地蔵石仏100選V
室町時代〜江戸時代 
 
 室町時代になると奈良や大阪、伊賀では寺院の境内や墓地、街道の辻などに多くの地蔵石仏が造られた。しかし、鎌倉期のような力強さや写実性は薄れ、形式的な石仏が多くなり、造形的な魅力は弱くなる。しかし、治田地蔵磨崖仏・牛ヶ峰六地蔵磨崖仏などの磨崖仏は岩自体の魅力が補ってそれなりの見ごたえがある。

 その他、遊行する地蔵が、救済に漏れた衆生を、見身を振り替えして救済する姿を表した五劫院見返り地蔵や、左手に宝珠を持ち右手は阿弥陀の来迎印のように親指と人差し指を結んだ独特のスタイルの地蔵の矢田寺味噌なめ地蔵なども魅力がある。

 室町時代になると地蔵信仰は全国に広がり各地で地蔵石仏か造られた。その中には大和の地蔵石仏とは違った特色ある地蔵石仏か生まれた。その一つが盛源寺地蔵石仏などの福井県の一乗谷の石仏である。笏谷石(しゃくだにいし)という軟らかい石材を使って細部を省略せず、細密に彫り出した、古様な表現の石仏である。 室町後期の地蔵石仏の中で特色ある地蔵石仏が岡山市高松付近に多数みられる室町後期に造立された大崎廃寺跡文英石仏などの文英様石仏である。

 大阪の豊能町の特色ある石仏として、阿弥陀仏を主仏として、その下部に多数の僧形座像を彫った多尊石仏があげられる。大分県では彩色の跡が残る厚肉彫りの地蔵像の磨崖仏、杵築市の棚田地蔵磨崖仏、竹田市の上畑磨崖仏なども特色ある地蔵石仏である。

 江戸時代になると、各地で、地蔵講や地蔵盆などがひろがり、念仏供養、回国供養その他色々な供養塔の主尊として、墓碑として、地蔵石仏の造立は非常に多くなる。そのため、関西地区を中心に現在では石仏=地蔵というイメージが定着している。しかし、江戸時代の地蔵石仏(特に関西地区)は造形的には鎌倉時代のそれに比べると、形式化し魅力はなくなる。

 そのような江戸時代の地蔵石仏の中で滝本墓地地蔵磨崖仏・正暦寺地蔵石仏・南椿尾地蔵磨崖仏などは鎌倉時代以来の伝統を受け継いだ秀作といえる。江戸時代中期以降になると室町から江戸初期の形式的な表現から稚拙であるが民衆の息吹を感じられる魅力的な地蔵石仏を生み出す。

 江戸時代になって地蔵信仰は民間信仰と結ばれて広まり、子育・火防・盗難除・病気平癒など庶民のあらゆる願いをかなえてくれる仏として造立された。また、各地に地蔵講が結成され、月の24日を地蔵の縁日として祈るようになり、秋の地蔵盆は子供たちを楽しませてきた。

 このような民間信仰としての地蔵信仰の広がりは、江戸時代になると、子供を抱いた子育地蔵などバラエティーに富んだ造形につながり、室町から江戸初期の形式的な表現から稚拙であるが民衆の息吹を感じられる魅力的な地蔵石仏を生み出す。冥府において亡者を救う思想は、子を失った親たちの信仰を集める。地蔵と子供は強く結びつき、子育地蔵・子安地蔵の名で信仰されている地蔵も各地にある。江戸時代末期のユニークな石仏群で知られる修那羅山安宮神社の代表的な石仏の多くも子育て地蔵である。

 長野県を中心にで江戸時代優れた地蔵石仏を造ったのが、高遠の石工、守屋貞治である。諏訪の温泉寺の住職・願王和尚に帰依し個性的である種の精神性を感じられる石仏を次々と造立していった。
地蔵石仏100選T   地蔵石仏100選U



地蔵石仏100選(69) 矢田寺の地蔵石仏
奈良県大和郡山市矢田町3549
 矢田山金剛山寺は「矢田のお地蔵さん」で親しまれている寺院で矢田寺と一般に呼ばれている。下記のような縁起が残っていて地蔵信仰のメッカとして有名。

 平安時代前期、矢田寺の満米上人が閻魔王庁に招かれて、菩薩戒を授けたという。そのあと地獄で、衆生に代わって 責苦を受ける地蔵菩薩を拝し心を打たれ、帰ってすぐにそのお姿を刻もうとしたが、 思うようには彫れなかった。 しかしある日、上人の前に春日明神なる四人の翁が現れ、地獄で見た地蔵菩薩を作ったという。

 このような縁起の持つ地蔵が矢田寺本堂にまつられた地蔵で、左手に宝珠を持ち、右手は阿弥陀の来迎印のように親指と人差し指を結んだ独特のスタイルの地蔵である。現在、このような姿の地蔵を 「矢田型地蔵」と呼んでいる(寺に伝わる矢田地蔵縁起絵巻には、宝珠を持たない姿も描かれている。)

 境内には多くの地蔵石仏があるが多くはこの「矢田型地蔵」である。
味噌なめ地蔵 「室町時代」
 矢田寺はあじさい寺としても知られていで、あじさいのシーズンには多くの参拝者で賑わう。あじさい園の入口付近にある「味噌なめ地蔵」は矢田寺では最も知られている地蔵石仏で、あじさいの花に囲まれた姿は印象的である。

 「味噌なめ地蔵」と呼ばれるのは、自家製の味噌の味が悪くなり、困って近在の農婦が、「味噌を食べさせてくれたら、良い味にしてやろう」と夢で石の地蔵のお告げを受け、矢田寺に行き、夢に立たれたお地蔵様を見つけ、味噌をその口許にぬったところ、家の味噌は味がおいしくなっていたという話による。

 高さ210p、横1mの長方形の石材の表面に等身大の矢田型地蔵を半肉彫りしたのである。納衣の衣紋等は刻まれておらず、未完成の石仏のように見える。光背面に多数の施主名が刻まれているが、年号は見当たらない。引き締まった優しい顔をしていて室町初期をくだらない時期の作と思える。(寺の説明板には鎌倉時代となっている。) 
見送り地蔵 「永正12(1515)年 室町時代」
 参道階段の途中に立つ「見送り地蔵」が矢田寺では最も古い永正12(1515)年の紀年銘を持つ。「見送り地蔵」とは、地蔵前の石垣内に置かれた石より、春日四明神を見送ったという故事によるものである。右手は親指と人差し指を結んだ阿弥陀の来迎印で、左手は指を丸め宝珠を持つような形であが、宝珠は持っていない。この姿は、春日明神の本地仏の地蔵の姿であるといわれている。


   
地蔵石仏100選(70)   新薬師寺地蔵石仏
奈良市高畑町1352 「永正3(1506)年 室町時代」
 新薬師寺の境内の南の端の地蔵十王石仏など多くの石仏を集めた覆堂にある。高さ180pの船型光背を背負った、右手に錫杖、左手に宝珠を持った蓮華座に立つ像高121pの地蔵菩薩の半肉彫り像である。

 像の左右に「為八万四千大塔婆供養也 永正三年丙寅二月廿四日寺家宗」の刻銘があり、重宗なる人物が、八万四千の塔婆の供養のため造立したことがわかる。(インドの阿育(アショカ)王が八万四千もの仏舎利塔を 各地に建立し仏教を全国に広めた故事に由来する。)室町時代になると庶民の中でも塔婆造立供養が盛んにおこなわれるようになり、そのような供養のためにこの地蔵石仏が造られた。



地蔵石仏100選(71)   五劫院の地蔵石仏
奈良市北御門町24
 五劫院は鎌倉時代、重源上人が中国から将来した五劫思惟阿弥陀仏像を本尊とする華厳宗の寺院である。鎌倉時代の重源上人についで江戸時代、東大寺大仏殿を再建した公慶上人の墓が、本堂裏の墓地にある。その墓地の入口の小さな覆堂に2体の等身大の地蔵石仏が安置されている。
五劫院見返り地蔵 「永正13(1516)年 室町時代」
2体の向かって左の像が見返り地蔵である。高さ約2mの船型光背形に造った安山岩に高さ152pの地蔵立像を厚肉彫りしたもので、錫杖を軽く肩に当てて、右足を踏み出して、顔をやや左に見返り、体を斜めに向けて歩く姿を表した地蔵である。衣の裾は後にたなびいている。

 遊行する地蔵が、救済に漏れた衆生を、見身を振り替えして救済する姿を表したものである。像の左側に永正十三(1516)年の刻銘があり、室町中期の作であることがわかる。
五劫院地蔵石仏 「室町時代」
 覆堂の2体の地蔵石仏の向かって右の像がこの像である。花崗岩製で見返り地蔵と同じく約2mの船型光背を背負った像高150pほどの厚肉彫り像である。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ通常の姿の地蔵である。鎌倉期の地蔵のような力強さはないが、繊細な表情の、室町時代としては優れた出来栄えの地蔵である。

 頭上に地蔵の種子「ア」を刻み、右に「三界万霊」、左に「念仏講中」と多数の法名の刻銘がある。


   
地蔵石仏100選(72)   正暦寺南大門跡地蔵石仏
奈良市菩提山町157番地 「享禄4(1531)年 室町後期」・「室町後期」
  奈良市の南部、菩提山川沿いにある正歴寺は、正暦3(992)年、一条天皇の勅命を受けて兼俊僧正(藤原兼家の子)によって創建され寺院で、紅葉の名所で、日本清酒発祥の地として知られている。
 菩提山川沿いの正歴寺南大門跡の大杉の下に2体の等身大の地蔵石仏が立っている。向かって左の地蔵は船型光背を背負った宝珠と錫杖を持つた像高116pの地蔵立像である。穏やかな顔のまとまった姿の地蔵である。室町時代、享禄四(1531)年の紀年銘がある。
 向かって右の地蔵は蓮弁を刻んだ頭光背を負った丸彫りの地蔵で宝珠と錫杖を持つ。室町時代後期から江戸初期の作と思われる。


   
地蔵石仏100選(73)   円成寺地蔵石仏
奈良県奈良市忍辱山町1273 「室町後期」
 忍辱山には運慶の若き頃の作である大日如来座像(国宝)で知られた円成寺がある。円成寺は奈良時代の創建と伝えられる古寺で、定朝様式の阿弥陀如来や来迎二十五菩薩の壁画が残る阿弥陀堂・史跡にしてされた平安時代の庭園などみどころの多い寺である。

 石仏は室町時代が中心で古いのはない。本堂の西側に三体の石仏が並んでいる。向かって右側から舟形光背を負った厚肉彫り阿弥陀如来、真ん中に永禄元(1558)年の地蔵菩薩、左に丸彫りのに近い地蔵菩薩である。3体とも室町時代の石仏で鎌倉時代の石仏と較べると、衣紋等は抽象的で、様式化が進んでいる。

 真ん中の永禄元(1558)年の地蔵菩薩は船形光背を背負った、蓮華座に立つ錫杖、蓮華持ちの像高70pの半肉彫り像で、典型的な室町時代の様式を示す。向かって左に端の地蔵は像高86pの錫杖・宝珠の座像で頭部は、丸彫りに近い掘り出しである。この像も室町後期の作である。


   
地蔵石仏100選(74)   牛ヶ峰六地蔵磨崖仏
奈良県山辺郡山添村牛ヶ峰 「室町時代」
 山添村の北端にダム湖の布目湖がある、その布目湖の東岸にある共同墓地の入り口の階段横に牛ヶ峰六地蔵磨崖仏がある。もとは少し南のダムによって水没した川べりの辻にあったものである。道を挟んだ墓地の向かいは線彫りの大日如像のある牛ヶ嶺岩屋桝形への参道登山口となっている。

 高さ80p、幅2mほどの平たい岩に高さ50p、幅115pの枠を彫りくぼめ、像高43pの六地蔵を半肉彫りする。小さな磨崖仏であるが一体一体丁寧に彫られていて、左から合掌・古式・幡・柄香炉・梵篋(ぼんきょう)・錫杖と宝珠の姿の地蔵である。


   
地蔵石仏100選(75)   不動橋地蔵磨崖仏
奈良県桜井市八井内 「天文23(1554)年 室町後期」
 談山神社近くの八井内という集落のはずれ、不動延命の滝の近くに大きな岩に「破れ不動」と呼ばれる室町後期の不動磨崖仏がある。その不動磨崖仏から少し離れた民家の横に丁石と大きな岩に彫られた地蔵磨崖仏がある。

 大きな岩の突き出た下の面に左手で宝珠を持ち、右手で錫杖を斜めに持つた像高92pの地蔵立像を半肉彫りしたもので、像の横に天文廿三(1554)年の紀年銘がある。丁石の隣には「南無阿弥陀仏岩」と刻まれた石碑が立っている。顔をはじめ衣紋の表現など形式的で写実性に欠けるが、岩持つ迫力が魅力ある石仏にしている。


   
地蔵石仏100選(76)   治田地蔵十王磨崖仏
三重県上野市治田 「室町時代」
 名阪国道「五月橋インター」の東方、名張川に沿って南へ2qばかり進むと、名張川の右岸にある山添村村立のキャンプ場がある。そのキャンプ場の対岸に大小の岩壁が見える所がある。その岩壁の向かって右端の岩面に薄肉彫りと線刻を組み合わせて彫られた大きな地蔵立像がある。地蔵菩薩の右下と左下に十王像が彫られている。治田地蔵十王磨崖仏である。

 地蔵立像は右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿で、衣紋の線は大まかで、顔も品位が感じられず鎌倉期の磨崖仏に比べると劣る。しかし、川岸の岩の魅力と高さ4mという大きさがそれを補い、一見の価値のある磨崖仏である。像の左右の十王は左が閻魔王、右が太山王である。

 近くに吊り橋があり、歩いて対岸に渡ることができ、近くの岩に残りの十王が彫られていることか確認できる。下流に高山ダムがあるため雨期には下方が水没してしまう。


   
地蔵石仏100選(77)   地福寺地蔵石仏
三重県伊賀市荒木 「室町後期」
  北向三体地蔵磨崖仏のある上野市南寺田と服部川を挟んで南にある集落が上荒本である。その上荒本に真言宗豊山派の地福寺という寺があり、その入り口の地蔵堂にこの地蔵石仏がある。

 高さ3m幅1mあまりの大きな石の角に円形の彫り窪みをつくり、岩座に半跏で座る地蔵菩薩を厚肉彫りしたもので、右手で錫杖を持ち、左でで宝珠をかかげる延命地蔵である。元は服部川の川岸にあったという。


   
地蔵石仏100選(78)   余野十三仏
大阪府豊能郡豊能町余野中所 「永禄7年(1564) 室町後期」
 大阪の豊能町の特色ある石仏として、阿弥陀仏を主仏として、その下部に多数の僧形座像を彫った多尊石仏があげられる。そのような多尊石仏の中で地蔵石仏を主尊としたものとして余野十三仏がある。永禄7(1564)年の紀年銘がある。高さ1mあまりの自然石の表裏に浮彫りされていて、片面は錫杖を持った地蔵を中心に、反対側は阿弥陀如来?を中心に合掌する僧形座像が表裏各19体彫られている。


   
地蔵石仏100選(79)   少菩提寺跡三体地蔵脇侍
滋賀県湖南市菩提寺1731  「室町時代」
 (38)少菩提寺跡三体地蔵の両脇の地蔵は少し時代の下った室町時代の作で、中央の地蔵を手本として、制作されたものと思われる。阿弥陀如来の脇持の観音・勢至菩薩のように右の地蔵には蓮華を持たせ(右手に未開蓮、左手に宝珠を持つ)、左の地蔵は合掌像にしている。中央の地蔵を手本として、制作されたものと思われるが、中央像に比べると伸びやかさに欠け形式化した表現となっている。



地蔵石仏100選(80) 一乗谷の地蔵石仏
 福井県の朝倉氏の居城跡、一乗谷には、多数の石仏が残されている。一乗谷の石仏のほとんどは朝倉氏がさかえた16世紀の石仏である。日本全体で見ると16世紀は、造形的に見ると石仏の衰退期で、小型化・様式化・簡略化がすすみ、迫力のある魅力的な石仏はみられなくなる。しかし、この一乗谷の石仏は、細部を省略せず、細密に彫り出した、古様な表現であり、室町時代後期の石仏の中では異彩を放つ石仏群である。

 では、なぜそのような石仏がつくられたのだろうか。それは、京にあこがれつづけた戦国大名朝倉氏の存在である。朝倉氏の城下町、一乗谷は北陸の小京都として栄え、朝倉氏の庇護により多くの寺院が作られた。多くの石仏が残る西山光照寺や盛源寺は天台宗真盛派の寺院で、一乗谷の石造物造立の重要な担い手が、城主の朝倉貞景が帰依した特異な浄土教である天台宗真盛派である。もう一つは笏谷石(しゃくだにいし)という金鋸で切れるほど軟らかい凝灰岩の石材と古墳時代より続く越前の石の加工技術である。一乗谷の石造物のほとんどがこの笏谷石で、木彫と同じように加工できる笏谷石という石材が、細部を省略せず、細密に彫り出す、古様な表現を可能にした。
盛源寺地蔵石仏
福井県福井市西新町 「天文6(1537)年 室町後期」
 盛源寺は、朝倉館跡(義景屋敷跡)から一乗谷川を1qほどさかのぼった西新町にある天台宗真盛派の寺院で、真盛上人によって建立されたといわれている。真盛上人の高弟、舜盛上人の墓も残る。

 参道から境内に至るまで二百体ほどの石仏が、所狭しと並べられていて壮観である。中でも境内の不動明王<弘治2(1556)年在銘>と地蔵菩薩<天文6(1537)年在銘>は、量感もあり、一乗谷の石仏の最高傑作である。参道におかれた石仏も天文・弘治・永禄頃の朝倉氏全盛時代のものである。

 地蔵菩薩は飛雲の薄肉彫りで飾られた船形光背を背負った、長身の厚肉彫り像で、錫杖と宝珠を持つ。円形頭光を陽刻し、上部に弥陀の種子を刻む。船形光背には月輪が6つあり、六地蔵の種子を刻む。気品の漂う物静かな顔の地蔵石仏である。
 
西山光照寺跡地蔵石仏
福井県福井市阿波賀中島 「享禄3年(1530) 室町後期」
 西山光照寺は一乗谷の北端近くにあった、最澄の創建と伝える古刹を、文明3年、朝倉孝景が真盛上人の高弟、舜盛上人を招いて再興した寺である。江戸時代に福井城下に移され(福井大仏観音のある光照寺)、現在、廃寺となっている。本堂跡付近には舜盛上人の供養塔や 虚空蔵菩薩の石仏が残る。

 本堂跡に至る参道両側には、簡素な石仏堂がつくられ、大永(1521〜28)・天文(1532〜55)・永禄(1558〜80)などの古い銘を残す石仏が40体近く安置されていて、往年の栄華を物語っている。特に目立つのは地蔵菩薩や阿弥陀如来・不動明王で、他に善光寺式阿弥陀三尊や如意輪観音・千手観音なども見られる。

 最も古い在銘石仏は享禄3年の地蔵立像で、長く大きい船形光背の前面に錫杖と宝珠を持つ長身の地蔵を厚肉彫りする。陽刻線の円形頭光の上部の月輪に弥陀の種子を刻む。盛源寺地蔵石仏と同じく、飛雲の薄肉彫りで飾られた船形光背のまわりの小月輪に六地蔵の種子が刻まれている。このような精密な加工は笏谷石と越前の石工の加工技術が可能にしたものである。参道沿いの石仏堂にある不動石仏と共に西山光照寺跡の石仏で見逃すことができない秀作である。


地蔵石仏100選(81)   山崎六地蔵
岡山県総社市下原字山崎 「室町時代」
六地蔵
不動明王・六地蔵
 総社市下原の高梁川岸近くに六地蔵と不動の磨崖仏がある。露出した花崗岩の断崖を、幅約3.6m、高さ3mに削り取り磨き、これを3区に分け、1区に2体つづの地蔵を舟形の中に半肉彫りしたもので、岡山県の重要文化財に指定されている。

   各像の高さは40pほどで、六体とも左手に宝珠を持ち、右手に錫杖を持つ延命地蔵で、頭部が大きく愛らしい表情が印象に残る。下に単弁の蓮座を線彫りする。六地蔵は、六道に輪廻転生する衆生を救済する地蔵の姿を表したもので、印相・持ち物は六体異なるのが本来の姿であるが、時代が下るに従って六体とも同じ像形のものも作られるようになった。

 「恭借十万信男信女力労為法界衆生利益故」 「應永五戈寅八月 日 北斗代 大願主道清 宮」 の銘文があり、室町初期の応永5年(1398)年に大願主道清が十万の男女信徒の合力を得て法界衆生の為に造立したのがわかる。

 六地蔵の左端に地蔵とほほ同じ大きさの不動明王座像が半肉彫りされている。この不動も六地蔵とおなじような穏やかな表情であるが、彫りは伸びやかさに欠ける。制作年代は六地蔵より下ると思われる。


地蔵石仏100選(82)   大崎廃寺跡地蔵石仏
岡山県岡山市北区大崎 「天文4(1535)年 室町後期」
 秀吉の水攻めで知られる高松城のある岡山市高松付近を中心とした一体には、薄肉彫りと線彫りを組み合わせた素朴で独特な表現の石仏が140体あまりある。三角形の団子鼻と目尻の下がった三日月形の眼、小さなおちょぼ口を配した独特の面相が印象的である。現在これらの石仏は文英様石仏と呼ばれ、年銘資料から天文2年(1533)から天正10年(1582)に至る約50年の間に造立されたものであることがわかる。

 文英様石仏と呼ばれるのは、これらの様式の石仏の先駆となった四体の石仏に「文英」と人名が刻まれいるためである。その四体とは、岡山市中島の関野家裏1号石仏と関野家前の文英座元石仏、岡山市大崎の大崎廃寺跡地蔵石仏および持宝寺十一面観音石仏である。

 これらの石仏には、「文英施」「天文三年五月」(関野家裏1号石仏)、「念佛講文英筆」「天文四年乙未五月□日」(大崎廃寺跡地蔵石仏)、「天文十四年三月吉日」「福成寺文英誌」(持宝寺十一面観音石仏)、「英座元」(文英座元石仏)の銘文がある。これらの銘文から、文英は、福成寺(高松地区の平山にその廃寺跡がある)に所属する僧侶で、念仏講を主催する、天文三年(1534)から天文十六年(1547)にかけて、これらの石仏を彫った、もしくはこれらの石仏の下絵や下図を書いたと考えられる。

 天文四年(1535)の紀年銘の持つの江口家墓地1号石仏(岡山市門前)、天文三年(1534)の紀年銘の持つ報恩寺4号石仏(岡山市門前)、銘はないがほぼ同じ頃の制作と考えられる遍照寺1号石仏などの石仏も、文英銘の石仏と同じ薄肉彫りと線彫りを組み合わせた独特な表現で、文英や文英と関係する人々が係わったと考えられる。

 同じような表現の石仏(文英様石仏)は、高松平野(岡山市)を中心に総社・足守地区(総社市・岡山市)、山陽盆地(山陽町・赤坂町)、旧上道郡地区(岡山市)に148体見つかっている。それらは、天文年間(1532〜1554)から天正10年(1582)にかけての戦国動乱の真っ最中の約50年間の造立で、延命地蔵を中心に十一面観音・客人(まれびと)大明神・法華題目・厳島弁財天などの雑多な神仏が彫られている。「為逆修」「預修□□」「為妙善」「念仏講」「庚申衆」などの銘文から、追善供養・個的供養のため、文英に代表される半僧半俗的性格を持つ僧の指導の下、吉備の民衆によって造立されたものと考えられる。

 仏像の基本図像や規範に縛られることなく、自由に表現した素朴で力強い文英様石仏は、戦国時代の民衆の息吹が感じられる全国に類例の見ない魅力的な石仏群である。

 その文英様石仏の秀作が大崎廃寺跡にある延命地蔵石仏(高さ123cm)である。頭部は薄肉彫り、胴体部や剣菱形の蓮弁は線彫りという、典型的な文英様石仏の表現で、まん丸の顔に大きな三角形の団子鼻、三日月形の大きな目が印象的な、文英様石仏を代表する作である。『念佛講文英筆 天文四年乙未五月日』の記銘がある。水田の畦の横に祀られていて、回りは水田で、秋には黄金に実った稲穂の中に佇む。


地蔵石仏100選(83)   遍照寺地蔵石仏(1号石仏)
岡山県岡山市北区立田 「室町後期」
 大崎廃寺跡の東にある遍照寺の墓地にある遍照寺地蔵石仏(1号石仏、高さ106cm)である。大崎廃寺跡地蔵石仏と同じ円光光背を負う延命地蔵座像の薄肉彫りである。しかし、全体的な印象は大崎廃寺跡地蔵石仏と異なる。大崎廃寺跡地蔵石仏は無骨な農夫のような素朴さが魅力的であるのに対して、遍照寺1号石仏は、尼僧を思わせる上品な美しさが魅力である。鼻は大崎廃寺跡地蔵石仏と同じ団子鼻であるが、顔の形は瓜実顔で、目はまっすぐな小さな目で、おちょぼ口である。胴体部や蓮弁も線彫りというより浮き彫りに近く、非常に丁寧に彫られた美作である。



地蔵石仏100選(84)   棚田地蔵磨崖仏
大分県杵築市山香町大字下字棚田 「室町時代」
 旧道沿いの棚田集落の民家の裏の山際の岩壁に7体の地蔵が彫られている。厚肉彫りで、彩色されていて、瓦葺きの立派な覆堂を兼ねた礼堂が建てられている。

 中央の地蔵像は結跏趺坐し、定印の掌に宝珠を持つ座像で、他の像より一廻り大きい。像の額から上は欠損している。向かって左には錫杖が立てかけるように別個に彫られている。中尊の左には3体の地蔵立像が彫られていてる。中尊の左横の地蔵の持つ宝珠は蓮台のように見える。向かって右には2体の地蔵立像と地蔵菩薩半跏像が彫られている。破損していてわかりにくいが半跏像は左手を頬に当てた思惟像のように見える(弥勒菩薩などの思惟像は普通は右手)。



地蔵石仏100選(85)   上畑磨崖仏
大分県竹田市上畑 桑迫 「室町後期」
 竹田市炭竈の宮城台小学校の西の約600m上畑へ向かう道の北の山中にある。案内板が道沿いにあり、そこから急な階段を上ると、岩肌に張り付くように作られたお堂が見えてくる。凝灰岩の崖に、4つの深い龕を作り、13体の像を厚肉彫りに彫り出されている。

 メインとなるのは右から2つ目の第二龕で、像高110pの釈迦如来立像を中尊に左に地蔵菩薩立像(像高108p)右に観音菩薩立像(像高108p)を刻む。写実的な所もあるが、衣紋等の表現は形式的で室町末頃の制作と思われる。しかし、彩色が残り、4頭身で、こけしのような素朴な味わいのある三尊である。地蔵は両手を胸の前で組んで宝珠を持ち、やや垂れ目の顔は穏やかで優しい。他の3つの龕には併せて5組の夫婦像と思われる比丘・比丘尼像が刻まれている。



地蔵石仏100選(86)   滝本墓地地蔵磨崖仏
奈良県天理市滝本町 「江戸初期」
 桃尾の滝は落差23mの小さな滝であるが、「布留の滝」として古今集に詠まれ、古くから親しまれている。桃尾の滝は明治に廃絶した桃尾山蓮華王院龍福寺の境内地にになっていた。桃の尾の滝周辺には鎌倉時代の不動三尊磨崖仏や如意輪観音石仏など多くの石仏・磨崖仏がある。

 桃尾の滝から山道を400mほど登ると龍福寺跡(現在は大親寺)に出る。その山道の途中、少し脇道に入ったところに墓地があり、その墓地の奥に地蔵菩薩の磨崖仏がある。高さ3mほどの岩肌に、長方形の彫り込みをつくり、像高約90pの、宝珠と錫杖を持った地蔵立像を半肉彫りしたものである。

 年号はなく法名と「七月十五日」の日付などの刻銘があるが年号は見当たらない。端整な顔立ちで南北朝時代から室町時代の作と一瞬見えたが、よく見ると、蓮弁は細く弱く単調な表現で衣紋も形式的で、安土桃山から江戸時代の作と考えられる。



地蔵石仏100選(87)   南椿尾地蔵磨崖仏
奈良県奈良市南椿尾町 「江戸初期」
 「椿尾町」のバス停付近の道の上手に立っている地蔵石仏横の細い道を登ったところに地蔵岩がある。地蔵岩には地蔵・阿弥陀の双仏・阿弥陀・梵字仏・五輪塔・宝篋印塔・など合計43点が刻まれていて、五輪塔に江戸初期の「元和元(1615)年」の刻銘がある。地蔵岩の右上の地蔵像が最も大きく、作風もよい。船型の彫り窪みをつくり、錫杖と宝珠を持った厚肉彫り地蔵立像である。岩肌に藤の木が巻き付いていて、野の仏らしい風情を見せている。



地蔵石仏100選(88)   福林寺跡多尊地蔵磨崖仏
滋賀県野洲市小篠原 「江戸時代」
 野洲中学校の東の裏山の中に福林寺跡磨崖仏がある。野洲中学校の東側の遊歩道に沿って小川があり、その小川にかかる小さな橋を渡り、林道を10mほど進むと、観音と阿弥陀・地蔵の3体の磨崖仏がある。形式化した室町時代の作風であるが、一番大きな観音菩薩像は端正な作で福林寺跡の磨崖仏群の中では秀作である。

 その3体の磨崖仏のある岩の奧にある、木の下の平たい岩の側面には、十三体の地蔵菩薩と思われる小さな像が並べて浮き彫りされている。いずれも両手を胸前に合掌していて、顔はすべて独特の丸顔で、ユーモアあふれる群像である。制作年代は江戸時代のと思われる。稚拙な作品であるが、福林寺跡磨崖仏の中では最も印象に残る石仏である。 



地蔵石仏100選(89)   岩角山磨崖仏案内地蔵
福島県本宮市和田東屋口 「江戸時代」
 本宮市と二本松市との境に位置する岩角山(いわつのやま)に、仁寿元年(851年)慈覚大師が開基したとつたえられる岩角寺(がんかくじ)がある。岩角山はわずか標高337メートルの小さな山ながら、うっそうとしたしげった杉の木々や、、山中に点在する巨岩奇石そして那須連峰や阿達太良山を一望できる山頂からの眺めなど、魅力的な山である。巨岩奇石の多くには線刻の磨崖仏が彫られていて、岩角山観光協会の案内板には八百八体の仏が刻まれていると記されている。現在、約200体の磨崖仏(磨崖梵字も含む)が確認されている。

 これらの磨崖仏は元禄年間以降に彫られたもので、その中でも最も古いものが、元禄3(1690)年の紀年銘を持つ養蚕(こがい)観音とよばれる厚肉彫りの聖観音である。この観音は二本松城主丹羽光重が元禄3(1690)年に霊夢のお告げにより、養蚕業を興すにあたり刻ませたものである。

 丹羽光重は住僧豪伝和尚とともに、岩角寺を再興し、養蚕観音造立をはじめて毘沙門堂などの諸堂の再建、三十三所観音などの線刻磨崖仏造立をすすめた。三十三所観音など線刻磨崖仏には奉納した寄進者施主名が刻まれていて、人々の信仰に支えられて岩角寺が栄えたことがわかる。

 養蚕観音とともにこの磨崖仏群の白眉は案内地蔵と呼ばれる地蔵立像で、城主丹羽光重が亡くした子どもへの供養のために刻んだといわれている。巨大な岩の岩肌に船形の薄い彫りくぼみをつくり、蓮華座に立つ右手に錫杖、左手に宝珠を持った 地蔵を板彫り風に浮き彫りにした地蔵で、高さ3mの巨像である。「仙人院殿恵雲童女」の刻銘がある。巨大な石壁と低い石の間に生じた長さ2m、幅35pの地獄道といわれる狭い道を通り見上げると見ることができる。地獄の4寸道を抜けてきた者を極楽へ案内する地蔵といわれ、「案内地蔵」として信仰を集めてきた。      


地蔵石仏100選(90)   大山寺吉持地蔵
鳥取県西伯郡大山町大山 「江戸時代」
 大山の中腹にある大山寺境内やその周辺には多くの地蔵石仏がある。古い地蔵石仏は見あたらずほとんど江戸時代以降の造立と思われ、魅力を感じる地蔵石仏はあまりなかった。その中で唯一興味を引いたのは大山寺から大神山神社奥宮に続く石畳の参道脇の岩に彫られた吉持地蔵である。江戸中期、会見郡の長者吉持甚右衛門が、経悟院住職・豪堅に仲を持ってもらい、農業用の水路の完成を願って寄進したものである。

 参道の横の大きな岩の参道側の岩面に船形の彫りくぼみをつくり、右手を与願印、左手で宝珠を持つ蓮華座に立つ地蔵菩薩を半肉彫りしたものである。よく見ると、おおざっぱで形式的な表現で、写実性に欠く地蔵である。しかし、周りの緑の自然と岩の持つ迫力がこの地蔵を引き立てていて、それなりに見ごたえがある。



地蔵石仏100選(91)   力石二体地蔵
香川県さぬき市多和力石 「江戸時代」
 円と三角形と直線の組み合わせによって表現されたあどけない顔の素朴な二体の石仏で、2体とも石材の向かって左端から伸びた細い右手で棒のようなもの(錫杖?)を持ち、左端から伸びた細い手で片手拝みをする像で、棒を振って遊んでいる幼児のような、古墳時代の埴輪のような、プリミティブな表現の像である。


地蔵石仏100選(92)   四国八十八ヶ所霊場の地蔵石仏
 信仰は霊場寺院に奉納された多くの石仏や遍路道にたてられた遍路標石にも窺うことができる。霊場寺院には地蔵石仏や大師像をはじめ八十八か所本尊石仏・三十三観音石仏などの石仏が見られる。そのほとんどは巡礼が盛んになる江戸時代以降の石仏で昭和以降の石仏も多い。鎌倉時代の弥谷寺阿弥陀三尊磨崖仏をのぞき造形的に優れた石仏はあまり見られず、信州の修那羅や因島白滝山の石仏のような自由奔放な表現の個性的な石仏も少ない、しかし、お遍路さんたちの祈りや願いが込められた石仏は、鎌倉時代の石仏や修那羅の石神仏と同じように魅力的である。
 
西林寺(第48番)白玉地蔵
愛媛県松山市高井町 「江戸時代」
 第48番札所西林寺の山門前に白玉地蔵と呼ばれる首をすくめたユニークな石仏がある。たれ目の好々爺を思わせる愛嬌のある顔は印象的である。
 
屋島寺(84番)ばつ子地蔵
愛媛県松山市高井町 「江戸時代」
 大師堂横の桜の木の下に立つ地蔵である。雅楽や歌舞伎で銅ばつ子、銅拍子、チャッパなどと呼ばれるシンバルのような楽器を持っている。立体的に表現したばつ子やそれを持つ手・着衣の衣紋など丁寧に彫っていて、高い石工の技術がうかがえる地蔵である。



地蔵石仏100選(93)   太田磨崖仏
大分市太田鶴迫  「宝暦10〜13年(1760〜1763) 江戸時代」
 大分市太田の鶴迫という集落の裏に太田磨崖仏はある。凝灰岩の崖に間口3.8m、高さ77p、奥行き1.25mの龕を彫り、中央に像高113pの地蔵菩薩半跏像とその左右に各3体の地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので、木造の覆堂で囲まれている。中尊の半跏像は左手に宝珠を持ち、左手首は欠落している。向かって左の3体の真ん中の像は両手に鐃を持つ。朱や緑・青・白などで彩色されていて、光背も描かれている。刻銘から江戸時代中期の宝暦年間に造られたことがわかる。



地蔵石仏100選(94)   長持寺跡地蔵石仏
宮崎県日南市板敷  「明和元年(1764) 江戸時代」
 江戸時代に宮崎で活躍した仏師として活躍した3人の僧、串間延寿院・串間円立院・平賀快然はデフォルメされた憤怒相の顔が力感あふれ、個性的で印象的な仁王像をつくり宮崎市周辺に多く残している。

 串間延寿院は宮崎市古城にあった護東寺の五世住職で、3回大峰入峰修行をし、山伏の最高の僧位の大越家(おいつけ)を持つ修験僧である。古城で生まれ安永5年(1776)に亡くなっている。石仏の刻銘や木彫仏の墨書などから宝暦4年(1754)から明和6年(1769)にかけて彫作活動したことは分かっている。よく知られている石仏としては不動明王や閻魔大王を彫った鵜戸神宮の鵜戸山磨崖仏があげられる。他に最勝寺跡や生目大村の仁王像などが知られている。

 ほとんど知られていないが、これらの像と遜色ない傑作が日南市の飫肥城跡近くの住宅地の外れの古い墓地にある長持寺跡地蔵石仏である。2mを越える船形にした石材に枠取りした二重円光背の彫りくぼみをつくり、左手に宝珠を持ち右手に錫杖を持つようにした地蔵菩薩を厚めに半肉彫りした立像である。

 中世の地蔵のような穏やかで澄ました面相ではなく、人生の機微を味わい尽くしたような人間味を感じさせる面相である。体躯や着衣等の表現は巧みで力強く、確かな技量が窺える。「明和元年(1764)」の紀年銘や願主とともに「仏師大越家延寿院」の刻銘がある。



地蔵石仏100選(95)   伊満福寺六地蔵石仏
宮崎市古城町6695番地  「寛政8年(1796) 江戸時代」
 寛延元年(1748)、古城(宮崎市)に生まれた、串間円立院は、串間延寿院ので、大峰入峰修行や熊野三山奥駆け修行をした修験僧である。父、延寿院と同じく仏像彫刻に優れ、天保5年(1834)、85歳で亡くなるまで、多数の仏像を造立した。現在、362体の仏像が確認されているという。霧島寺跡や五百祀神社、護東寺跡をはじめ多くの仁王像を残している。地蔵も住職だった護東寺の跡や伊満福寺に残っている。

 伊満福寺には円立院作の地蔵は六地蔵と他に3体見られる。六地蔵は平賀快然作の仁王像のある階段を上がった境内の左奥にあり、船形光背を背負った厚肉彫り像である。向かって右から錫杖と宝珠持ち・合掌像・幡持ち・宝珠持ちで与願印・柄香炉持ち・数珠持ちの6体である。6体の顔は少しずつ表情は違うが、頭部の真ん中近い場所に山形の眉毛を顔いっぱいに彫り、細い目と大きな鼻、厚い唇の口で表した独特の面相となっている。父の延寿院の地蔵より、より人間くさい顔の表現である。

 無銘であるが、横の寛政8年(1796)彫作の阿弥陀立像の刻銘に「地蔵尊六躰 佛師圓立院」とあるので寛政8年(1796)の作であることがわかる。



地蔵石仏100選(96)   快然の地蔵石仏(清武町)
 平賀快然も延寿院、円立院親子と同じように宮崎で仏師としても活躍した僧(修験僧ではなく禅宗僧)である。彼が残した石仏や木彫仏の記銘などから、清武郷熊野村今江(宮崎市熊野)の出身で、延寿院の彫作活動のやや前の元禄16年(1703)から宝暦7年(1757)にわたって彫作活動したことが分かっている。現在、快然の作として木彫仏5体、仁王石仏5対、地蔵石仏8体が確認されいる。快然の仁王像は木喰が住職をして多くの仏像を残した日向国分寺や伊満福寺・内山禅寺などにある。快然の地蔵石仏の多くは清武町(2009年に宮崎市合併)に残っている。
船引地蔵石仏
宮崎市清武町船引  「享保20年(1735) 江戸時代」
 日豊本線清武駅周辺の清武町の中心街から清武川を挟んで北西の集落が船引である。船引営農研修センターの北東にある墓地にある船引地蔵石仏は墓地の隅の民家の生け垣のそばに生け垣に向かうように座っている。

 生け垣をかき分け、ストロボを使って撮影した。写実的な衣紋表現で、力強く豪放な姿の丸彫りの地蔵座像である。鼻の一部が欠けているのが惜しい。台座・蓮台は苔むしていたため確認できなかったが、「享保二十(1735)年‥‥仏師快然‥‥石工武右ェ門‥‥」等の刻銘があるという。
下木原二体地蔵石仏
宮崎市清武町木原下木原  「寛保3年(1743) 江戸時代」
 下木原の地蔵石仏は小さなお堂に祀られている。一石の裏表に2つの像を彫った珍しい石仏である。正面は丸彫りの地蔵菩薩座像で左手に宝珠を持っている。摩滅がひどく稚拙な補修もあって興味を引かなかった。地蔵菩薩座像の側面に回ると台座の下にも石は続いていて、お堂の板張りの床を切ってはめ込まれていることがわかる。

 お堂の裏に回ってみると、表の道路面より低くなっていて、背中から台座の裏面とその下部にかけてには船形の彫りくぼみをつくり半肉彫りの合掌する地蔵菩薩立像が刻まれていた。こちらも摩滅がひどく、目鼻は風化している。しかし、こちらは力強くおおらかな快然らしいフォルムが残っている。「寛保三(1743)癸亥年六月十五日建立 作者平賀□□・・・」の刻銘がある。



地蔵石仏100選(97)   貞治の地蔵石仏1(温泉寺)
 長野県を中心に江戸時代の文化・文政・天保年代に優れた地蔵石仏を造ったのが、高遠の石工、守屋貞治である。諏訪の温泉寺の住職・願王和尚に帰依し個性的である種の精神性を感じられる石仏を次々と造立していった。

 温泉寺は臨済宗妙心寺の末寺で高島藩の二代藩主・諏訪忠恒によって慶安2年(1649)に創建された。忠恒からの諏訪氏歴代の墓がある。この温泉寺の住職であったのが、守屋貞治が師として仰いだ願王和尚である。若き貞治は、温泉寺で願王和尚に仕え、雲水として仏道修行に励んだと伝えられている。
長野県諏訪市湯の脇 1-21-1
温泉寺願王地蔵大菩薩
「天保2年(1831) 67歳」
願王地蔵大菩薩は、本堂の裏山、歴代住職の墓所にひっそりとたたずむ。願王和尚の墓標として、貞治が全精魂を傾けて彫った貞治の最高傑作である。願王和尚の慈悲に満ちた姿を彷彿とさせる地蔵菩薩である。文政12年(1829)、貞治65歳の時の作である。
温泉寺延命地蔵
「文政6(1823)年 59歳」
 この像は温泉寺本堂横の鉄骨でつくられた覆い屋根の裏側が鏡状になっている覆堂に安置されている。高島藩の家老家である千野氏が願主となって文政6年に彫り上げた延命地蔵菩で、貞治の59歳の円熟期の作である。丁寧に蓮弁が彫られた見事な三重の蓮華座の上に坐す。尻上がりの眼差しできりっとしまった口元、端正で流麗な技法の力作である。
温泉寺墓地延命地蔵
「文政7(1824)年 60歳」
 温泉寺背後の山一帯は当寺が管理する墓地になっている。その中腹に願王和尚の墓標の貞治の最高傑作の一つ願王地蔵大菩薩などのある雲水墓地がある。その墓地の入り口のにあるのがこの延命地蔵である。願王和尚の後継者といわれた曹谷素省の供養塔で、立像地蔵尊の傑作である。文政7(1824)年、貞治 60歳の作である。



地蔵石仏100選(98)   貞治の地蔵石仏2(光前寺)
  宝積山光前寺は、天台宗の寺で、貞観2年(860)に本聖上人によって開基されたれたという古刹である。信州では、善光寺につぐ大寺で、鎌倉・室町期の庭園をはじめ、三重塔・本堂・三門 などが、樹齢数百年をこえる杉の巨木の間に建ち並び、往時の盛況を偲ばせてくれる。

 この寺に残っている貞治の石仏は、三陀羅尼塔并四天王・阿弥陀如来・賽の河原地蔵尊・佉羅陀山地蔵菩薩・聖観音菩薩(真応塔)の5体で、その内4体が貞治が四十代に彫った作品で、従来の石仏の域から、貞治独自の造形仏へと、 踏み込み始めた事を明確に体現した優作である。
長野県駒ヶ根市赤穂29番地
 
光前寺佉羅陀山地蔵
「文化元(1804)年 40歳」
 佉羅陀山地蔵菩薩は山門付近の池のほとりにある。2段の台石のの上に角石、反花、円座と積み上げた上の蓮華座に両膝をたて、口元に微笑みを含んで坐している。文化元年、貞治40歳の作。

 口元は、鼻の付け根から下顎にかけて円形の彫りくぼみをつくり、その中に微笑みを含む口と円形の顎を浮き彫りにする表現で、一見すると二重顎のように見える。このような口元の表現の像は駒ヶ根市周辺の貞治仏によく見られ、守屋貞治の石仏50体(19)として紹介した福岡東墓地聖観音も同様である。(伊那谷石造物文化財研究所の田中清文氏はこれを「円形微笑型表現」と名付けられている。)
光前寺サイノ河原地蔵
「文化8(1811)年 47歳」
 サイノ河原地蔵尊は、光前寺の奥まったところ、 人知れず寂しい杉林の中にある。 貞治作の地蔵を中心に小さなお地蔵さまが幾体も並んでいて、 それらの地蔵の膝や頭の上には小石が積まれている。また、貞治作の地蔵の膝元には、小石を積み重ねている童子が彫り出されている。「早世した子供らが、小石で塔を積んで、生前に善事の出来なかったつぐないをしょうとすると、地獄の鬼が来て積んだ塔を突き崩してしまう‥‥‥」と「賽の河原地蔵和讃」にうたわれている世界がここにある。

 光前寺の御院主が願主となって彫られたもので、半跏像像で膝の上の左手に宝珠を持つ。顔は光前寺佉羅陀山地蔵のような円形微笑型表現の微笑みを浮かべたひきしまった顔ではなく、穏やかで優しい子供のような表情である。


 
地蔵石仏100選(99)   貞治の地蔵石仏3(海岸寺・見性寺)
 八ヶ岳の南、津金山の南腹に構える海岸寺は、行基菩薩が庵をひらいたのが始まりという古刹である。 応安年間(1368〜1375年)に鎌倉・建長寺より石室善玖和尚を招いて、律宗から、臨済宗に改め、海岸寺の開祖としたという。海抜約千mの位置にあり、 南アルプスの連峰と相対する眺望を誇っている。

 その海岸寺にある百観音石仏や地蔵石仏は一部を除いて、全て、守屋貞治が、 願王和尚と親交のあった桃渓和尚の依頼を受け、文化11年頃から10年の歳月をかけて彫ったものである。貞治は須玉町津金に滞在していたとき海岸寺以外にも須玉町に作品を残していた。その内の一体が見性寺佉羅陀山地蔵である。
・海岸寺 山梨県北杜市須玉町上津金1222   ・見性寺 山梨県北杜市須玉町江草7772
 
海岸寺佉羅陀山地蔵
「文政年代 50歳代」
 海岸寺参道入口に祀られていた地蔵で、現在は海岸寺境内の西国三十三所観音石仏が並べられた覆屋の前に安置されている。明治時代の廃仏毀釈で、左膝・左腕・頬を支える右手首をこわされなくなっていたそうであるが、私が訪れたときには欠けた輪光を除いて修復され造立時の姿に戻っていた。貞治の書き残した「石仏菩薩細工」では「佉羅陀山地蔵大菩薩 甲州上津金村大和願主 小尾氏」と記されている像である。

 自然石の岩盤の上に見事な三重の蓮華座を彫り、その上に右膝を立てて坐している。同じ須玉町にある見性寺の佉羅陀山地蔵がふくよかでわずかに微笑む引き締まった顔なのに対して、この像は面長で優しく瞑想する女性的な姿の像である。貞治五十歳代<の円熟期の作である。
海岸寺延命地蔵
「文政年代 50歳代」
 板東三十三所観音の並ぶ前面、本堂の西側にに建つ地蔵で、百番観音造立の途中、下津金庄左衛門のの娘宗嶽妙高大姉が願主になって貞治に依頼したものである。半跏の延命地蔵で右手に持つ錫杖が欠けている。(35)の佉羅陀山地蔵と同じように気品のある優しい眼差しの面相である。
海岸寺墓地延命地蔵
「文政年代 50歳代」
 海岸寺の上段墓地の入り口にある。貞治の唯一のレリーフ調の墓石である。角石いっぱいに方形の彫り窪みをつくり、その中に光背として船型の深い彫り窪みをつくり、宝珠と錫杖を持って立つ延命地蔵を半肉彫りする。顔は海岸寺の他の地蔵のような女性的な顔立ちではなく、同じ須玉町にある見性寺佉羅陀山地蔵によく似た引き締まった顔である。願主の小須田弥兵衛は佐久に住む学者で筆子塚としてこれを建立したという。
見性寺佉羅陀山地蔵
「文化13(1816)年 52歳」
 守屋貞治が、 願王和尚と親交のあった桃渓和尚の依頼を受け、文化11年頃から10年の歳月をかけて彫った北杜市須玉町の海岸寺の西国三十三所観音石仏を初めとした百観音石仏は貞治の代表作の一つである。貞治は須玉町津金に滞在していたとき海岸寺以外にも須玉町に作品を残していた。その内の一体が見性寺佉羅陀山地蔵である。

 佉羅陀山地蔵は貞治の地蔵ではよく見かけるもので、半跏像像で膝の上の左手に宝珠を持ち、右手を頬に当てている。美しい蓮弁の線の三重の蓮華座に坐し、ふくよかでわずかに微笑む引き締まった顔が美しい。

 ※ 佉羅陀山(からだせんorきゃらだせん)は須弥山を囲む七金山の一つで地蔵菩薩が住む浄土


 
地蔵石仏100選(100)   修那羅の地蔵石仏
 修那羅峠は長野県東筑摩郡坂井村(現在は筑北村坂井)と小県群青木村の境にある峠である。その峠に、地元の人がショナラさまと呼ぶ、「修那羅山安宮神社」がある。修那羅大天武と称する一修験行者が江戸時代末期の安政年間に、土地の人の熱望により雨乞いの法を修して信頼を得、古くから鎮座する大国主命の社殿を修し、加持祈祷をもっておおいに人々の信仰を集めたのが、安宮神社のはじまりである。

 この神社のまわりにおよそ700体の石造物が立ち並んでいる。その内、230体ほどが、石神仏像で、ユニークな表現の像や他に例類を見ない異形像が多く、非常に魅力的な石神石仏群である。修那羅で一番多い石像は地蔵菩薩で、約50体近く確認される。 その多くは、亡き子どもの追善供養としてつくられたり、子宝に恵 まれるように願ったり、子どもの無事成長を祈って奉納されたもの で、子どもへ寄せるさまざまな思いが込められている。
修那羅山安宮神社  長野県東筑摩郡筑北村坂井眞田11572  「江戸末期」
 
母子像or姉妹像(子育地蔵)
 修那羅の石神仏を代表する像の一つである。「元治元□」(1864年)と紀年があり江戸末期の作である。このかわいらしい姉妹像、あるいは母子像を道祖神と見る人もあるが、手に錫杖や宝珠を持つので子育地蔵と思われる。
子育地蔵
 江戸時代になると赤子を抱いた姿の子育地蔵は信州をはじめ全国各地で、子どもの無事成長を祈って造立された。修那羅では子育地蔵として、(1)の姉妹像のような手をつないだ母子像・父子像のようなものが多くあるが、この像は赤子をを抱くと言うより、背負っているように見える。母子像を思わせる、美しい姿態の子育地蔵である。
洟垂れ地蔵
 修那羅には様々な姿の童子地蔵が見られる。亡き子どもの追善供養としてつくられたり、子宝に恵 まれるように願ったりして造立されたもので、常識的な仏教美術の枠から離れた、バラエティーに富んだ像が多くある。

 その内の一つが、修那羅の石神仏を世に知らしめた三石武古三郎氏が洟垂れ地蔵と名付けた像である。明治22年に奉納された像で、普通の延命地蔵と違って右手に宝珠、左手に錫杖を持つ。宝珠は手鞠のように見える。洟垂れ小僧を思わせる童顔のほほえましい地蔵である。
父子像(子育地蔵)
 この像も(1)の母子像のような、子連れの像である。手をつなぐのではなく1本の紐をしっかり握り合っている。大きい像は穏やかであるが意志の強そうな顔で、小さい像もよく似た顔でいかにも親子といった風情である。母子と言うより父子に見える。子育地蔵のつもりでつくられたものと思われる。釘抜きを持つ獄卒像など、これと同じ石質・彫り片の像かいくつか見られる。
勝軍地蔵
 勝軍(将軍)地蔵はは身に甲冑を着け、右手に錫杖を持ち、左の掌てのひらに宝珠を載せ、軍馬にまたがった姿をしたもので、時代以後、武家の間で信仰された。この像も兜らしきものをかぶり、錫杖と宝珠を持っているので、勝軍地蔵と思われる。修那羅には兜や鎧を着けた、武神・武人と思われる像が何体かあり、修那羅の特色ある石神仏の一つにあげられる。今まで紹介した亡き子どもの追善供養としてつくられたり、子宝に恵 まれるように願ったり、子どもの無事成長を祈って奉納された地蔵とはまた違った意味を持つものかもしれない。
アポロ地蔵
 三石氏が太陽地蔵=アポロ地蔵と名付けた炎のような髪をした地蔵である。炎のような髪と見えるのは火焔光背を表したものと思われる。火焔といい済ました丸顔といい、太陽地蔵=アポロ地蔵はぴったりの表現である。


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