焼堂の石仏 親鸞の説話と二十四輩の石仏 |
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香川県の南部、徳島県との県境付近、塩江温泉で知られる高松市塩江町の焼堂地区に二十四輩霊場を勧請した石仏群がある。県道沿いの小山の麓から頂上にかけての山道に二十四輩霊場石仏を安置している。 焼堂の二十四輩霊場は昭和7年に開かれたものであり、旧塩江町が設置した「二十四輩由来」と題する案内板には二十四輩の説明とともに「後に二十四の草庵(道場)を巡拝する風が起こり、二十四輩と言われるようになりました。しかし、徳風を慕うために関東まで行くには困難なので、遠い地にあっても参詣できるように建立したものです。この二十四輩さんは、昭和二年にこの地で開眼されました。…」と記している。 焼堂の石仏の魅力は、法然、親鸞などの石像と法然・親鸞などに関わる逸話や仏教説話を刻んだ石像群にある。これらの石像は二十四輩巡拝の石仏のある小山の麓に安置されている。 二十四輩石仏は他にも見られ高松市の牟礼町と庵治町2町にまたがる「庵礼二十四輩」が知られていて、ここでは庵礼二十四輩23番の幽霊を静める親鸞聖人を扱った珍しい石像を紹介する。 |
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焼堂の石仏(1) 二十四拝の石仏 | 二十四拝とは関東で親鸞上人の教えを受け、念仏を布教した報恩寺を建立した性信 など二四人の直弟子、またその遺跡寺院をいう。上人の孫の覚如上人が親鸞上人の正統の人二十四人を選んで関東地方での教義の広宣弘布につとめたもので、のちに二四人の直弟子を開基とする寺院巡拝の風潮がおこり二十四輩といわれるようになった。 江戸中期以降「西国観音巡礼」や「四国八十八箇所遍路」の本尊を石仏で表したミニ霊場と同じように、二十四拝の寺院の本尊阿弥陀如来を石仏で表したミニ霊場が設けられた。全国的な分布状況はわからないが、香川県のこの焼堂の二十四拝霊場と「庵礼二十四輩」がよく知られている。 小山の麓から頂上にかけての山道に第一番・報恩寺から第24番・西光寺までを表す阿弥陀石仏を安置している。石仏は船型光背を背負った半肉彫りの立像で蓮華座の下に奉納者名を刻む。小山には二十四輩の各阿弥陀石仏以外に釈迦石仏や五劫思惟阿弥陀如来、聖徳太子像、善光寺阿弥陀三尊などの石仏が見られる。 |
第一番・報恩寺 |
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二十四輩の筆頭は性信(しょうしん)で、常陸国の出身。法然に師事して浄土教を学び、のちに親鸞に帰依した。関東で布教につとめ,下総(しもうさ)横曾根(よこぞね)の報恩寺などを建立した。従って二十四輩寺院の第一番は報恩寺である。 石仏は船型の石材に厚肉彫りした、蓮華座に立つ放射光光背を負った阿弥陀立像でこけしのような簡略化した表現の石仏である。可愛らしい面相が印象的である。向かって左に「報恩寺」、右に「第一番 武蔵国」と刻む。性信の流れを組む報恩寺は茨城県常総市と東京上野にあり、「二十四輩会」は東京の報恩寺を第一番としている。 |
第二番・専修寺 |
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二十四輩の第2番は真仏(しんぶつ)で、武士の出身といわれ、関東教化中の親鸞に入門。親鸞の跡をついで下野高田専修寺の住職となる。 石仏は船型の石材に厚肉彫りした、蓮華座に立つ放射光光背を負った阿弥陀立像で、第一番は報恩寺に似たこけしのような簡略化した表現の石仏である。向かって左に「専修寺」、右に「第二番 下野国」と刻む。 |
釈迦如来 |
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第一番報恩寺の手前に安置されている石仏で、自然石の表面を平らにして花頭窓風の船型の彫り窪みをつくり、蓮華座に立ち左手で胸前に宝珠のようなものを持った半肉彫像である。向かって右に釈迦如来と刻まれている。しかし、頭髪は肉髻・螺髪の如来姿ではなく、角髪のような髪型で、太子像のように見える。 |
聖徳太子 |
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船型の石材に聖徳太子立像を半肉彫りしたもので、柄香炉を持った十六歳像(孝養太子)である。 |
五劫思惟阿弥陀像 |
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五劫思惟阿弥陀は阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間(計り知れない長い時間)ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をしている様子を表したもので、一般的には頭部螺髪が異様に大きく伸びた阿弥陀如来像で表す。 この阿弥陀像は苦行釈迦像と同じように目が落ち込み、がりがりに痩せ、右手を曲げて手を頬に当てて思索にふける姿で、思惟・修行する様子を表した珍しい像である。これと同じ五劫思惟阿弥陀像は、庵礼二十四輩にも見られる。 |
善光寺阿弥陀三尊 |
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自然石の表面を平らにし花頭窓風の船型の彫り窪みをつくり、善光寺式阿弥陀三尊を半肉彫した像である。 インド・中国・朝鮮・日本と伝わったという長野の善光寺の本尊は秘仏で誰も見たものはいない。その本尊を模したという阿弥陀如来立像を善光寺式阿弥だと呼ぶ。両脇持とともに同一の大きな光背を背にした一光三尊形式の像で、中尊の阿弥陀の印相は右手をあげて施無畏印とし、左手は垂れて薬指と小指を曲げ、他の指を伸ばした印となっている。両脇持は山型の宝冠を着け、両手を胸元で重ね合わしている 浄土真宗高田派及び一部門徒は善光寺式阿弥陀を本尊とする。 |
焼堂の石仏(2) 法然、親鸞などの石像 | 焼堂の石仏の魅力は、法然、親鸞などの石像と法然・親鸞などに関わる逸話や仏教説話を刻んだ石像群にある。これらの石像は二十四輩巡拝の石仏のある小山の麓に安置されている。法然と親鸞以外に善導大師(中国、唐の僧て浄土教の大成者)や親鸞の妻の玉日姫の像がある。一部を除き、不定形の石材の表面に花頭窓型や四角形の彫り窪みをつくり、半肉彫りであらわした像である。 |
善導大師像 |
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自然石の表面を平らにし花頭窓風の船型の彫り窪みをつくり、曲録に座る善導大師を半肉彫した像である。 善導大師は中国・唐代の浄土教の大成者。法然上人は善導大師の説く称名念仏の教えをもとに、浄土宗を開いた。浄土宗では宗祖法然とならぶ高祖としている。浄土真宗でも、七高僧の第五祖とする。 |
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丸顔で素朴な表情の像である。後には曲録(椅子)らしきものが彫られているので、坐している像と思えるが、衣紋等の表現から曲録の前で直立している姿に見える。 |
法然上人 |
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自然石の表面を平らにし花頭窓風の彫り窪みをつくり、その中に三段になった高い礼盤座に両手で数珠を持って座る法然聖人を半肉彫りした像である。 |
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法然の肖像画を参考にして彫られたと思われ、穏やかで優しい顔をした像で、法然頭と言われる頂がやや窪んだ頭になっている。 |
親鸞聖人 |
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自然石の上半分に花頭窓風にした四角形の彫り窪みをつくり、両手を離して数珠を持って座る親鸞聖人を半肉彫りした像である。石材の下の部分の丸みを生かして、礼盤座は丸い形になっている。 |
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肖像画を参考にして彫られたと思われ、肩幅の狭いなで肩で、てるてる坊主のような姿に見える。顔をよく見ると、親鸞の肖像画の多くと同じように眉尻を上げていて、しっかりとした眼差しをしている。 |
玉日姫 |
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玉日姫は関白九条兼実の娘で、親鸞は師匠法然の勧めによって玉日姫と結婚したと、真宗高田派や佛光寺派では伝えられている。 親鸞の内室といえば、恵信尼一人を指すことが多い。大正時代西本願寺の蔵から恵信尼が末娘覚信尼に宛てた書簡が発見されて以降は、本願寺では玉日姫の存在は否定されてきた。 2012年春、京都の西岸寺の玉日姫の墓所を発掘調査したところ、骨壷と骨片が発見され、玉日姫説が重視され始めている。玉日姫と恵信尼が同一人物という説もある。 |
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自然石の表面を平らにして上部に方形の彫り窪みをつくり、方形の窪みいっぱいに、両手で数珠を持って立つ玉日姫像を浮き彫りにした像である。 親鸞や法然の像と比べると薄肉彫りで立体感はないが、気品のある顔と華麗な衣装と豊かな髪の押し絵のような表現がマッチして、一途な信仰心が感じられる可憐な玉日姫像である。 |
焼堂の石仏(3) 法然・親鸞に関わる逸話 | 焼堂の石仏の魅力の一つは法然・親鸞などに関わる逸話である。法然・親鸞に関わる逸話として知られているのが、後鳥羽上皇によって法然らが流罪の刑を受けることになる承元の法難にかかわる法然上人の弟子である住蓮・安楽と松虫姫・鈴虫姫の逸話である。その松虫姫・鈴虫姫と住蓮・安楽を表した像と土佐に流される法然と越後へ流される親鸞の別れの場面の像が焼堂の石仏の石像群の中にある。 |
住蓮・安楽と鈴虫・松虫像 |
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自然石の表面を平らにして、花頭窓風の彫り窪みをつくり、上下に分けて、上に住蓮・安楽の二人の僧、下に向かい合って立つ落飾した鈴虫・松虫の2人の女性を半肉彫りする。専修念仏の停止され、法然の門弟4人の死罪、法然と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪に処された「承元の法難」のきっかけとなった伝わる事件に関わったのが、住蓮・安楽と鈴虫・松虫である。 法然上人の説法に魅了された後鳥羽上皇の女官姉妹、松虫と鈴虫が、後鳥羽上皇の熊野参詣の留守中に、御所を忍び出て、「鹿ヶ谷草庵」で法然上人の弟子である住蓮・安楽に剃髪得度を願い、住蓮は松虫を、安楽は鈴虫を剃髪する。 松虫と鈴虫が出家し尼僧となったことを知った後鳥羽上皇は激怒し、法然上人は讃岐へ流刑、弟子である親鸞聖人は越後国へ流刑。そして安楽は六條河原において、住蓮は近江国馬渕にて処刑される。鈴虫と松虫は承元の法難後、安芸国生口島光明三昧院に逃れ、安楽・住蓮の菩提を弔ったという。 |
住蓮像 |
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住蓮・安楽は美男で、美声の持ち主で、哀調を帯びた「往生礼讃」は、女心をゆさぶり、女性の信者が日毎に増えていったという。この石像の住蓮・安楽の2名の像は、その伝説にふさわしい瓜実顔の美男子に表されている。 法然が弟子の住蓮・安楽と結んだ念仏道場「鹿ヶ谷草庵」の後身が京都左京区鹿ヶ谷にある安楽寺である。現在、安楽寺には、住蓮・安楽上の墓とともに松虫・鈴虫の供養搭がある。 |
法然上人と親鸞聖人の別れ |
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方形の自然石の表面を平らにして、下部の一部と縁をを残して上部が花頭窓風になった四角形の彫り窪みをいっぱいにつくり、 法然と親鸞の別れの場面を半肉彫りする。向かって右の像は、袂を風に翻して、別れゆく親鸞で、左の杖を持って立つのは法然である。 「承元の法難」の結果、法然は土佐へ、親鸞は越後へ流されることになる。ときに法然は75歳、親鸞聖人は35歳、この後、2人は生涯相まみえることはなかったのである。 |
法然上人と親鸞聖人の別れ(法然上人) |
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親鸞は、師、法然とのお別れに際し 「会者定離 ありとはかねて聞きしかど きのう今日とは 思はざりしを」 と詠み、法然は 「別れゆく みちははるかにへだつとも こころは同じ 花のうてなぞ」 と、詠んだと伝えられている。 |
焼堂の石仏(4) 親鸞や蓮如に関する説話 | この石仏群で特にユニークで魅力的なものは親鸞や蓮如に関する説話、「大蛇済度」と「嫁おどし肉付きの面」の石像である。「大蛇済度」は夫の浮気に嫉妬した妻が、二人をかみ殺し、大蛇となって里人に災いをもたらた。 この地を通りかかった親鸞上人がこの大蛇を済度、大蛇は菩薩となって往生したという話である。「嫁おどし肉付きの面」は意地の悪い姑が鬼女の面をかぶって嫁を脅すと、その面が顔に食いついて外れなくなるというもので、吉崎御坊などに伝わる説話である。 |
大蛇済度 |
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船型の自然石を削って、人の何倍もある大蛇と、それを念仏で調伏させる親鸞聖人を半肉彫りで彫りだした石像である。他の石像のように彫り窪みをつくって、半肉彫りしたものではないため、厚肉彫りに近く、より立体的で迫力のある像になっている。 |
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頭をあげて、今にも襲いかかろうとしている大蛇に対して、親鸞聖人が、落ち着いて「南無阿弥陀仏」と唱えて、大蛇と化した女性を済度する、劇的な場面を見事に表した像である。 |
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親鸞の大蛇済度の話は二十四輩第5番の弘徳寺(茨城県八千代町)を始めとして、茨城県下妻市の光明寺、栃木県の蓮華寺などの浄土真宗の寺院などに伝わっている。弘徳寺には寺宝として大蛇の頭骨が、光明寺には大蛇が女の姿になって紫雲に乗って去って行ったときの蓮華の花弁「黒蓮華(いきれんげ)」がある。福井県には蓮如の大蛇済度の話も残されている。 大蛇に姿が変わってしまい、人を食い殺してきた女が、聖人の力によって往生していく様は、浄土真宗の信者を中心に悪人正機・女人往生功徳として広がり現代まで伝わってきたものである。 |
嫁おどし肉付きの面 |
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不定形の石材に、船型の彫り窪みをつくり、中央に大きな竹を彫り出し、向かって右に、般若の面を被って竹藪で嫁を脅かそうとする姑を、左には数珠を持って念仏を唱える嫁を半肉彫りした石像である。鬼の面は恐ろしく、嫁の顔はあどけなく好対照の表現となっている。 |
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嫁脅し肉付きの面の説話は蓮如聖人に関わる話として、富山県の吉崎御坊などに残っている。吉崎御坊の後身の願慶寺(真宗大谷派)と吉崎寺(真宗本願寺派)の両寺院に寺宝として肉付きの面と嫁脅し肉付きの面の説話を描いた掛け軸などがあり、住職の講話などで嫁脅し肉付きの面の話を聞くことができる。 毎夜吉崎へ蓮如の説法を聞きに行く嫁をよく思わない姑が、ある時、般若の面を被って寺から戻る嫁を脅したのであるが、その面が顔に付いてしまい取れなくなってしまう。己の邪心を悔いた姑は、吉崎に赴いて蓮如の前で懺悔、そして改心を確かめた蓮如が南無阿弥陀仏を唱えると面が取れたという。 |
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嫁脅し肉付きの面の説話は、大蛇済度の説話と同じように、浄土真宗の教えのありがたさを広めるための布教活動や説法等で使われた。 |
焼堂の石仏(5) 庵礼二十四輩第二十三番 | 二十四輩巡拝の石仏は、江戸後期から昭和にかけて、寺院の境内や裏山等に造立された。その中でも牟礼町と庵治町二町にまたがる「庵礼二十四輩」は、焼堂の石仏群とともに興味深い二十四輩巡拝の石仏である。第三番の「親鸞聖人と水龍」や第四番の苦行姿の「五劫思惟阿弥陀」、二十三番の「幽霊石像」などユニークな石仏がある。特に二十三番は幽霊を静める親鸞聖人を扱った珍しい石像で、一見の価値はある。(焼堂の石仏ではないが同じ高松市の同じ二十四輩巡礼と親鸞にかかわる説話の石仏なので「焼堂の石仏(5)」としてここに載せた。) |
村田刑部の妻の幽霊と親鸞聖人 |
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大きな自然石の基壇のの上に、墓石と幽霊、庵の中で坐してお経をあげる親鸞聖人を半肉彫りで彫りだした八角形石像が置かれている。墓石には村田刑部妻と彫られ、庵の横には常陸国と大きく刻まれている。裏面には「弥陀たのむ こころをおこせ 皆人の かわるすがたを みるにつけても」と親鸞聖人の歌が刻まれている。 |
村田刑部の妻の幽霊 |
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庵礼二十四輩ではこの石像は二十四輩23番とされるが、村田刑部の妻の幽霊の説話は二十四輩3番の無量寿寺に関わる次のような説話である。 地頭の村田刑部少輔平高時の妻が、難産のため十九歳で死亡した。高時や親戚一同が、在所の無量寺境内に葬ったが、残された子供が心残りであるかのように、毎夜幽霊となって現れるようになった。住職が禅の教義に基づき供養しても一向に効き目がなく、ついに住職も逃げ出し、無住寺になってしまった。 高時や村人は成仏できずにいる妻を不憫に思い、親鸞聖人が鹿島神宮に参詣のため、当地を通られることを知り、聖人に済度を願う。訴えを聞き入れた聖人は、村人達に、多くの小石を集めさせ、自らその小石に、一石一字ずつ浄土三部経二万六千六百十二字を書写し、幽霊出現の墓へ埋めて、念仏を称えた。すると恐ろしい幽霊は菩薩の姿に変じ、無事往生を遂げたという。「弥陀たのむ こころをおこせ 皆人の かわるすがたを みるにつけても」という親鸞聖人の歌はこのときのものと伝えられている。 親鸞聖人はこの寺に3年逗留し布教につとめ、その後、同行していた弟子の順信に寺を譲り、これまでの禅院を浄土真宗寺院とし、無量寺に寿を加え、「無量寿寺」としたという。 |
親鸞聖人 |
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