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長弓寺本堂(国宝) |
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奈良県の北西部の生駒市は、17世紀後半より、生駒聖天として知られる宝山寺の門前町として発達し、現在は、大規模な住宅開発が次々と進められ大阪のペットタウンとなっている。 生駒は、古くから奈良と大阪を結ぶ接点に位置し、行基墓のある竹林寺や、聖武天皇が行基に命じて寺を建てさせたという長弓寺など由緒ある寺もあり、古くからさかえた地である。 この生駒には多くの石造文化財がある。特に、古代から近世にかけての浪速と大和を結ぶ幹線道路であった暗峠沿いには石仏寺阿弥陀石仏(伊行氏作)や往生院宝篋印塔(重要文化財)など中世の石造文化財が多い。 役行者小角(おづの)は、奈良時代前期に生まれた実在の人物で、葛城山で山嶽修験の行を重ね、孔雀明王呪法という秘法を会得し、奇跡をたびたび起こし、あらゆる能力をそなえていたという。前鬼・後鬼を従者にして、大峯山(山上ヶ岳)を中心に活動し、修験道の開祖としてあがめられた。 山岳修験道の信仰は室町時代頃から一般庶民にも広がり、信仰集団ができ、教団が結成され、入峯修行するものが多くなった。江戸時代になるとますます盛んになり、講を組んで山上参りをする風習が広まった。役行者石仏の多くは講を組んでの大峯登拝を記念して造立されたものである。 役行者像は前鬼・後鬼の二鬼を従える三尊形式で、中世以来造立されたが、石仏としては奈良市秋篠寺にある天文15年(1546)在銘のものが古い。それに次ぐのが法融寺(奈良市二名町)の役行者像で、それらとほぼ同じ時代の役行者像がこのページで取り上げた長弓寺の行者石仏である。また、教弘寺の役行者石仏はそれらに次ぐ天正6年(1578)の作である。 |
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教弘寺行者石仏 |
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生駒山から信貴山へと続く、生駒山地は、役行者と関係の深い場所である。役行者か大峯山を開く前に修行したといわれる元山上鳴川山千光寺や役行者が修行したと伝えられる宝山寺般若窟などがある。教弘寺もその一つで役行者が如意輪観音像を安置して霊地として開いたと伝えられている。教弘寺のある小倉寺町の南の鬼取町という地名も、役行者が生駒山中で前鬼・後鬼を従えた鬼退治の伝説から来ている。
教弘寺の役行者像は石龕の中に安置された桃山時代の像で下面に前鬼・後鬼像が浮き彫りにしている。切り石で石龕を設け、内部に高さ1m、幅60cmの山形石に像高約50pの役行者倚座像を薄肉彫りする。前鬼・後鬼は像高25pほどで愛嬌のある魅力的な顔をしている。 下面左右に「天正6年」(1578)と「四月十一日」の刻銘が、側面に「舜光房 圓良房 良泉房 泉識房 禅舜房 賢良房 舜長房 禅識房」の銘がある。数多い生駒市内の行者石仏の中では一二を争う秀作である。 |
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西畑行者石仏 |
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暗峠を越える街道(現在は国道308号線)は奈良街道または大坂街道と呼ばれ古代から近世にかけての幹線道路であった。その暗峠の東側の集落が西畑である。南生駒の駅より暗峠に向かって街道を約4kmほど上ったところが西畑の集落の入り口で、芭蕉の碑と、最近、立てられた防人の万葉歌碑がある。そこには地蔵石仏・名号碑・石灯籠がある。その上手の巨岩の上にこの行者石仏がある。
高さ約1.5mの花崗岩の三角形の自然石に舟形の彫り込みを作り、像高約50cmの役行者像と像高15pほどの前鬼・後鬼像を薄肉彫りする。あどけない顔と磨崖仏のような石を生かした表現が魅力的な行者石仏である。石仏関係の本や写真集によく取り上げられ生駒の行者石仏では最も知られている。側面に文化五年(1808)(文化九年の説もある)などの刻銘がある。 |
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長弓寺行者石仏・行者の森行者石仏 |
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長弓寺は聖武天皇の命を受けて行基が創建したといわれる古刹で、本堂(国宝)は中世の寺院建築を代表する鎌倉時代の作である。境内に幾つかある塔中は宿坊になっていて、精進料理を頂ける。
本堂前の西側の石仏群の中に、この行者石仏がある。高さ1mの砂岩製の舟型石の内側を彫り窪め、役行者倚座像と前鬼・後鬼像を薄肉彫りする。砂岩のため摩滅が大きいが、室町時代後期の作風で教弘寺行者石仏と並ぶ生駒の行者石仏の秀作である。下面に刻銘のがあるが摩滅が進み判読できない。(「生駒市石造文化財 生駒谷 生駒市教育委員会S52年」には「天文廿三年(1556)」の紀年があると記している。) あすか野北1丁目と上町西村の境の山が行者の森である。あすか野北1丁目18番のはずれに登り口がある。(他に2カ所登り口がある。)その山の上に高さ約170pの自然石の下部に彫りくぼめをつくり、像高50pほどの役行者倚座像と前鬼・後鬼像を薄肉彫りする。石材は古木を思わせる自然石で、年輪のような縞模様が美しい。江戸時代の作。 |
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稲葉谷行者磨崖仏 |
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南田原町の出店から上町白谷に向かう道は、20年前は稲葉谷の名にふさわしい山の中の細い街道であった。その街道沿いの地蔵堂の背後の山の岩にこの行者磨崖仏がある。岩肌を舟形に彫りくぼめ、像高73pの役行者倚座像を半肉彫りする。
上部には笠石をはめ込み、江戸中期の写実的な磨崖仏である。脇に「奉成就大峯山三十三度供養 安永七年(1778)戊戌五月吉日 願主南田原村仁左右衛門」の刻銘がある。 5年前までは、背後の山は残っていて、修験道に相応しい雰囲気の磨崖仏であった(上の左端の写真参照)。しかし、現在は住宅開発のため周りの山は削り取られ、木も切り取られて、この磨崖仏のある岩だけが残されている。生駒市の行者石仏の中では一番気に入っていた石仏であったので、残念である。背後の山を少しでも残してほしかった。 |
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岩蔵寺行者磨崖仏・井上の地蔵行者石仏 |
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岩蔵寺はしばらく前まで無住の寺で、岩場や滝があって、かっては修験道場として栄えた所である。ここには、室町時代後期の種子十三仏碑と江戸時代の行者磨崖仏がある。行者磨崖仏は滝の南側の露出する花崗岩の岩肌に、高さ80pほどの舟形の彫りくぼめをつくり、高さ68pの錫杖と経巻を持つ役行者倚座像を半肉彫りしたものである。前鬼・後鬼像は彫られていない。江戸時代の行者石仏としては稲葉谷行者磨崖仏と共に優れた作である。
生駒市高山は茶筅の里として全国的に知られている。その高山の「大北」のバス停の北約100mの辻に「井上の地蔵」と呼ばれる石仏群(地蔵や阿弥陀・不動などの7体の石仏)がある。その中でも特色ある石仏がこの行者石仏である。高さ65pの自然石に舟形を彫りくぼめ、像高33pの役行者倚座像を半肉彫りしたもので、台石に「寛政四年(1792)九月吉日」の刻銘がある。 |
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『生駒市石造文化財 生駒谷』 | 昭和52年 | 生駒市教育委員会 | ||
『奈良県史7 石造美術』 | 清水俊明 | 昭和59年 | 名著出版 | |
『生駒市石造遺品調査報告書』 | 平成8年 | 生駒市教育委員会 |