地蔵石仏100選T
平安時代・鎌倉時代(大和・京都) 
 
 地蔵菩薩は、釈迦入滅後、弥勒仏が出世するまでの間、無仏の世界にあって、衆生を救済する菩薩である。平安後期、末法思想の広がりにともなって、地蔵菩薩は閻魔王の本地仏で、六道を巡って衆生を救い、極楽へ行けるように力を貸してくれると信ぜられ広く信仰された。地蔵石仏は頭は声聞形(僧形)で、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿が最も多い。これは六道を巡り衆生を救う行脚の姿で、地蔵菩薩の一般的な姿である。古式な像には、十輪院本尊のように、錫杖を持たず右手をたらして与願印の像も見られる。

 石仏では春日石窟仏などの平安末期が最も古い作例である。春日石窟仏には現在4体の優美な地蔵磨崖仏が残っている。鎌倉時代になると関西(特に大和)を中心に地蔵石仏の造立は盛んになり、街道沿いなどに多数造立され、柳生街道などの山間の街道には地蔵磨崖仏が多数彫られた。

 京都や滋賀県、三重県などにも多くの鎌倉時代の地蔵石仏が残っている。その他、兵庫県の八家地蔵、広島県の九州の臼杵石仏の地蔵十王磨崖仏や関東の元箱根石仏群、宮城県の富沢六地蔵石なども鎌倉時代の地蔵石仏である。

 まずは鎌倉時代の地蔵石仏を紹介し、そのあと室町時代から江戸時代までの全国各地のを100体選んでアップロードすることにした。関西地区を中心に現在では石仏=地蔵というイメージが定着している。その意味でも地蔵石仏は石仏の美や信仰を探るための原点といえるのではないだろうか。どうぞ全国各地の地蔵石仏の魅力を味わってください。

地蔵石仏100選U   地蔵石仏100選V



地蔵石仏100選(1)   春日山石窟仏六地蔵
奈良市春日野町 春日奥山 「保元2(1157)年」
 良奥山ドライブウェーは高円山ドライブウェーと新若草山ドライブウェーにつながっているが、一方通行で高円山ドライブウェー側からは車は入れない。したがって、奈良奥山ドライブウェーの出口が高円山ドライブウェーの終点となる。その終点の場所から南側へ登る細い道があり、その道を50mほど歩くと穴仏と呼ばれる春日石窟仏がある。その穴仏の少し下に旧柳生街道の石畳の道が通っている。

 春日石窟仏は東西2窟から成り立っていて、凝灰岩層を深く削りくぼめて、つくられた石窟で、全面はかなり崩壊していて、造立当初の様子は知ることはできないが、平安時代後期の保元二年(1157)の墨書銘が残る、わが国では珍しい本格的な石窟仏である。

 東窟は中央に層塔としてつくられたと思われる石柱があり、塔身にあたる部分には、四仏が彫られている。

 東窟の西壁には、頭光背を背負った厚肉彫りの像高90pほどの地蔵立像が4体残っている(もとは六地蔵だと思われる)。左端の一体は右手は与願印で、左手に宝珠を持つ。残りの三体は両手を胸前に上げ、何かを捧げる形であらわしている。一体一体、表情は異なるが顔は引き締まった中に穏やかさをみせている。東窟には、他に観音菩薩と思われる像が3体(もとは六観音)、天部像が2体残っているが破損が大きく痛ましい姿となっている。


   
地蔵石仏100選(2)   七廻峠地蔵石龕仏
奈良県天理市福住町別所  「建長5(1253)年」
 福住別所から帯解方面へ抜ける旧道の七廻峠にある(別所から約600m)。花崗岩の荒切石を組み立てて石龕を作り、その中に、像高148cmの地蔵菩薩を安置する。

 地蔵は二重円光背を負って、錫杖と宝珠を持つ姿を厚肉彫りたもので、力強く迫力のある地蔵石仏である。大和を代表する地蔵石仏の一つである。今は通る人もほとんどいない街道にあるが、峠の守り神として造立されたもので、荒切石の石龕と共に、山中の峠という環境が、野性味と豪快さを際立たせている。

 光背面に「建長五年癸丑十一月七日造立之中臣勢国弘也」と達者な銘文が刻まれている。


   
地蔵石仏100選(3)   西法寺地蔵石仏
奈良県桜井市瀧倉197 「鎌倉時代後期」
 滝倉の村の北端にある西方寺の参道の石段の道脇に立つ。高さ1.75m、 二重光背形を厚く作り、蓮華座上の地蔵菩薩立像を厚肉彫りする。右手に丁寧に彫られた錫杖頭の錫杖を持ち、左手は高く胸前に上げて宝珠を持つ。引き締まった面相の重厚感のある秀作である。七廻峠の地蔵石仏とともに 大和高原の代表的する地蔵石仏であ る。



地蔵石仏100選(4)   濡れ地蔵磨崖仏
奈良県宇陀市榛原山辺三 「建長6(1254)年」
 国道165号線沿いの山辺三の集落の集落から近鉄大阪線の線路を越えた南に下った谷あいに建長6(1254)年の紀年銘の濡れ地蔵磨崖仏がある。

 川の向こう岸の岩に、高さ184mの船型の彫り窪みをつくり、線刻の頭光背を負って蓮華座に立つ地蔵立像を半肉彫りしている。大きな頭の錫杖を直立して右手で持ち、左手を胸前に上げて宝珠をささげる。光背面の左右に三体ずつ、六地蔵立像が墨画で描かれていたという。また、光背の外側の左右に太山王と閻魔王が線刻されていて、地蔵十王の信仰が伺える。

 濡れ地蔵と呼ばれるのは、山から滴る水で常に濡れているところから名付けられたものである。この川は宇陀川の支流にあたり、宇陀川に作られた室生ダムのため、増水時はダム湖の一部となり、増水時は濡れ地蔵は水没してしまう。



地蔵石仏100選(5)   向淵三体地蔵磨崖仏
奈良県宇陀市室生向渕   「建長6(1254)年」
 集落の西はずれの畑の中に建つ堂に「穴薬師」と呼ばれるこの三体地蔵がある。凝灰岩の四隅を落とした正八角形の石材を利用して作られたもので、中央に蓮華座を設けて高さ150pの二重円光背の彫り窪みをつくり、像高130pの宝珠と錫杖を持つ地蔵立像を厚肉彫りする。その両側には同じく二重円光背の彫り窪みをつくり、中尊よりやや小さい像高90pの地蔵立像を厚肉彫りする。両脇持は共に、右手を下げて与願印を示し、右手で宝珠を持つ古式の地蔵である。

 充実感のある、鎌倉中期らしい写実的な表現の地蔵石仏で、三体地蔵形式では最も古い様式である。施主名と共に建長6年(1254)の紀年銘を像の間に刻む。



地蔵石仏100選(6)   南田原地蔵石仏
奈良市田原南田原町  「建長年間 鎌倉時代」
 南田原の川沿いの橋のたもとにこの地蔵石仏が立っている。高さ110mの長方形の石材に、二重光背を彫りくぼめ、 高さ73cmの地蔵を半肉彫りしている。 もとは笠石が載っていたらしい。顔は摩滅しているが、整った姿の鎌倉期様式の地蔵石仏である。「建長□年‥‥」 とかろうじて読める刻銘がある。



地蔵石仏100選(7)   的野地蔵磨崖仏
奈良県山辺郡山添村的野  「正安5年(1303)」
 的野集落南端の民家の近くに、道に突き出た大きな花崗岩の岩があり、そこに彫られている。高さ108mの舟形光背ほ彫りくぼめ、 錫杖・ 宝珠を持つ、 地蔵菩薩を厚肉彫りする。立派な錫杖頭で蓮華座の正面の蓮弁は二枚重ねになっている。僧侶のような人間くさい面相の地蔵である。向かって左に「正安五年三月十日 信賢 信順 」の刻銘がある。



地蔵石仏100選(8)   歓楽寺地蔵石仏
奈良県奈良市都祁南之庄町1124  「元亨2(1322)年」
 歓楽寺は、南ノ庄集落の南にある高野山真言宗の寺院で、本堂は鄙びた民家風の建物である。本堂東南の山裾に、小さな覆屋があり、その中に三体の地蔵が安置されている。

 三体の真ん中にある地蔵が都祁地区で最も古い元亨2(1322)年の年号銘を持つ。高さ1mほどの長方形の花崗岩の石材に枠いっぱいの彫り窪みをつくり、像高80pの、錫杖と宝珠を持つ地蔵を半肉彫りしたもので、七廻峠地蔵石仏のような豪快さや力強さに欠けるが、整った姿の穏やかな面相の地蔵である。



地蔵石仏100選(9)   三谷寝地蔵磨崖仏
奈良県桜井市三谷  「延慶2(1309)年」
寝地蔵の脇に立つ地蔵石仏は建武2年(1335)の造立
 奈良市都祁地区の藺生町から桜井市の小夫嵩方・三谷方面に抜ける旧道の藺生峠の林の中に阿弥陀磨崖仏と地蔵磨崖仏がある。高さ3mをこえる大きな花崗岩に阿弥陀と地蔵を彫ったものだが、石が割れて左の地蔵の方だけ転落して、横向きになっている。

 120cmの船型を彫りくぼめ、錫杖と宝珠を持つ端正な像高102pの地蔵菩薩立像を半肉彫りする。 地蔵は横になったままで、「ネンゾ(寝地蔵)」と呼ばれている。左右の岩面に藺生(いう)の住人祐禅浄覚房が延慶2年(1309)造立した旨が刻まれている。



地蔵石仏100選(10)   滝坂地蔵
奈良市春日野町 滝坂の道  「鎌倉時代後期」
 三体地蔵磨崖仏の所から、夕陽観音と逆の右の方へ進み、上方の岩を見上げるとそこに、滝坂地蔵と呼ばれる等身大の地蔵磨崖仏がある。上方の突き出た岩に二重光背を彫りくぼめ、錫杖と宝珠を持つ、地蔵菩薩立像を半肉彫りしたもので、鎌倉末期の様式を示し、滝坂の道の地蔵菩薩の中では最も整った石仏である。

 滝坂の道からは見えない位置にあるためにほとんどのハイカーはこの石仏にきづかずに通り過ぎていくが、晩秋の紅葉に映えた滝坂地蔵の姿は美しい。



地蔵石仏100選(11)   朝日観音地蔵菩薩
奈良市春日野町 滝坂の道  「文永2(1265)年」
 滝坂地蔵から滝坂の道を450mほど進むと、東面した高い岩壁に、通称「朝日観音」と呼ばれる3体の磨崖仏が彫られている。夕陽観音と同じように観音ではなく中尊は約2.3mの弥勒如来立像である。左右に地蔵立像が彫られている。弥勒如来の左右の刻銘に「文永弐年乙丑十二月」の紀年があり、文永2(1265)年に造立されたことがわかる。左の錫杖・宝珠を持つ地蔵も同じ作風を示し、弥勒如来と同じ時期に彫られたものである。右の舟形光背の地蔵は錫杖を持たず、春日本地仏の姿をしていて、後世の追刻である。



地蔵石仏100選(12)   首切り地蔵
奈良市春日野町 春日奥山  「鎌倉後期」
 滝坂の道を朝日観音から少しのぼると、道は3つに分かれ、柳生街道は能登川の渓流から離れ、滝坂の道は終わる。その分かれ道に「首切り地蔵」がたっている。像高約1.8mの大ぶりの地蔵菩薩で鎌倉後期の作風を示す。

 首のところで折れていて、荒木又衛門が試し切りをしたと語り伝えられていて、辻の地蔵として昔から旅人などの信仰を集めていた。



地蔵石仏100選(13)   ほうそう地蔵
奈良市柳生町  「鎌倉後期」
正長元年ヨリ サキ者カンヘ四カン カウニヲ井メアル ヘカラス
   阪原町の南出より柳生までの旧柳生街道は急な山道である。その山道の峠を越えて、しばらく進むと、大きな花崗岩の南面に彫られたこのほうそう地蔵がある。(柳生からは柳生陣屋跡より旧柳生街道を1qほど南へ行ったところになる。)

 岩肌に高さ140p、幅約80pの方形の枠組みを彫りくぼめ、蓮華座に立つ錫杖を持つ通常型の地蔵を半肉彫りする。以前は面部が剥落していて、疱瘡にかかったように見えたため、ほうそう地蔵といわれていた。(私が高校生の時、初めて見たときは顔が剥落していた。)

昭和44年、すぐ下の土中より顔が見つかり修復された。顔は穏やかな童顔で印象深い。元応元(1319)年の銘がある。

 その左側に正長の土一揆の資料として中学社会科や高校日本史の教科書に載っている有名な徳政銘文がある。「正長元年ヨリ サキ者(は)カンヘ(神戸)四カン カウ(郷)ニヲ井メ(負いめ)アル ヘカラス」とあり、「正長元年以前の借金は神戸(かんべ)の四ケ郷(大柳生・小柳生・阪原・邑地)では帳消しにする。」という意味である。




地蔵石仏100選(14)   洞の地蔵石仏
奈良市春日野町 「建長6(1254)年」
 若草山の南麓の春日山遊歩道の入口ゲートの少し手前の山麓の小高いところに、仏頭石と倒れたままのこの地蔵石仏がある。仏頭石は六角石柱に阿弥陀如来と思われる仏頭を丸彫りし、柱の各面に観音を刻んだ石仏で室町時代の作である。 

 地蔵石仏は、高さ110pの板状の安山岩自然石の表面に、蓮華座に立ち、二重円光を負い、右手に錫杖、左手に宝珠を持った像高75pの地蔵菩薩を薄肉彫りしたものである。摩滅が少なく引き締まった顔やのびやかな衣紋表現が鮮明に残っている。鎌倉中期の建長6(254)年の紀年銘が残る。



地蔵石仏100選(15)   東山霊苑前の地蔵石仏
奈良市白毫寺町 「鎌倉時代」
 白毫寺墓地(現在は市営墓地東山霊苑)の入口付近の県道脇に立つ丸彫りの地蔵石仏で、像高は150pで下部分は埋まっている。

 右手は下げて与願印を結び、左手で宝珠を持つ古式像である。摩滅が進んでいるが穏やかで引き締まった面相で写実的な衣紋表現が残る。あまり知られていないが鎌倉時代の優れた地蔵石仏である。



地蔵石仏100選(16)   新薬師寺地蔵十王石仏
奈良市高畑町1352 「鎌倉後期」
 新薬師寺は天平19年(747)に光明皇后が、聖武天皇の眼病が治るように建立した、かつては七堂伽藍が整った由緒ある寺院である。現在は本堂(国宝)だけが当時の建物である。本尊木造薬師如来坐像(国宝)とそれを囲む等身大の塑造十二神将立像(国宝)が有名である。

 その新薬師寺の境内の南の端に多くの石仏を集めた覆堂があり、芳山二尊石仏に似た如来立像をはじめとして多くの石仏や板碑が安置されている。如来立像の側に総高90p程の地蔵十王石仏が立っている。船型光背を造り、白毫寺と同じく、錫杖を持たない像高75pの地蔵で、右手は人差し指を捻じた施無畏印である。摩滅が進んでいるが引き締まった顔で衣紋表現も巧みで鎌倉後期の様式を示す。

 光背の左右に5体の十王像を浮き彫りにしている。光背の上部には獄卒と思われる人物や馬や鳥が刻まれていて、地獄に落ちた冥府の世界を表していると思われる。



地蔵石仏100選(17)   尼が辻地蔵石仏
奈良県奈良市四条大路5丁目  「文永2(1265)年」
 「三条大路5丁目」交差点にあるディスカウントショップの駐車場横の立派な地蔵堂に安置されている。「三条大路5丁目」交差点は旧奈良街道と郡山道の交差する辻道で、尼が辻地蔵石仏は街道沿いの辻堂に祀られた体表的な地蔵石仏である。

 黒い安山岩製で、高さ210pの二重円光を背負った、像高170pの半肉彫りの地蔵石仏である。右手を垂らして与願印、左手は胸前で宝珠を持つ古式の印相の像である。鼻の一部は欠けいるが引き締まった顔で、鎌倉中期の洞の地蔵石仏や朝日観音などとよく似た顔の表情や作風である。朝日観音と同じ文永2(1265)年の紀年銘がある。

 通称「縁切り地蔵」と呼ばれ、尼寺に入る女性が、この地蔵の前で俗生と縁を切ったという。



地蔵石仏100選(18)   二条の辻地蔵石仏
奈良市二条町1丁目  「鎌倉後期」
 旧街道の辻にはよく地蔵石仏が見られるが、それは人の迷いそうな分かれ道の道しるべと同時に、迷える人を救う意をあらわしていて、仏の道を広めるために造立されたものである。そのような辻の地蔵の一つが、二条の辻の地蔵石仏である。

二条の辻の地蔵石仏は平城宮跡の北西の「二条町」の交差点の真ん中の地蔵堂にある。高さ190pの船型光背を背負った、左手で宝珠を持ち、右手で錫杖を持った丸彫りに近い厚肉彫りの像高140pの地蔵石仏である。錫杖は光背面に直立させて彫り出していて、下げた右手て手首を捻るようにして錫杖を持っている。穏やかな表情の地蔵石仏で、納衣などの表現は丁寧で、鎌倉後期の作風を示す。



地蔵石仏100選(19)   青野共同墓地の地蔵石仏
奈良市青野町  「鎌倉後期」
 西大寺の南西400mに青野墓地と呼ばれる西大寺と本教寺の共同墓地がある。その墓地の南西の入口付近の民家の前に、優れた鎌倉後期の地蔵石仏が立っている。

 高さ1.6mの船型の石材に像高1.2mの地蔵菩薩を丸彫りに近く厚肉彫りしたもので、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ通常の姿の地蔵である。衣紋の表現は写実的で、穏やかな表情の面相は、二条の辻の地蔵石仏によくにていて、洗練された作風の地蔵石仏である。



地蔵石仏100選(20)   福満寺地蔵石仏
奈良県生駒市上町1573  「永仁6(1298)」
 福満寺は元は真言宗寺院。融通念仏宗に改宗し上村の檀那寺として信仰をあつめている。その福満寺の境内に永仁6(1298)年の紀年銘の持つ地蔵石仏がある。

 総高175pの像で、蓮華座を設けて、その上に船型光背を造り、表面に像高109pの、宝珠と錫杖を持った地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので、整った像容で引き締まった顔の地蔵石仏である。七廻峠地蔵石仏なと鎌倉中期の地蔵石仏のようなと力強さないが、写実的で端正な地蔵石仏である。



地蔵石仏100選(21)   清滝八尺地蔵磨崖仏
奈良県生駒郡平群町鳴川  「鎌倉時代」
 平群町鳴川にある千光寺は役行者の開いたと伝えられる寺で、役行者が大峰山を修験の場とする前にここで修行していたため、「元の山上ヶ岳」という意味で「元山上」とも呼ばれている。行者の母親も入山修行してたと伝えられ、「女人山上」ともいわれていて、女性にも山内が開放された修験道の霊場である。千光寺の周りは修験道の行場となっていて、清滝八尺地蔵磨崖仏のある清の滝も行場の一つである。

 鳴川集落は千光寺の参道に沿った山道にあり、その中程にゆるぎ地蔵と呼ばれる地蔵を安置した辻堂がある。その辻堂から細い道を下ると川の流れ沿いに巨岩が露出するところがあり、鎌倉時代から室町時代にかけての多くの磨崖仏が彫られている。その中でも特に優れているのが八尺地蔵磨崖仏で、清滝という小さな滝の岩肌に彫られている。

 八尺地蔵磨崖仏は地蔵菩薩立像の薄肉彫りで、蓮華座から頭光背まで337pもある大きな磨崖仏である。やや体を斜めに向け、錫杖を体から離して、右手で錫杖の柄を持つ。左手で持つ宝珠は大きく立派である。銘はないが鎌倉中期の造立と考えられる優れた磨崖仏である。現在、苔が生えて、昔の面影がなくなりつつあるのが残念である。このホームページの写真は10年ほど前の写真である。



地蔵石仏100選(22)   長岳寺地蔵笠塔婆
奈良県天理市柳本町508 「元享2(1322)年」
 山の辺の道に残る長岳寺は天長元年(824)淳和天皇の勅願により弘法大師が大和神社の神宮寺として創建したと伝えられる古刹である。現在でも、運慶・快慶などの慶派の仏像の先駆けと言える本尊の阿弥陀三尊像(藤原時代)など多くの文化財を有している。鎌倉時代の石造文化財も多くあり、境内の東の弥勒丘に立つ弥勒石棺仏はこの地方を代表する石仏である。

 本堂前野東隅に立つ笠塔婆は、高さ153p、幅約30pの柱状で、上面に船型の彫り窪みをつくり、像高45pの地蔵菩薩を半肉彫りしたものである。地蔵菩薩の下には2体の比丘像が薄肉彫りしている。力強さはないが端正な表現の地蔵菩薩である。「元享二(1322)年」の紀年銘がある。



地蔵石仏100選(23)   池田地蔵石棺仏
奈良県大和高田市池田 「鎌倉時代」
 大和高田市の西、大和高田市池田の小池寺の門前に建てられた小さな地蔵堂の中に安置されている。長持石棺の蓋石内部に地蔵立像を彫ったものである。

 高さ175cm、幅1mの石棺内壁に蓮華座を刻み、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ像高79cmの地蔵立像を半肉彫りしたものである。面長で、細身、大きく裾広がりにつくった裳裾で、光蓮寺跡石棺仏など柳本方面に残る建治年間の石仏、石棺仏とよく似た様式である。石棺の向かって右上部分と、顔の下部と錫杖が欠損している。

 奈良県の石棺仏は一目見ただけではでは石棺材を利用したものとは思えないものがほとんどであるが、この石仏は網掛け突起もついていて一見して石棺仏であることがわかる。




地蔵石仏100選(24)   松本地蔵石仏
奈良県磯城郡田原本町松本396 「鎌倉後期」
 奈良盆地のほほ中央部、曽我川と飛鳥川に挟まれた集落、田原本町松本に鎌倉後期の地蔵石仏がある。集落の南にある松本寺の門の横の地蔵堂に安置されていて、花崗岩製。

 高さ142pの船型光背を背負った像高92pの丸彫りに近い厚肉彫りの地蔵立像で、左手で宝珠を持ち、右手で太い柄の錫杖を斜めに持っている。頭光背には蓮華文をが刻まれ、納衣のしわも細かく丁寧に表している。光背上面と左右に地蔵の種子「カ」の月輪が五個、刻まれていて、本体と共に六地蔵を表している。穏やかな面相の六頭身の整った姿の地蔵石仏である。



地蔵石仏100選(25)   岩船寺三体地蔵磨崖仏
京都府木津川市加茂町岩船 「鎌倉時代後期」
 「みろくの辻磨崖仏」の府道を隔てた向かいに細い山道がある。この山道を進むと岩船寺に出られる。その山道を200mほど行った右手の高い岩壁に、三体地蔵磨崖仏が彫られている。

  四角形の彫り窪みをつくり、像高90p程の三体の地蔵を半肉彫りしたもので、三尊とも右手に短い錫杖を斜めに持ち、左手で宝珠を胸の前で持った地蔵立像で中尊は少し大きい。三体とも穏やかな顔の優れた容姿の地蔵菩薩である。



地蔵石仏100選(26)   藪の中三尊磨崖仏
京都府木津川市加茂町東小 「弘長2年(1262)」
 東小高庭の集落の南、府道を隔てた樹林の中に「藪の中地蔵」または「やぶの地蔵」と呼ばれる磨崖仏がある。露出する二つの岩面にそれぞれ船型の彫り窪みをつくり、向かって左から阿弥陀・地蔵・十一面観音の各像を厚肉彫りしたものである。中尊の地蔵菩薩は像高153pで、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ引き締まったおおらかな面相の重厚感のある秀作である。

 「弘長二年」の紀年銘や願主とともに「大工橘安繩 小工平貞末」と石工名の刻銘があり、尾の在銘石仏としては東小会所阿弥陀石仏とともにもっとも古い。



地蔵石仏100選(27)   岩船寺地蔵石仏
京都府木津川市加茂町岩船 「鎌倉後期」
 岩船寺には鎌倉時代から室町時代にかけての多くの石造物か残されていて、五輪塔・十三重石塔などが重要文化財となっている。不動明王を奥壁に刻んだ石室も建造物として重要文化財に指定されている。

 石室の左には覆堂がもうけられ地蔵石仏が安置されている。二重円光背を背にした像高78pの地蔵座像を厚肉彫りしたもので、里人から厄除け地蔵として信仰されている。覆堂は近年になって建てられたもので、それまでは紫陽花の花に囲まれて美しい姿を見せていた。鎌倉後期の作と思われる。


地蔵石仏100選(28)  鹿背山地蔵磨崖仏
京都府木津川市鹿背山大木谷 「鎌倉時代後期」
 R木津駅の東の丘陵地帯にあるゴルフ場の北、鹿背山の南の麓に鹿背山不動がある。像高45pの南北朝時代の不動磨崖仏が祀られていて昔から厚い信仰を集めている。

  鹿背山不動の境内から急坂を登って裏山山頂に出ると大きな岩石が突き立っていて、そこに地蔵磨崖仏が彫られている。岩いっぱいに船型の彫り窪みをつくり、そこに錫杖と宝珠を持つ像高128pの地蔵立像を半肉彫りしたもので、引き締まった写実的な顔の磨崖仏である。「しょんべんたれ地蔵」と呼ばれていて、お参りを続けるとこの地蔵が子供の寝小便の代わりをしてくれると言われている。



地蔵石仏100選(29)   西念寺地蔵石仏
京都府木津川市加茂町河原橋ノ本 「弘安4(1281)年」
JR加茂駅の北西、木津川の北の田園地帯はかって恭仁京が造営された地である。その田園地帯にある集落が加茂町河原である。その集落の西に西念寺がある。西念寺に接して村墓の河原墓地があり、その墓の中の地蔵堂に等身大の地蔵菩薩立像が安置されている。

 二重円光背を背にした像高155pの地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので右手に丁寧に彫られた錫杖頭の錫杖を持ち、左手で胸前に宝珠をささげる。温厚でふくよかな面相で衣紋も写実的な秀作である。弘安四年(1281)の紀年銘を持つ鎌倉中期の作である。



地蔵石仏100選(30)   撰原峠地蔵石仏
京都府相楽郡和束町撰原 「文永4年(1267)」
J峠の道のそばに、石室風に石を組んで、その中に安置されている。右手を垂れ与願印にし、左手で胸前に宝珠を持つ古式の形相の厚肉彫の地蔵立像である。おおらかな古い趣のある石仏である。像の両側に「釈迦如来滅後二千余歳、文永二二年(1267)丁卯、僧実慶」と刻む。



地蔵石仏100選(31)  大沢池の地蔵石仏
京都市右京区嵯峨大沢町 「鎌倉時代」
 関西地区を中心に現在では石仏=お地蔵さんというイメージが定着していが、京都市内では必ずしもそうではない。鎌倉時代の石仏の多くが阿弥陀を中心として釈迦・薬師・弥勒・大日など如来像で、地蔵石仏は少ない。室町時代の小石仏の多くも阿弥陀如来で、地蔵盆などで地蔵としてまつられている中にも阿弥陀石仏がかなりある。そのような中で貴重な地蔵石仏がこの大沢池石仏群の中の地蔵石仏である。

 大沢池石仏群は大覚寺の東、日本最古の人工の林泉で庭湖とも呼ばれる大沢池のほとりの護摩堂の北の庭にある石仏群で、胎蔵界大日・薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒などの鎌倉時代の古仏が並んでいて京都を代表する石仏である。これらの石仏は光背を刻出せず、大きな岩を背負っていて、おおらかな様式で迫力がある。

 地蔵石仏はこれらの如来像の右に立っていて、同じ頃の作である。如来像と違って二重光背を背負っていて、右手は下げて与願印を結び、左手で宝珠を持つ古式像である。他の如来像と同じく、長年風雨にさらされ表面は風化して、細かい表情はわからないが、それがより石の持つ魅力を生かしていて、おおらかで力強い地蔵石仏である。



地蔵石仏100選(32)  大徳寺地蔵宝塔石仏
京都市北区紫野大徳寺町53 「鎌倉後期」
 臨済宗大徳寺派の大本山、大徳寺は鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師が開創し、応仁の乱後、一休和尚が復興した大寺院である。勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に七堂伽藍が並び、境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ねている。

 勅使門のすぐ西に、平康頼の墓という塚がある。その塚の上に地蔵宝塔石仏がある。高さ137pの舟形光背の形の花崗岩の石材の裏表に地蔵菩薩を厚肉彫りに、多宝塔を半肉彫りにしたもので、地蔵菩薩は像高97pの立像で右手を下げて与願印を示し、左手は胸の上で宝珠をささげる、この像も大沢池地蔵石仏と同じ古式の様式で鎌倉後期の作と思われる。

 宝塔は塔身部に多宝・釈迦の二仏を並座させている。それは、釈迦が法華教を説いた時に、地中から宝塔が出現し、宝塔内の多宝如来が釈迦をたたえ、宝塔内に招き、釈迦が、多宝如来とともに坐し、説法した説話に基づくものである。宝塔をあらわした二面石仏は他にも嵯峨清涼寺もみられる。



地蔵石仏100選(33)  上善寺地蔵石仏
京都市北区上善寺門前町 「鎌倉後期」
 北区鞍馬口通寺町東入ルにある上善寺は、千松山遍照院と号する浄土宗の大きな寺院である。山門を入って右側に風化した大きな石仏が西面して坐している。高さ160pほどの光背形の石に、智拳印を示す金剛界大日如来である。鎌倉前期の作と思われる。

 大日石仏から少し右手に入った地蔵堂の横手に、多くの石仏が集められている。その中でも聖観音石仏と地蔵石仏は鎌倉後期の様式をしめす。地蔵石仏は、高さ125p、幅75pの舟形光背に、右手をさげて与願印、左手に宝珠を持つ古式の地蔵を厚肉彫りしたものである。錫杖を持たないこのような地蔵石仏は京都の古い地蔵石仏によくみかけられる。



地蔵石仏100選(34)  禅華院地蔵石仏
京都市左京区修学院烏丸町 「鎌倉後期」
 「修学院」駅より、音羽川にそって東へ800mほどすすみ、後安堂橋を渡り、修学院総門に向かって50mほどいくと、左手に石垣と特色ある鐘楼門が見えてくる。臨済宗大徳寺派の一院「禅華院」である。

 風雅な鐘楼門を入った右側に、多くの石仏が並んでいる。その中でも一際大きな石仏が、定印の阿弥陀如来像とその右に並ぶ地蔵菩薩像である。阿弥陀如来は総高175pの花崗岩製で、二重光背に像高145pの定印の阿弥陀如来座像を厚肉彫りする。地蔵菩薩も二重光背で、右に短い柄の錫杖を持ち、左に宝珠を持つ地蔵菩薩座像を厚肉彫りしたもので、阿弥陀如来よりやや小さく、総高165p、像高は128pである。

 一見した時、風貌が鎌倉期の石仏のような優雅さに欠く素朴な表現のため、室町期の作と思えた。しかし、よく見ると、やや形式的になっているが衣紋も写実的な表現で、肉付きもよく、鎌倉後期の作と思われる。



地蔵石仏100選(35)  京都国立博物館の地蔵石仏
京都市東山区茶屋町 「鎌倉後期」
京都国立博物館の中庭には鎌倉時代の十三重層搭2基をはじめとして多くの石像物が展示されている。安楽寿院の三尊石仏や革堂の大日如来石仏などが代表するものである。

 西の庭には二重蓮華座に坐し、二重円光背を背負った丸彫りに近い厚肉彫りの地蔵石仏が展示している。右手は錫杖を持ち、左手は膝の上に置き宝珠を持つ。奈良県の十輪院や七廻峠の地蔵石仏のような迫力はないが繊細な表現の石仏である。鎌倉後期の作。 


地蔵石仏100選U   地蔵石仏100選V