村田刑部の妻の幽霊 

 
 庵礼二十四輩ではこの石像は二十四輩23番とされるが、村田刑部の妻の幽霊の説話は二十四輩3番の無量寿寺に関わる次のような説話である。

 地頭の村田刑部少輔平高時の妻が、難産のため、十九歳で死亡した。高時や親戚一同が、在所の無量寺境内に葬ったが、、残された子供が心残りであるかのように、毎夜幽霊となって現れるようになった。住職が禅の教義に基づき、供養しても一向に効き目がなく、ついに住職も逃げ出し、無住寺になってしまった。  

 高時や村人はは成仏できずにいる妻を不憫に思い、親鸞聖人が鹿島神宮に参詣のため、当地を通られることを知り、聖人に済度を願う。訴えを聞き入れた聖人は、村人達に、多くの小石を集めさせ、自らその小石に、一石一字ずつ浄土三部経二万六千六百十二字を書写し、幽霊出現の墓へ埋めて、念仏を称えた。すると恐ろしい幽霊は菩薩の姿に変じ、無事往生を遂げたという。「弥陀たのむ こころをおこせ 皆人の かわるすがたを みるにつけても」という親鸞聖人の歌はこのときのものと伝えられている。

 親鸞聖人はこの寺に3年逗留し布教につとめ、その後、同行していた弟子の順信に寺を譲り、これまでの禅院を浄土真宗寺院とし、無量寺に寿を加え、「無量寿寺」としたという。

                  参照 
無量壽寺 | 鉾田市観光協会HP