大和の地蔵石仏

 

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大和高原1
大和高原2
 
 地蔵菩薩は、釈迦入滅後、弥勒仏が出世するまでの間、無仏の世界にあって、衆生を救済する菩薩である。平安後期、末法思想の広がりにともなって、地蔵菩薩は閻魔王の本地仏で、六道を巡って衆生を救い、極楽へ行けるように力をかしてくれると信ぜられ広く信仰された。

 頭は声聞形(僧形)で、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿が石仏でも圧倒的に多く、全国的には合掌像がこれにつぐ。しかし、大和では合掌像はあまり見られず、かわりに錫杖を持たず十輪院本尊や尼が辻地蔵のよう右手をたらし与願印の古式の像や大和郡山市の矢田寺の本尊のような右手をあげて来迎印を結ぶ矢田寺型の像がよく見られる。

 石仏では「春日石窟仏」などの平安末期が最も古い作例である。春日石窟仏には現在4体の優美な地蔵磨崖仏が残っている。鎌倉時代になると大和を中心に地蔵石仏の造立は盛んになり、街道沿いなどに多数造立された、柳生街道などの山間の街道には磨崖仏が多数彫られた。

 大和の地蔵石仏の傑作が十輪院本尊の地蔵石仏である。それと並ぶ地蔵石仏が「七廻峠地蔵石仏」で、荒削りであるが、張りのある肉付きで力強い石仏である。「西法寺地蔵石仏」など鎌倉中期の石仏は同じように、活気にみちた力強い表現のものが多い。
 また、鎌倉後期になると、「三谷寝地蔵」や「長岳寺笠塔婆」など、鎌倉中期に比べると、力強さは薄れるが、写実的な端正な石仏が多くなる。

 南北朝・室町時代になると多数の地蔵石仏がつくられるようになる。しかし、鎌倉期のような力強さや写実性は薄れ、形式的な石仏が多くなる。その中でも「柳本墓地地蔵石仏」は個性的な迫力のある秀作である。

 江戸時代になると、各地で、地蔵講や地蔵盆などがひろがり、念仏供養、回国供養その他色々な供養塔の主尊として、墓碑として、地蔵石仏の造立は非常に多くなる。そのため、関西地区を中心に現在では石仏=地蔵というイメージが定着している。しかし、江戸時代の地蔵石仏(特に関西地区)は造形的には鎌倉時代のそれに比べると、形式化し魅力はなくなる。そのような江戸時代の地蔵石仏の中で「滝本墓地地蔵磨崖仏」などは鎌倉時代以来の伝統を受け継いだ秀作といえる。

参照文献

 奈良県史7 石造美術 清水俊明  名著出版  昭和59年
 大和の石仏 清水俊明  創元社  昭和49年
 石の奈良 川勝政太郎 五味義臣   東京新聞出版社  昭和41年