|
|||
福島県は大分県と並ぶ磨崖仏の宝庫である。浜通りとよばれる太平洋岸には、平安期後期を代表する磨崖仏として泉沢大悲山磨崖仏が知られている。 その他、吉名石窟群・塩崎岩屋堂磨崖仏などが平安期の磨崖仏である。 中世の磨崖仏も多く、中通りと呼ばれる東北本線沿いには、和田磨崖仏・舘ヶ岡磨崖仏・観音山石塔婆群など鎌倉期の造立の磨崖仏が多く見られる。 浜通りにある住吉磨崖仏も鎌倉期である。 大分県とくらべると、密教系の尊像が少なく、不動磨崖仏などは江戸時代までつくられなかった。多くが阿弥陀如来や薬師如来といった顕教系の磨崖仏である。 それは、平安時代のごく早い頃に活躍した法相宗の碩学、徳一の影響が大きいと思われる。彼は、磐梯山信仰と結びついた会津の恵日寺の建立をはじめ会津一帯に五薬師と呼ばれる寺々を建てた。 彼が建立したと伝えられる寺々は、宮城県から関東北部にまでに及び、一つの徳一文化圏というべきものを形成していて、泉沢大悲山磨崖仏・吉名石窟群などの磨崖仏も徳一の造建という伝承がある。 |
|||
福島の磨崖仏U 福島の磨崖仏V |
福島の磨崖仏(1) 泉沢大悲山薬師堂磨崖仏 | |||
福島県南相馬市小高区泉沢薬師前 「平安後期」 | |||
弥勒如来・釈迦如来像 | |||
釈迦如来・弥勒如来像 | |||
釈迦如来像 | |||
弥勒如来像 | |||
弥勒如来像 | |||
泉沢の大悲山には丘陵地の岩層を利用して開いた石窟が3か所現存する。その中で、最も保存状態がいいのが、この薬師堂磨崖仏である。中央に3mを超える高さの如来三尊[釈迦・弥勒・弥勒]と菩薩立像などを厚肉彫りする。中央の釈迦如来は蓮台を含めれば5mを越え力強いフォルムである。 覆い堂がかかっているが、岩質がもろく、 相当崩れていて、痛ましいが量感や迫力は少しも失っていない。 | |||
|
福島の磨崖仏(2) 舘ヶ岡阿弥陀磨崖仏 | |||
福島県須賀川市舘ヶ岡向山 「鎌倉時代」 | |||
東滑川の南岸、中世須田氏の居城であった向山丘陵の西崖面にある。この地方の中世の磨崖仏の中では最も風化が少なく、後でつけられたと思われるが赤い彩色も残る。 硬い安山岩に彫ってあるため螺髪を省略した大まかな像容であるが、硬いシャープな線のフォルムが魅力的である。像高2.15mの体躯も量感に富み、頼もしい体つきで東北を代表する磨崖仏の1つである。 | |||
|
福島の磨崖仏(3) 和田磨崖仏 | |||
福島県須賀川市和田大仏 「鎌倉時代」 | |||
阿弥陀磨崖仏(和田大仏) | |||
六体阿弥陀座像 | |||
阿武隈川の河岸段丘の崖の横穴古墳群を利用してつくられた石窟仏である。中心となる像は通称、 和田大仏とよばれる丈六の如来座像である。剥落風化が烈しく、印相がわからないので像名ははっきりしないが、おそらく阿弥陀如来であろう。胸を削って飲めば母乳が出るという信仰が、摩滅に拍車をかけ、痛ましい姿である。左方の横穴古墳を利用した岩屋には、六体の阿弥陀座像が浮き彫りにされている。 | |||
|
福島の磨崖仏(4) 住吉磨崖仏 | |||
福島県いわき市小名浜住吉搦 「鎌倉時代」 | |||
小名浜住吉町の遍照院金剛寺の裏山墓地の、第三期砂岩層に彫られた石龕の中に像高190pの厚肉彫りの阿弥陀如来座像がある。地層と像が重なり合って、独特の彫刻美を見せる。近くに阿弥陀座像、20mほど離れたところには阿弥陀三尊像もある。 | |||
|
福島の磨崖仏(5) 御城地内磨崖仏 | |||
福島県西白河郡中島村滑津御城 「鎌倉時代」 | |||
汗かき地蔵 | |||
中島村の東端の代畑は石川光房によって築かれたと云われる滑津館(なめつたて・別名南面津城)があった場所で御城と呼ばれている。その代畑の公民館の横にお堂があり、汗かき地蔵と呼ばれる地蔵石仏が安置されている。 汗かき地蔵堂への登り口の古い墓地の崖の岩に薄肉彫りの阿弥陀如来像がある。岩に高さ120p、上辺67p・下辺72pの梯形の窪みを彫り、その中に頭光を有する定印の阿弥陀如来座像を薄肉彫りしたものである。建武四年(1278)の紀年銘があり、紀年銘のある磨崖仏としては県内最古のものである。 汗かき地蔵は高さ1.7mの地蔵座像で背部に建武二年(1335)と建立年が刻まれている。その昔何か天変地異が起きる時、赤褐色の五体に汗をかき、その兆を知らせるとの言い伝えから「汗かき地蔵」の名がついたという。目鼻は風化してないが、新潟県妙高村の関山石仏群を連想する迫力のある石仏である。 |
|||
|
福島の磨崖仏(6) 観音山磨崖来迎供養塔 | |||
福島県西白河郡泉崎村踏瀬観音山 「鎌倉時代」 | |||
二瀬川の北岸の断崖に、巾約30mの枠を7段に設け、内部に石造塔婆や板碑を約320余基、浮彫りした搭婆群である。地元では俗に「踏瀬の五百羅漢」と呼ばれいる。現在は東北自動車道の陸橋の下になっている。その供養搭婆群の中心となっているのがこの磨崖来迎供養搭である。 磨崖来迎供養搭は、頭部を山形にし額部・根部を持つ高さ102p、巾44p〜53pの板碑を深く彫りだして、板碑の身部に、阿弥陀三尊を薄肉彫りにしたものである。頭部をやや前に傾けて、身体をやや横にひねって立つ阿弥陀像と、腰をかがめ蓮台を持つ観音と合掌する勢至の両脇侍は左の方に向き、飛雲に乗って来迎する様子をあらわしている。像の彫りは、押型状の平板なもので衣紋等は刻まれていない。造立当時は彩色されていたものと思われる。 |
|||
|
福島の磨崖仏(7) 仁井田双式来迎磨崖仏 |
福島県岩瀬郡鏡石町仁井田 「鎌倉時代」 |
小さな墓地の上の崖に浅い龕が彫られていて、その中に、阿弥陀来迎三尊像を2組、半肉彫りした双式来迎磨崖仏である。両三尊とも阿弥陀如来像は像高約31p、観音・勢至の両脇持は像高約22pである。磨崖仏の阿弥陀三尊は二本松市黒塚、泉崎村観音山、白河市表郷町硯石などにあるが、双式はこの磨崖仏のみである。嘉歴四年(1329)の墨書名を県文化財専門委員委員の田中正能氏が発見されているが現在は確認できない。 |
|