石峰寺五百羅漢 | ||
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京都市伏見区深草石峰寺山町 「江戸時代」 | ||
石峰寺は、伏見稲荷大社の南に続く低い丘陵地帯の中腹に位置する禅宗の寺院である。黄檗宗を開いた隠元の孫弟子に当たる、黄檗宗六世千呆(せんがい)禅師によって、正徳三(1713)年に創建された。 石峰寺には、異色の画家、伊藤若沖(1716〜1800)が下絵を描き、石工たちに彫らしたという、石仏群がある。若沖は、京都の錦の青物問屋の生まれで、青物問屋の主人として17年間を過ごしたあと、家督を弟に譲り40歳以降、画道三昧に過ごしで、中国の院体花鳥画を手本にして、緊張感の高い独自の花鳥画を完成した人で、戦後、とみに評価を高めている画家である。「動植綵絵」(宮内庁・御物)三十幅のような幻想的な傑作や野菜を釈迦や羅漢に見立てた「果蔬涅槃図」などの宗教画がある。 石峰寺石仏群は安永(1772〜1781)の半ば頃より天明元(1781)年まで、6〜7年でつくられたもので、本堂の背後の裏山の小道に沿って、釈迦誕生より涅槃に至るまでの一代を物語る石仏群になっている。したがって、石峰寺五百羅漢と呼ばれて有名であるが、主役は羅漢ではなく、あくまでも羅漢は釈迦の一生の物語を飾る劇の脇役といったところである。 石仏群は、「天上天下唯我独尊」と姿を示す釈迦誕生仏から始まり、出山釈迦、二十五菩薩来迎石仏や十八羅漢石仏、釈迦説法の群像、托鉢修行の羅漢〔羅漢(托鉢)〕の群像、釈迦涅槃の場面、賽の河原〔賽の河原地蔵〕と続いていく。その数は約500体(寺説)で、大きさは2m〜数十pで、表情・姿態はいずれも奇抜軽妙である。「果蔬涅槃図」の作者が原画を描いた石仏群らしい洒脱な石仏群である。 北条五百羅漢や山野五百羅漢や瓜生十六羅漢・香高山五百羅漢などと比べると、石や岩の美しさ生かしているとは言い難く、石仏としては劣る。しかし、一種の釈迦の一代を描いた絵巻物として見たとき、この石仏群は、魅力を増すことになる。 若沖は妹と二人、石峰寺の古庵に住み、生涯独身で過ごし、寛政十二年(1800)、85歳で没した。墓は賽の河原の石仏群を下った石峰寺墓地にある。 | ||
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釈迦誕生仏・二十五菩薩来迎石仏 |
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釈迦誕生仏 |
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二十五菩薩来迎石仏 |
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十八羅漢 |
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釈迦三尊(説法場) |
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羅漢 |
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善光寺釈迦 |
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賽の河原 |
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白衣観音? |
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