の中心には十一面観音と不動明王、持国天・多聞天を彫る。その中でも、持国天と十一面観音は保存状態も良く、赤や茶、肌色の彩色が遺る。全体的に土俗的な怪奇さが漂う彫刻で、何となく、チベット仏教の仏像に印象が似ている。

 壊れた石窟の一番奥にある十一面観音は胸元で両手で何かを包むように合わせて合掌する座像で、顔は頭上の顔も含めてすべて四角形で宝冠をかぶっているように見える。壊れた石窟の背後の岩にも、方形の深い彫りくぼみの中に、合掌するよく似た十一面観音像がある。この像は光が当たり石窟の奥の十一面観音と雰囲気は大きく違う。合掌する十一面観音は近くの立石観音磨崖仏にも見られる。

 鵜殿窟の諸像は豊後の石仏のような写実性を欠き、姿態・手足はアンバランスで、彫刻の技術自体は低いと思われる。しかし、下手ではあるが、宗教的な情熱が感じられる石仏群である。制作年代は、鎌倉時代末期から室町期と思われる。



観音石仏50選(18)   福真磨崖仏六観音
大分県豊後高田市大字黒土  「南北朝時代」
聖観音
如意輪観音
 県道から田んぼのあぜ道を通り、小川に差し渡した一枚板の橋を渡り、小さな鳥居をくぐった、四王権現社の参道脇の石造の覆堂内に、高さ160cm、幅450cmの枠を岸壁に区画し、その中に19体の像を半肉彫りする。

 中央に金剛界大日如来座像と金剛界四仏座像を刻み、左に六地蔵像、右に六観音像を刻む。右端には多聞天立像、左端には不動明王立像が彫られ、さらに向かって右の外壁には種子の胎蔵界曼陀羅又は法華曼陀羅が刻まれているということであるが、摩耗してわからない。六観音の右端に剣を構え羂索を持った不動立像(像高89p)が他の像よりやや大きく刻まれている。六観音像は像高34pぐらいの半肉彫りの蓮華座の上に座す像で三体ずつ上下二段に並んでいる。眉や宝冠などに黒い彩色の跡が残る。



観音石仏50選(19)   堂の迫磨崖仏六観音
大分県豊後高田市大岩屋 応暦寺裏山 「南北朝時代」
六観音・十王像・六地蔵・施主夫婦像・倶生神
六観音
 応暦寺の本堂の左横から奥の院へ通ずる山道の傍の崖の上に、横に細長い3つの龕が彫られ、左から六観音・十王像・六地蔵・施主夫婦像・倶生神(司録像)を半肉彫りする。司録像は筆を持っている。おそらく、倶生神に夫婦の善行を記録させ、死後、冥界の十王に、報告させて、極楽往生を願ったものと思われる。

 六地蔵とともに六観音は六道輪廻の苦しみから救済を願ったものであろう。いずれも、50cm前後の小像で高い位置にあり摩滅も進んでいて、六観音の持物や印相はきちんと確認できなかった。



観音石仏50選(20)   赤水岩堂観音磨崖仏
鹿児島県霧島市横川町赤水城ヶ崎岩堂  「建武2(1335)年 南北朝時代」
 天降川の中流域は新川温泉郷で妙見温泉や天降川温泉なと風情ある温泉が多くある。その新川温泉郷の北の端がラムネ温泉と塩浸温泉である。ラムネ温泉から北は天降川沿いの道もなくなり天降川は深い渓谷になる。その渓谷近くの岸壁に岩堂観音磨崖仏がある。岩堂観音磨崖仏へは、谷の北の尾根づたいに細い農道を降りていく。案内板がなければたどり着けない山の中にある。

 秘境を思わせる深い谷の大岸壁に、高さ1.4m、幅3.5m、深さ0.5mの龕を穿ち、阿弥陀三尊を厚肉彫りする。中尊は上品上生の阿弥陀如来で非常に量感のある充実した磨崖仏である。左右に観音・勢至の立像がある。観音像は両手で腰のあたりでしっかりと蓮台を持ち、目を細めて静かに佇んでいる。

 阿弥陀如来といえば、定朝作の平等院阿弥陀如来座像に代表されるような情感豊かな優美な仏といったイメージが強い。しかし、この阿弥陀如来は、逞しく力強く、どことなく上野公園の西郷さんの銅像の顔に似ていて、平等院像とは、また違った阿弥陀如来の慈悲の奥深さを感じられる秀作である。建武2年(1335)の銘があり、南北朝時代初期の作である。 



観音石仏50選(21)   下市磨崖仏観音像
大分県宇佐市安心院町下市 「室町時代」
 宇佐市安心院支所の北西、安心院大橋の近くの三女神社の西側の小丘陵の東と南の崖に10体ほどの仏像を彫られている。東崖には岩壁の亀裂を巧みに生かして向かって右から天部形像(多聞天?)・観音座像・阿弥陀如来座像・薬師如来立像・不動明王座像・矜羯羅童子の各像を薄肉彫りする。岸壁が南側へ曲がりこむ角には、阿弥陀如来座像2体が彫られ、南崖の上部には薄肉彫りの阿弥陀如来像が彫り出されている。不動明王座像は像高162pでやや頭を左に傾け、右目を天に向けて左目を地に向け、右手に剣を顔に合わせて傾けて持ち、左手を肩まで上げて羂索を持つ。観音菩薩は蓮華座に座す像高148pの聖観音像で宝冠をいただき右手に蓮華のようなものを持つ。

 この磨崖仏の西側は、「下市百穴」と呼ばれる横穴古墳群になっている。また、この磨崖仏の南西は、スッポンの養殖場て゛、現在、安心院町はスッポンのと葡萄の産地として知られている。



観音石仏50選(22)   上畑磨崖仏観音像
大分県竹田市上畑 桑迫 「 室町時代後期」
 竹田市炭竈の宮城台小学校の西の約600m上畑へ向かう道の北の山中にある。案内板が道沿いにあり、そこから急な階段を上ると、岩肌に張り付くように作られたお堂が見えてくる。凝灰岩の崖に、4つの深い龕を作り、13体の像を厚肉彫りに彫り出されている。

 メインとなるのは右から2つ目の第二龕で、像高110pの釈迦如来立像を中尊に左に地蔵菩薩(像高108p)右に観音菩薩(像高108p)を刻む。写実的な所もあるが、衣紋等の表現は形式的で室町末頃の制作と思われる。しかし、彩色が残り、4頭身で、こけしのような素朴な味わいのある三尊である。他の3つの龕には併せて5組の夫婦像と思われる比丘・比丘尼像が刻まれている。



観音石仏50選(23)   桃尾の滝如意輪観音石仏
奈良県天理市滝本町   「南北朝時代」
 桃尾の滝如意輪観音石仏は二重円光背を負って坐す像高43pの厚肉彫り像で、小作りながら技巧的に優れた石仏である。像の左に「奉起立行経」の刻銘があり、鎌倉後期から活躍する名工伊行経の作であることがわかる 



観音石仏50選(24) 仏頭石六観音
奈良県奈良市春日野町  「室町時代」
十一面観音
准胝観音
如意輪観音
聖観音
千手観音
馬頭観音?
 若草山の南麓の春日山遊歩道の入口ゲートの少し手前の山麓の小高いところに、仏頭石と洞の地蔵と呼ばれる倒れたままの地蔵石仏がある。 仏頭石は六角石柱に阿弥陀如来と思われる仏頭を丸彫りし、柱の各面に観音を刻んだ石仏で、頂上の仏頭は阿弥陀如来をあらわし、阿弥陀信仰に付随する六観音を配した珍しい石仏である。鎌倉時代からの花崗岩を刻む確かな技術の伝統が息づいた石仏である。



観音石仏50選(25)   福林寺跡磨崖仏観音像
滋賀県野洲市小篠原 「室町時代」
 野洲中学校の東の裏山の中に福林寺跡磨崖仏がある。野洲中学校の東側の遊歩道に沿って小川があり、その小川にかかる小さな橋を渡り、林道を10mほど進むと、観音と阿弥陀・地蔵の3体の磨崖仏がある。ともに、舟形光背を彫り込み、蓮華台に立つ像高30p〜50pの諸尊を半肉彫りする。形式化した室町後期の作風であるが、一番大きな観音菩薩像は端正な作で福林寺跡の磨崖仏群の中では一番の秀作である。

 3体の磨崖仏のある岩の奧に、丸顔のユーモアあふれる十三体の地蔵と思われる小さな像が浮き彫りされている。



観音石仏50選(26)   玉泉寺墓地六観音石仏
滋賀県高島市安曇川町田中3459 「室町時代後期」
千手観音
如意輪寺観音
不空羂索観音
馬頭観音
十一面観音
 玉泉寺本堂の北側の道を少し上ると、広大な玉泉寺墓地に出る。ここにも墓碑とともに多くの石仏・石造物がある。まず目に入るのは石鳥居で、鳥居をくぐった道の左側には、ずらりと中世の小石仏が並べられている。

  右手の樹の茂った下には大きな石仏がずらりと並んでいる。六観音と六地蔵である。共に六道教化を示す菩薩であり、よく墓地の入口に見られる。

  六観音は高さ約1.8m、厚さ約40pの石材に光背と観音像を彫りだしたものである。馬頭観音・如意輪観音など六臂・八臂の像の腕や各像の顔は体部に比べると大きく、アンバランスな表現となっていて、写実性に欠くが、整った表現の江戸時代や近代の六観音像に比べるとおおらかで、固い石材の魅力を生かした魅力ある石仏になっている。



観音石仏50選(27) 笏谷石の観音石仏
 福井県の朝倉氏の居城跡、一乗谷には、多数の石仏が残されている。一乗谷の石仏のほとんどは朝倉氏がさかえた16世紀の石仏である。日本全体で見ると16世紀は、造形的に見ると石仏の衰退期で、小型化・様式化・簡略化がすすみ、迫力のある魅力的な石仏はみられなくなる。しかし、この一乗谷の石仏は、細部を省略せず、細密に彫り出した、古様な表現であり、室町時代後期の石仏の中では異彩を放つ石仏群である。

 では、なぜそのような石仏がつくられたのだろうか。それは、京にあこがれつづけた戦国大名朝倉氏の存在である。朝倉氏の城下町、一乗谷は北陸の小京都として栄え、朝倉氏の庇護により多くの寺院が作られた。多くの石仏が残る西山光照寺や盛源寺は天台宗真盛派の寺院で、一乗谷の石造物造立の重要な担い手が、城主の朝倉貞景が帰依した特異な浄土教である天台宗真盛派である。もう一つは笏谷石(しゃくだにいし)という金鋸で切れるほど軟らかい凝灰岩の石材と古墳時代より続く越前の石の加工技術である。一乗谷の石造物のほとんどがこの笏谷石で、木彫と同じように加工できる笏谷石という石材が、細部を省略せず、細密に彫り出す、古様な表現を可能にした。 朝倉氏の治世下、石仏・石塔の需要が急増するとともに、笏谷石の採石と加工の技術が向上する。

 16世紀には、一乗谷はいうまでもなく、越前一円から北陸・近畿地方にも製品が移出された。朝倉氏が滅んだ後も滋賀県の西教寺二十五菩薩阿弥陀来迎石仏や側壁に半肉彫り像を刻んだ三国湊の瀧谷寺の石室、高野山奥の院の越前松平家石廟・富山県高岡市瑞龍寺石廟など笏谷石の優れた石仏がつくられた。
 
一乗谷の観音石仏
西山光照寺跡
福井県福井市安波賀町11-4 「室町後期」
 西山光照寺は一乗谷の北端近くにあった、最澄の創建と伝える古刹を、文明3年、朝倉孝景が真盛上人の高弟、舜盛上人を招いて再興した寺である。江戸時代に福井城下に移され(福井大仏観音のある光照寺)、廃寺となっている。

 本堂跡前の前の広場の両側に細長い向かい合わせの3棟の覆屋と、本堂跡を背にして広場の手前に不動と童子の安置する1棟の覆屋に、合わせて30数体の石仏がまつられていた。覆屋は現在は新しく立て直され、本堂跡にあった虚空像菩薩・阿弥陀如来をまつる覆堂も追加され覆堂は5棟になっている。

 向かい合わせになった細長い覆屋には多くの観音石仏か安置されているが、そのなかで5体が千手観音である。すべてよく似た表現の千手観音で、船形光背を負った面長の顔の半肉彫り像である。胸元で合掌する両手と腰のあたりで宝鉢を持つ両手、錫杖と宝戟(三叉戟)を持つ手の6臂を大きく表し、背中から出た左右各10臂前後の小さな手をまとめて表している。錫杖と宝戟はまっすぐ立てて持ち、柄は着衣の衣紋のように表現している。

 最初に訪れた時は南東側の覆屋向かって左側の阿弥陀と地蔵の前に、将棋の駒の形の板碑に浮き彫りされた十一面観音像が置かれていた。首のあたりで上下に割れていて、上部は継ぎ足す様にそっと置かれていた。2回目に訪れた時にはなくなっていて、虚空像菩薩・阿弥陀如来をまつる覆堂に下の部分だけ置かれていた。
 
盛源寺
福井県福井市西新町8-9 「室町後期」
 盛源寺は、朝倉館跡(義景屋敷跡)から一乗谷川を1qほどさかのぼった西新町にある天台宗真盛派の寺院で、真盛上人によって建立されたといわれている。真盛上人の高弟、舜盛上人の墓も残る。

 参道から境内に至るまで二百体ほどの石仏が、所狭しと並べられていて壮観である。 この十一面観音は参道に並べられた石仏の一番端の階段前にあり、蓮華を両手で持った立像で、引き締まった穏やかな顔が印象的である。
 
一乗谷朝倉義景墓所
福井県福井市城戸ノ内町 「江戸時代」
 朝倉氏館跡の南側に続く、木立の中に朝倉義景の墓地があり、石祠の中に墓塔が納められている。その石祠の右奥には室町時代の不動明王が安置されている。他に室町時代の石仏は見られない。不動石仏の手前には多くの墓石と2体の墓標仏と萬霊等が並んでいる。墓標仏は十一面観音と如意輪観音でともに四角形の二段の基壇の上に六角の墓標の石柱を置きその上に丸い基壇を挟んで蓮華座に座す丸彫りの十一面観音と如意輪観音を置く。如意輪観音の墓標には文政11(1828)年の紀年銘があり、江戸後期の造立であることがわかる。これらの像も笏谷石製で十一面観音の頭上面や十一面観音と如意輪観音の化仏など細かいところまで丁寧に彫られている。
 
引接寺の観音石仏
福井県越前市京町3丁目3-5  「室町後期」
 武生駅の西約800mにある引接寺(いんじょうじ)は天台宗真盛派の寺院で真盛上人の開山と伝えられている。2世住職は朝倉貞景の弟真慶で、その関係で朝倉氏の庇護を受けてさかえた。

 現在も2万u近い寺域を誇る大寺院で江戸末期に再建された本堂を始め庫裏・山門・大仏堂などを備える。境内には笏谷石に彫られた30数体の石仏がある。朝倉氏の遺物とみられており、一乗谷と同じように、地蔵・阿弥陀・観音・不動などの石仏が多い。

 特に、山門の近くにある地蔵と不動の石仏は3m近くの巨像で、迫力がある。不動像光背に弘治2年(1556年)の年記がある。この両石仏は夜半寺内を巡回したという伝説が残る。境内の南側には細長い覆屋があり、その中に18体の石仏が安置されている。これらの像の多くが阿弥陀像と観音像で西山光照寺跡の石仏群とよく似ている。
 
西教寺阿弥陀来迎二十五菩薩観音石仏
滋賀県大津市坂本5-13-1  「天正12年(1584) 安土桃山時代」
 大津市の西教寺(天台宗真盛派)には福井県でとれる淡い緑色を帯びた凝灰岩、笏谷石で彫った美しい阿弥陀来迎二十五菩薩石仏がある。天正12年(1584)に、近江栗田郡の富田民部進が、幼くして没した息女の、極楽浄土を願って、造立したものである。本堂前方西側の一段高い石垣の上に、阿弥陀如来を中心に、観音・勢至菩薩とともに阿弥陀如来に随行し、笙や横笛・琵琶・琴などを奏でる二十五菩薩の石仏が並んでいる(現在はレプリカが並べられ、本物は本堂内に安置)。阿弥陀如来の向かって右の蓮台を両手で持って立つ観音菩薩は穏やかな引き締まった顔がすばらしい。。
 
高野山奥之院越前松平家石廟阿弥陀来迎二十四菩薩観音像
和歌山県伊都郡高野町大字高野山550  「天正12年(1584) 江戸時代」
 奥之院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師の御廟を中心とした高野山最大の霊域である。一の橋から続く奥之院参道には、鬱蒼とした杉木立の中に武田信玄などの戦国大名をはじめ、鶴田浩二といった有名人など、20万以上の墓碑が並ぶ。その一角にあるのが越前松平家石廟で壁や柱を笏谷石を組み合わせかわらぶきの屋根を載せた石廟で2棟建てられていて、徳川家康の次男で越前松平家の家祖、結城(松平)秀康とその母の長勝院を祀っている。

 2棟の石廟の周囲の壁には、死者を極楽に迎える阿弥陀と二十四菩薩の姿が厚肉彫りされている。長勝院廟の阿弥陀と二十四菩薩は左右側面壁と背面は彫られている。右側面壁は各8体の菩薩、背面は中央に阿弥陀如来を置き、阿弥陀の左右にそれぞれ4体の菩薩が配置されている。蓮台を両手に持った観音菩薩は阿弥陀立像の向かって右下に置かれている。

 笏谷石と石工の技術は朝倉氏が滅んでも越前松平藩に受け継がれ、この高野山奥之院越前松平家石廟や高岡市瑞龍寺石廟などの優れた石造物がつくられていった。2棟の石廟の刻銘には越前の石工の名も記されている。笏谷石は



観音石仏50選(28) 文英様石仏の観音石仏
 秀吉の水攻めで知られる高松城のある岡山市高松付近を中心とした一体には、薄肉彫りと線彫りを組み合わせた素朴で独特な表現の石仏が百四十体あまりある。三角形の団子鼻と目尻の下がった三日月形の眼、小さなおちょぼ口を配した独特の面相が印象的である。現在これらの石仏は文英様石仏と呼ばれ、年銘資料から天文2年(1533)から天正10年(1582)に至る約50年の間に造立されたものであることがわかる。多くは地蔵菩薩であるが、十一面観音も三体見られる。
 
持宝院十一面観音石仏
岡山県岡山市北区立田 「天文14(1545)年
 持宝院にある十一面観音石仏には両側に『天文十四年乙巳三月吉日』と『福成寺 文英誌』の刻銘がある。花崗岩の石材に薄肉彫りと線刻で十一面観音をあらわしたもので、顔の部分は光背部を彫りくぼめて、薄肉彫りする。顔は胴体部と比べて大きく、中央の大きな鼻に特徴がある。剣菱形の蓮弁は薄肉彫りであるが、肩や手部は平坦部に線彫りしている。
 
常楽寺文英様石仏十一面観音石仏
岡山県岡山市東区草ケ部 「永禄10年(1567)」
 築地山常楽寺は奈良時代、報恩大師が開いたと言われる報恩大師開基・備前48寺の一つで、盛時には20余の院坊があったと伝える。文化年中に大半の堂宇を焼失し、その後再建された。明治16年再び大部分を焼失し、現在は山門と近年改築された本堂がある。築地という地名は山中に弘法大師が築いたという築地があることから地名がついたと言われる。実際、常楽寺の裏山、大廻山・小廻山の山頂近くには土塁(築地)が谷部には石塁が残っていて、古代の山城の跡だという。

 その裏山から戦後の開墾によって発見された文英様石仏が17体、常楽寺の旧客殿下の石垣下に祀られている。すべて、高さ80cm〜30cmの小石仏で、十一面観音像、1体を除いて他は地蔵石仏と思われる。高松平野によく見かける錫杖と宝珠を持つ延命地蔵は見あたらず、合掌印が多い。また、放射光の頭光の光背を背負い、法界定印の比丘形像(地蔵?)も3体見られる。同じ文英様式でも、顔の形が、まん丸・角張った丸・長円・瓜実顔など様々あり、表情も少しずつ違い、それぞれ個性的である。

 放射光光背を負う法界定印の比丘形像の文英様石仏は山陽町の千光寺にも、2体見られ、その内の1体に永禄10年(1567)の紀年があることから、放射光光背を負う法界定印の比丘形像は文英様石仏の末期の作と思われる。
 
報恩寺4号石仏
岡山県岡山市北区門前166 「天文3年(1534)」
 JR吉備線「足守」駅近くの岡山市門前には8体の文英様石仏がある。その内4体は、報恩寺の墓地に集められている。報恩寺2号石仏(高さ114cm)は延命地蔵座像で、顔は瓜実顔で様式的には遍照寺1号石仏のながれを組む石仏であるが、顔以外は線彫りに近く、稚拙な表現で、遍照寺1号石仏よりやや下ったころの作と思われる。4号石仏(高さ68cm)は四角形の板状の石材に周囲を彫りくぼめ浮き彫りにした十一面観音の頭部像で、「天文3年(1534)」の年号が刻まれている。一見すると稚拙で抽象的な表現の石仏であるが、石という素材が生きていて、個人的には気に入っている石仏である。

観音石仏50選(2)