不動石仏50選 (1)
平安時代・鎌倉時代
  
 
 憤怒相で、教化のむずかしい衆生を折伏(しゃくぶく)して救済するのが明王である。その明王を代表するのが大日如来が人々の悪心を調伏するために忿怒の姿で現れたものとされる不動明王である。広く「お不動さま」と呼び親しまれ、災害を除き、怨敵を降伏させ、財福を得るなどの種々の祈願をかなえてくれるとして、人々の信仰を集め、平安時代以降多くの不動石仏が造像された。

 それらの不動石仏の中で最も優れ、古いのが、富山県の日石寺不動磨崖仏と大分県の国東の熊野磨崖仏である。ともに山から露出する大岩面に半肉彫りされた磨崖仏で、力強く豪快、おおらかで悠然たる姿と受けるイメージは少し違うが、両磨崖仏とも岩の持つ美しさ・厳しさと人々の信仰心が結びついた不動石仏の傑作である。平安時代の不動石仏としては臼杵石仏(ホキ・古園)や宮迫東磨崖仏などがある。

 鎌倉時代になると、九州では犬飼磨崖仏・普光寺磨崖仏なとスケールの大きな不動磨崖仏か造立された。近畿地方でも鎌倉時代になると不動石仏が造像されるようになる。十輪院不動石仏・長岳寺奥の院不動石仏・桃の尾滝不動磨崖仏・岩船不動磨崖仏などがあげられる。
不動石仏50選(2) 



不動石仏50選(1)   日石寺不動磨崖仏
富山県中新川郡上市町大岩  「平安後期」
 不動石仏の中で最も優れ、古いのが、富山県の日石寺不動磨崖仏である。日石寺不動磨崖仏(平安時代後期・重要文化財)は、山から露出する大岩面に半肉彫りされた像高3mの不動明王座像で、頭上に蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣、左手に羂索を持ち、両牙は下唇をかむ大憤怒相の力強く豪快な磨崖仏である。本尊の不動明王以外に脇持の矜羯羅童子像・制咤迦童子像、阿弥陀如来像、僧形像が刻まれていて、僧形像(行基菩薩像)は後刻と思われる。



不動石仏50選(2)   熊野磨崖仏不動明王
大分県豊後高田市平野 「平安後期」
 国の史跡で重要文化財の熊野磨崖仏は不動磨崖仏とその奥にある大日如来像から成り立っている。像高約約7mの大日如来像は通常の大日如来に見られない螺髪である。有終の彼方を見つめるような厳しい目つきで、凄みを感じさせる磨崖仏である。岩と一体となった表現は臼杵磨崖仏とはまた、違った意味で日本を代表する磨崖仏といえる。

 大日如来の頭上に、両界種子曼陀羅が刻まれていて、この曼陀羅と不動明王で、熊野山・金峯寺・大峰山を表し、熊野三山信仰を具体的に彫像で表現したものである。

 大小不揃いの石が積まれた急な階段を登り切った所でまず目に入るのがこの像高8mの不動明王像である。高さ8m、厚肉彫りの磨崖仏としては我が国最大のもので、思わず息をのむほど大きい。円く頭髪を結び、編んだ髪を左肩に垂らし、両頬がふくれ、球形に目が飛び出した顔で、右手に剣を構えた姿は、大日如来のような厳しさは感じられないが、おおらかで悠然たる姿の磨崖仏である。



不動石仏50選(3)   臼杵石仏不動明王像
大分県豊後高田市平野 「平安後期」
 質・量・規模ともわが国を代表する石仏、「臼杵石仏」は大分県臼杵市深田の丘陵の山裾の谷間の露出した凝灰岩に刻まれた磨崖仏群である。平安後期から鎌倉時代にかけて次々と彫られたもので、谷をめぐって「ホキ石仏(ホキ石仏第2群)」「堂が迫石仏(ホキ石仏第1群)」「山王山石仏」「古園石仏」の4カ所にわかれている。(石仏配置図参照)ほとんどが丸彫りに近い厚肉彫りで、鋭い鑿のあとを残す。現在61体の石仏が国宝指定を受けている。

 その中でも特に優れているのが、ホキ石仏の阿弥陀三尊像と古園石仏の大日如来像である。不動明王像は「ホキ石仏(ホキ石仏第2群)」と「古園石仏」にそれぞれ1体ずつ現存している。ただ、風化・摩滅ひど状態で注目されルことは少ない。
 
ホキ石仏(ホキ石仏第2群)不動明王 「平安後期」
 臼杵石仏を初めて訪れたのは1978年である。1996年に一連の修復工事がほぼ終了し、立派な覆い堂が設けられた。ホキ石仏の不動石仏は修復前はホキ石仏(ホキ石仏第2群)の隅っこに残欠として下に置かれていた。この画像は2012年に訪れた時に撮影したものである。両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣、左手に羂索(欠損)を持った不動明王で豪快さに欠けるが、穏やかな藤原様式の像である。
 
古園石仏不動明王 「平安後期」
増長天・不動明王・勢至菩薩・文殊菩薩・宝生如来・大日如来
不動明王
不動明王・勢至菩薩
 古園石仏」は像高3m近い金剛界大日如来を中心にして左右に各六体の如来・菩薩・明王・天部像の計十三体を、浅く彫りくぼめた龕の中に、厚肉彫りしたものである。

 不動明王像は向かって左端の増長天の右側にある。風化摩滅が進み、胸から下の部分は欠損状態で彫り跡は見られない。頭部も鼻の部分に大きく横に亀裂が入っている。古園石仏の修復前に訪れた時には、頭髪部の一部が残っていたが、3回目に訪れた時には頭髪部は無くなっていた。不動明王はやや荒っぽい彫り方であるが、力強い作品で、ホキ石仏の不動像より量感が感じられる。



不動石仏50選(4)   宮迫東石仏不動明王像
大分県豊後大野市緒方町久土知71-番地 「平安時代後期」
 豊肥本線緒方駅南約2.5q、徒歩30分。近くには豊後のナイアガラとよばれる原尻の滝がある。低い丘陵斜面の東南に彫られた石窟の奥壁に、大日如来と伝えられている如来形座像を中尊として右に不動明王立像、左に持国天像を厚肉彫りする。その左右の壁面に一体は破損しているが、仁王立像の半肉彫り像が刻まれている。中尊の如来像は臼杵のホキ阿弥陀像に比肩する巨像であるが、 ホキ阿弥陀如来のような森厳さはなく、茫洋としていて、親しみを覚える。

 不動明王は火炎光背を背負った立像で頭上に蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣、左手に羂索を持つ。頭髪・着衣は朱色、肉身部は黒色で彩色されている。童顔の穏やかな顔の不動で地方的な素朴さがあふれている。



不動石仏50選(5)   臼杵門前石仏不動明王像
大分県臼杵市大字前田字大日  「鎌倉時代」
 臼杵にはもう一つ平安後期〜鎌倉時代の磨崖仏がある。臼杵磨崖仏の北、臼杵川沿いの小高い丘の麓にある門前(もんぜ)磨崖仏がそれである。臼杵石仏の一部として国の特別史跡に指定されている。2mほどの如来形座像を中心に、下記のような像が残っている。不動明王以外は破損が甚だしい。

 定印如来形座像の左右に菩薩形座像と思われる像があり、三尊形式になっていたと思われる。面相も体躯もいたみが激しいが、堂々たる像で、臼杵の石仏群と通じるところがある。藤原時代の制作と考えられる。

 不動明王は像高150pの厚肉彫りの立像で、石仏には珍しい八頭身のすらっとした姿体である。鼻が欠けているが、保存状態はよく、木彫仏の様な写実的な磨崖仏である。鎌倉時代の作と考えられる。二童子が不動の左手に並んで配されているのが珍しい。



不動石仏50選(6)   犬飼不動磨崖仏
大分県豊後大野市犬飼町田原渡名瀬  「鎌倉時代」
 岩層にさしかけて建てた覆堂の中にある。凝灰岩の岩層に像高約3.8mの不動明王と像高約1.7mの制多迦童子と矜羯羅童子を厚肉彫りしたものである。不動明王は右手に剣、左手に索を持つ結跏趺坐像である。温和な作風であるが、堂内で間近に見ると、押しつぶされるような圧迫感がある。体躯の所々に赤色の彩色が残る。



不動石仏50選(7)   普光寺磨崖仏
大分県豊後大野市朝地町大字上尾塚  「鎌倉時代」
 普光寺の本堂から谷を隔てた、高さ20m、幅10mの大岸壁に、高さ約8mの巨大な不動明王像と2童子が彫られている。不動は右手剣、左手索の半肉彫り座像である。遠くから見ると扁平な印象を受けるが、近づくとかなり量感が感じられる。線彫りの像をのぞくとわが国の磨崖仏では最大教の巨像である。一面に紫陽花の花が咲いた谷を隔ててこの赤茶色の磨崖仏を見た時の印象は忘れられない。

 不動明王像の、向かって右手に、石窟が2カ所あり、その一カ所に護摩堂がはめ込まれるように建てられ、その右窟壁面に高さ3mの多聞天の半肉彫りの磨崖仏がある。

 普光寺は豊肥本線の朝地駅の南の山中にある。最近、道が整備されて、観光バスも駐車場まで行けるようになった。




不動石仏50選(8)  鵜殿磨崖仏不動明王像
佐賀県唐津市相知町相知字和田  「鎌倉後期〜南北朝時代」
 鵜殿窟磨崖仏は佐賀県の唐津市相知町にある磨崖仏で、大きな丘の頂上近くに切り立つ岩壁を穿った石窟に不動明王像など多くの像を半肉彫りする。石窟は現在著しく崩れ、かって窟内にあった磨崖仏はほとんど露出している。現在58体が遺存する。歯を食いしばる形相は怪奇的で、地方色濃厚な磨崖仏である。地方色濃厚な磨崖仏であるが、力強く宗教的な情熱が感じられる石仏群である。その鵜殿窟磨崖仏では3体の不動明王像を撮影したが、どれも土俗的な怪奇さが漂う像である。
 石窟の跡が一番よく残る場所の奥には半肉彫りの十一面観音があり、その向かって左に持国天、その向かい合う岩壁に多聞天が彫られている。この三尊は鵜殿磨崖仏では最も風化が少なくこの場所が現在、鵜殿磨崖仏の中心となっている。この場所にこの不動明王立像がある。多聞天の向かって左横に重なるように薄肉彫りされたもので、風化が進み岩と一体となっているため一見しただけでは気がつかない。

  不動明王の髪は左右に渦を巻いた螺髪風の形が一般的だが、この像の髪は逆立った焔髪で、左肩に垂らした髪も弁髪というより垂髪である。右目を天に向けて左目を地に向けた顔は体に比べると大きく、鼻や口がかけて欠損していることも相まってより怪奇な姿に見える。
制多迦童子
 十一面観音や不動明王、持国天がある石窟の向かって左には如来座像を彫った小龕か続き、その左に不動三尊を彫る。不動は立像で他の2体の不動と比べればオーソドックスな姿である。制多迦童子は、エジプト絵画のように肩は正面を向き顔は横顔になっていて、手には蛇を握り、オリエント風で、印象的な彫刻である。
矜羯羅童子
 入り口付近の崩れ落ちた岩塊に彫られた不動像は薄肉彫りの座像で、焔髪が逆立ち、右目を天に向けて左目を地に向け、牙を出して歯を食いしばった姿である。この像も中心部の不動立像と同じく、顔が大きく、怪奇な姿である。羂索の代わりに蛇を持つ。像の向かって右下に2体の如来座像があり、その隣に矜羯羅童子と思われる像がある。
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不動石仏50選(9)青木磨崖梵字群倶利伽羅不動 
熊本県玉名市青木上前田131 熊野座神社内  「鎌倉〜室町時代」
 玉名市青木の熊野神社境内には、鎌倉後期に作られたといわれる、高さ約10m、幅60mほどの凝灰岩の岩壁に彫られた梵字群がある。作者不明だが、唐僧、是無畏三蔵の作とも伝えられる。

 圧巻は剣と梵字(カーン)を組み合わせた倶利伽羅不動である。蓮華座を含め3.8mの長さをもち、梵字を剣で貫いたように表現している。倶利伽羅不動とは岩上で火炎に包まれた不動明王の化身である黒竜が剣に巻きついて、それをのもうとするさまを表したもので、石仏としては江戸時代以降、水神として滝や湧水地、手水舎に造立された。



                                                                                                                          
不動石仏50選(10)   元宮磨崖仏
大分県豊後高田市真中字宮田  「鎌倉末期〜南北朝時代」
不動明王・矜羯羅童子
 田染郷の総社であった八幡神社の北側の凝灰岩層の岩壁に6体の立像を浅く半肉彫りする。向かって左から地蔵菩薩・持国天・欠損像(制多迦童子)・不動明王・矜羯羅童子・多聞天である。いずれも穏やかな表情で、鎌倉末期から室町初期の作と思われる。不動明王は像高203pの立像で頭上に蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手で腰のあたりで長い剣を持ち、左手を肩近くまで上げて羂索を持つ。


不動石仏50選(11)   桃尾の滝不動三尊磨崖仏
奈良県天理市滝本町  「鎌倉時代」
  「下滝本」のバス停から坂道を登ると三方花崗岩にかこまれた正面に20mばかりの滝が音を立てて落ちている。桃尾滝不動三尊磨崖仏は、その滝の向かって左の岩壁にある。

 岩面を長方形に彫りくぼめ、不動明王を板彫り状に浮き出し、線彫りで面相や着衣を線彫りで表したもので、勇壮で力強い像である。脇持のコンガラ童子・セイタカ童子も板彫り式線刻である。火焔は枠の外まではみ出す。技法的にも類の見ない像で富川磨崖仏ほどの雄大さはないが同じように岩の厳しさに正面から取り組んでいて迫力がある。



不動石仏50選(12)   十輪院不動石仏
奈良市十輪院町27  「鎌倉時代」
 境内の庭の北側の小堂内に鎌倉中期の作で高さ2mほどの板状石の全面に半肉彫りされた不動立像がある。燃えさかる火焔を光背として表し、両眼を見開いて、右手に剣を、左手に羂索を持つた迫力のある不動石仏である。火焔には赤と黄の彩色された跡が残る。



不動石仏50選(13)   長岳寺奥の院不動石仏
奈良県天理市柳本町下長岡  「元徳2年(1330) 鎌倉後期」
 長岳寺の東にある大和を代表する山城跡のある龍王山へ行く登山道を2qほど上ったところに、分かれ道があり、そこから数百m進むと長岳寺奥の院不動石仏がある。舟形の火焔光背を背負った像高153pの不動立像の厚肉彫り像である。引き締まった顔や衣紋・風になびく検索など写実的な表現の優れた不動石仏である。近くにこの不動の勧進碑があり、勧進者名と「元徳弐年庚午正月廿七日」の刻銘がある。



不動石仏50選(14)   念通寺不動石仏
奈良県香芝市今泉736  「鎌倉時代」
 西名阪道「香芝IC」の南の今泉簡易郵便局の近くに融通念仏宗の念通寺がある。その念通寺の境内に覆堂がありその中に鎌倉時代初期の不動石仏が安置されている。高さ78pの不整形の花崗岩の自然石に、岩座に立つ像高35pの不動明王を半肉彫りしたものである。巻髪の先を束ねて左肩に垂らし、牙をむき出し、肘を張って右手で利剣を構え、肩まで上げた左手で羂索を握る姿で小像であるが迫力のある石仏である。



不動石仏50選(15)   送迎(ひるめ)不動石仏
奈良県王寺町畠田七丁目  「鎌倉後期」
 王寺ニュータウンへ国道168号線から王寺ニュータウンへ入る道の途中に永福寺という寺がある。その寺の北の池付近から細い山道を70mほど入った林の中の覆堂に祀られている。

 高さ90p・幅30センチ・厚さ17pの安山岩の自然石を使って、岩座に立つ像高62pの不動明王を浮き彫りにした石仏である。顔を左にやや傾けて、体をくの字に捻ねり、巻き毛を束ねて左肩に垂らし、右手の剣は肩に担ぐように持つ。上部が火焔状にとがった石材をうまく利用した、絵画的な表現の不動像である。写実的な表現で鎌倉後期の造立と考えられる。



不動石仏50選(16)   岩船不動磨崖仏(一願不動)
京都府木津川市加茂町岩船 「弘安10年(1287) 鎌倉時代」
 「唐臼の壺磨崖仏」から岩船寺へ向かうハイキングコースをしばらくすすむと、三差路に出るその辻を右に数メートル行くと「笑い仏」があり、左の山道を進むと岩船寺に出る。その山道を数メートル進んだところから下りた谷間の藪の中に露出した大きな岩面に薄肉彫りさた岩船不動磨崖仏がある。やや斜め向きの顔は両眼を見開き、眉をつり上げた憤怒相で、剣を右手にかまえ、索を左手に持った不動明王立像である。風化が少なく、午後になると木漏れ日があたり、憤怒相であるがどこか穏やかな顔が浮かび上がり、印象的である。

 像の向かって右下方に「弘安十年丁亥 三月廿八日 於岩船寺僧□□令造立」の刻銘がある。



不動石仏50選(17)   岩船寺不動石仏龕
京都府木津川市加茂町岩船  「応長2(1312)年 鎌倉時代」
 岩船寺は開基は行基と伝える古寺で、本尊は阿弥陀如来像で10世紀を代表する仏像として知られている。三重塔(室町時代)は中世後期の代表作ともいわれており、重要文化財に指定されている。現在は真言律宗の寺院で紫陽花の寺としても知られている。

 岩船寺には鎌倉時代から室町時代にかけての多くの石造物か残されていて、五輪塔・十三重石塔などが重要文化財となっている。不動明王を奥壁に刻んだ石室も建造物として重要文化財に指定されている。

 この石室は屋形風の石造建築で奥壁と二本の柱で寄せ棟造りの屋根を支えたもので、奥壁に頭上に蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣を構え、左手に索を持つ不動明王立像を浅く半肉彫りされている。石室の下は霊水を溜めるようにできていて、この水が眼病に効くとしてもらいに来る人が多かったという。「応長第二(1312)初夏六日  願主盛現」の刻銘がある。



不動石仏50選(18)   森八幡宮線刻不動石仏
京都府木津川市加茂町森  「正中3(1326)年 鎌倉後期」
 森八幡宮は岩船寺の4qほど北の山間の村、加茂町森にある 古社であ。その神社の境内の二つの大石の正面に頭部をアーチ形にしたほりこみを作り、不動明王と毘沙門天の立像を達者な線 で線刻する。不動像は直立でやや右方を向く。右手に剣、左手に索をとり、全身から火焔が立つ姿は雄壮である。

 毘沙門天像の左肩に「武内之本地」、不動像の左肩に「松童之本地」とある。不動像には「正中三年虎丙二二月十八日」という造立銘文がある。武内・松童は八幡宮の摂社。現在、岩面が剥落するおそれがあるため、雨露に直接触れないように覆屋根がもうけられている。



不動石仏50選(19)  谷山不動磨崖仏
京都府木津川市山城町平尾峰山 「鎌倉時代」
 JR京都線「棚倉」駅の東北東、約1.5q。木津川の支流不動川の谷沿いの山腹にある。谷沿いの道から石段を百数十段、登ったところの岩にさしかけるようにお堂がつくられ、その中に不動磨崖仏がある。

  内部の岩肌に瑟々座を刻み、その上に船型の彫り窪みをつくって、蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣を構え、左手に索を持った不動明王座像を半肉彫りしたもので、鎌倉中期の作と思われる。温和な中にも迫力がある不動磨崖仏である。



不動石仏50選(20)  富川磨崖仏線刻不動立像
滋賀県大津市大石富川町  「鎌倉時代」
 富川磨崖仏の不動立像は像高6.3mの雄大な阿弥陀三尊像から少し離れた場所に刻まれた線刻像である。大きな阿弥陀三尊像に隠れて目立たないが、森八幡宮線刻不動石仏と並ぶ優れた磨崖仏である。森八幡宮像は鋭く伸びやかな鑿跡を残した線刻像であるが、この像は典雅なより絵画的な表現の線刻像である。



      
不動石仏50選(21)   総願寺跡宝塔不動明王立像
岡山県倉敷市児島下之町田和   「建仁3年(1203)  鎌倉初期」
 倉敷市児島下之町の民家の間に小さな社(王子権現社)があり、社の東側に鎌倉時代初期「建仁3年(1203)」に造立された宝塔(高さ216p)がある。自然石を基盤にし、四方大面取りにした長い塔身に仏像が彫られている。

 南面(正面)に多宝・釈迦の二仏、西面に弥勒如来(釈迦如来説もあり)座像、東面に阿弥陀如来座像、北面に不動明王像が薄肉彫りしたもので、塔身四隅の面取の所に各1行、合わせて4行の刻銘がある。(「総願寺塔□一切衆生現世安穏後生善所」「建仁3年(1203)亥癸二月十日酉己律師□□敬白」の2行と、諸行無常と一光一花の偈文)

 火災のため花崗岩の塔身は破損しているが、東面だけは無事である。北面の不動明王像は右手で剣を立てて構え、左手で腰のあたりで羂索を持った立像で、頭部は大きく四頭身で、顔は大きく痛んでいるため憤怒相に見えず、童子のような風情である。



不動石仏50選(22)  保月六面石幢不動明王
岡山県高梁市有漢町上有漢  「嘉元4年(1306) 鎌倉後期」
第六面上部の不動明王座像
第一面下部の不動明王座像
 岡山県には国の重要文化財に指定された石仏はみられないが、宝塔などの石塔は何体か見られる。その内、2つが上房郡有漢町上有漢にある。保月三尊板碑と保月六面石幢である。ともに鎌倉後期、大和の伊派の仏師、伊行恒(井野行恒)の作である。伊行恒は和歌山県地蔵峰寺地蔵石仏(重文)や奈良市南田原のきりつけ地蔵(阿弥陀磨崖仏)などの作者として知られている。

  三尊板碑から20mほど離れた保月山高雲寺跡に宝塔とともに六面石幢が立っている。六面石幢は花崗岩製で、高さ263p、頂上に小五輪塔の水輪以上がのせられているが、笠と六角柱の幢身部分は造立当時のものである。幢身の各部の上部に、二重円光の彫り窪めの中に仏菩薩など(弥陀・観音・勢至・弥陀・虚空像・不動)の像容を薄肉彫する。

 第一面の弥陀の下には、釈迦・弥勒・普賢・薬師・地蔵・不動を、他の面の彫像下には種子を、そのまた下に銘や偈を刻まれている。各彫像は小さいが、迫力があり、重要文化財にふさわしい石幢である。第6面下方に「嘉元四年(1306)十月廿四日、願主沙弥西信結儀西阿、大工井野行恒敬白」と刻む。


不動石仏50選(2)