大分市の磨崖仏 |
磨崖仏の宝庫、大分県には、磨崖仏の所在地は70ヶ所以上ある。その4分の1以上は、国や県指定の史跡や重要文化財になっている。 大分県の磨崖仏の所在地は、大きく3地区に分けることができる。その中で一般に知られているのが、熊野磨崖仏を中心とした県北部の宇佐・国東半島地区と臼杵磨崖仏を中心とした県南部臼杵地区である。もう一つが、元町磨崖仏・菅尾磨崖仏に代表される県中部地区である。
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元町磨崖仏(岩薬師) |
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大分市街の南東部、JR九大線近く、道路に面した通称薬師堂といわれる堂内に、元宮磨崖仏がある。元宮磨崖仏は三尊形の磨崖仏で、本尊は薬師如来と伝えられる像高が3mを越える如来形座像である。向かって右には多聞天立像、左には不動明王立像と矜羯羅童子とセイタカ童子が刻まれているが、共に首が欠落していて、共に昔の面影はない。
臼杵石仏と同じく丸彫りといってよいほどの厚肉彫りである。向かって左の頬の下部が現在剥落し、両手首から先も欠失しているが、整った螺髪、伏目て締まった唇、円満相で豊かな頬、厚い胸など定朝形式の木彫仏を思わせる秀作である。若杉慧氏は「石佛のこころ」の中で「石佛の王者」と表現された。 岩男順氏著「大分の磨崖仏」によれば、この磨崖仏は剥落した部分に鉄釘を打ち込んだ跡や右手首の付け根の鉄芯などから、地石の不足する部分を粘土や別石で仕上げた、塑造・木造・石造彫刻の技法が併用された豊後地方磨崖仏制作技術の自由さをを示す磨崖仏であるという。 そのせいか、熊野磨崖仏や日石寺不動磨崖仏のように岩を生かし、岩と一体となった美しさに乏しく、私には「石佛の王者」という言葉がこの元町磨崖仏には不似合いなような気がする。しかし、本尊の迫力のある体躯とともに優しい眼差しは魅力的である。 |
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岩屋寺磨崖仏 |
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元町磨崖仏の南、芸術文化短大わきの道を南に下った崖下にある。像高約180pの如来坐像(推定)を中央に,計17体の磨崖仏からなる。平安時代後期の作と考えられるが、風化剥落が著しく、見るも無惨な状態となっている。しかし、向かって右端の十一面観音立像は比較的よく姿を残していて、彩色が残る流麗な衣紋に往時の盛観がしのばれる。
元町磨崖仏と同じ崖続きにあり、元町磨崖仏とともに宇佐八幡宮文書「宇佐大鏡」に記されている「岩屋寺」の遺構と言われている。 |
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伽藍石仏(南太平寺磨崖仏) |
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上野丘陵の南端、市立美術館の南の斜面に通称「伽藍」様と呼ばれる小社がある。その小社前の広場の前の崖に小石窟が3つ並んでいて、阿弥陀如来座像などか半肉彫りされている。これが大分市指定史跡の伽藍石仏(南太平寺磨崖仏)である。鎌倉時代末期から室町時代の作という。 向かって右の窟龕は、内部は1uほどの広さで、蓮華座に乗る端正な像高約57pの阿弥陀如来座像が半肉彫りされている。顔面が摩滅しているが惜しまれる。光背は舟形であるが、如来及び円光との間を弧線で繋ぎ、あたかも鳥の羽を重ねたようになった珍しい形式である。入口の左に脇持の菩薩像の頭部と胸部の一部が残っている。 中央の窟龕の奥壁にも、右窟と同じ形式の光背を持つ、像高約54pの阿弥陀如来座像が半肉彫りされている。顔は右窟の像と比べるとのびびやかさに欠ける。顔も丸顔である。鳥の羽を重ねたような光背は朱色と墨で彩られている。左端の窟龕は摩滅して現在、何も残っていない。 |
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曲石窟仏 |
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大分川の右岸に標高50mほどの丘陵があり、丘陵上に森岡小学校がたっている。その丘陵の東南の一角に南に開いた2つの石窟がある。
向かって右の石窟は、間口3m、奥行7m、高さ6mの大きな石窟で、中に像高3mに及ぶ丸彫りの座像の石仏が安置されている。頭・胸・腰・両膝部の合計5つの石材を組み合わせて作ったもので、釈迦如来と伝えられている。木造彫刻の寄せ木の技法を石仏制作に生かしたもので、臼杵石仏や元町石仏と同じように木仏師が制作に関わった可能性が考えられる。鎌倉時代の作である。石窟の入口の壁には門神として、向かい合うように高さ約150mの多聞天と持国天の二天を半肉彫りする。石窟の内部には小龕が作られ、幾つかの石仏が置かれている。 向かって左の石窟は、高さ2.2m、幅4.9m、奥行3mで、中央壁に阿弥陀三尊像を厚肉彫りする。中尊像は像高109cmで、二重の蓮華上に座る定印の阿弥陀如来像である。光背は舟形で、伽藍石仏や上岡十三重塔四方仏(佐伯市上岡)・王子九重塔四方仏(野津町王子)と同じように羽毛を重ねたような形式である。このような光背の石仏としては最も古い、平安末期の作という。 |
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高瀬石窟仏 |
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高瀬石仏は、霊山の山裾が、大分川の支流、七瀬川に接する丘陵にある石窟仏である。高さ1.8m、幅4.4m、
奥行き1.5mの石窟の奥壁に像高95〜139pの馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の5像を厚肉彫りする。赤や青の彩色が鮮やかに残り、馬頭観音や大威徳明王の火炎光背や大日如来の光背の唐草文様などは印象的である。
中尊は丸彫り近い厚肉彫りで、宝冠をいだいた、法界定印の退蔵界大日如来である。唐草文様の二重光背は、折り曲がって天井まで達し、迫力がある。他の4体は半肉彫りで、如意輪観音像の動的な姿態や大威徳明王が乗る牛の体勢など立体的な絵画表現を巧みに行なった秀作である。 高瀬石仏で最も知られているのが、左端の深沙大将である。赤い頭髪を逆立て、胸に9個の髑髏の首飾りをし、左手に身体に巻き付けた蛇の頭を握る異様な姿は、興味が尽きない。腹部には童女の顔が描かれている。深沙大将は葛城山の護法神で毘沙門天の化身とされ、馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の配列は葛城山系の修験道との関連が考えられる。深沙大将の石仏は珍しく、現在、他には白滝山(竜泉寺)磨崖仏(広島県三原市)と福島県の鮭立磨崖仏が知られるのみである。 これらの諸像は神秘的であるが、表現は穏和で柔らかみがあり、平安時代後期の作と考えられる。 |
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太田磨崖仏 |
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大分市太田の鶴迫という集落の裏に太田磨崖仏はある。凝灰岩の崖に間口3.8m、高さ77p、奥行き1.25mの龕を彫り、中央に像高113pの地蔵菩薩半跏像とその左右に各3体の地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので、木造の覆堂で囲まれている。中尊の半跏像は左手に宝珠を持ち、左手首は欠落している。向かって左の3体の真ん中の像は両手に鐃を持つ。朱や緑・青・白などで彩色されていて、光背も描かれている。刻銘から江戸時代中期の宝暦年間に造られたことがわかる。 | ||||
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参照文献
『大分の磨崖仏』 |
窪田勝典・岩男順 |
昭和49年 |
九環 |
『大分県の石造美術』 |
望月友善 |
昭和50年 |
木耳社 |