元箱根石仏群 |
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磨崖地蔵菩薩群(二十五菩薩) |
芦ノ湖と箱根神社 |
地蔵磨崖仏(六道地蔵) |
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箱根山中には多くの石仏があるが、特に知られているのが、芦の湯から元箱根に通じる国道1号線沿いの、精進池の周辺にある石仏群である。
芦の湯から、国道1号線の最高地点を過ぎて、左手に五輪塔3基が見えてくる。(3基の五輪塔は曽我五郎・十郎兄弟と十郎の恋人、虎御前の墓と伝えられていて、虎御前の五輪塔に永仁3(1295)の刻年がある。)ここから、約300mの間に国道をはさんで多くの石仏・石塔がある。これが、元箱根石仏群である。 精進池周辺は厳しい気候と火山性の荒涼とした景観で、地獄の地として、また賽の河原として、昔から地獄信仰の霊場となっていた。その地に、地蔵講結縁の衆が救済や極楽浄土を願つて、鎌倉時代後期に石塔や地蔵磨崖仏がつきつぎとつくられていったのがこの元箱根石仏群である。 現在、元箱根石仏群周辺は史跡公園として整備され、六道地蔵の地蔵堂も復元された。駐車場の近くには、立体映像や迫力あるサウンドを駆使し、絵やジオラマで地獄や地蔵の救済を再現する展示施設である僧坊風の木造建築物石仏・石塔群保存整備記念館(ガイダンス棟)もたてられた。 ガイダンス棟から精進池のまわりの遊歩道におり、国道下のトンネルをくぐり、10mほど上った山裾に、六道地蔵(六地蔵)と呼ばれる元箱根石仏群、最大の地蔵磨崖仏がある。高さ3m余りの蓮華座上に結跏趺座する巨像で、左手に宝珠、候補の右手には鉄で作られた錫杖を持つ(右手と錫杖は地蔵堂とともに鎌倉時代風に作り替えられた)。向かって左の岩面に「奉造立六地蔵本地仏」・「正安二(1300)年八月八日」などの文字が刻まれている。 厚肉彫りというより丸彫りに近い磨崖仏で、引き締まった端正な表情、薄ものの質感を巧みにとらえた衣紋の襞、胸の華やかな瓔珞など、写実的な表現で木彫仏を思わせる。熊野磨崖仏のような岩の存在感、生命感があまり感じられず、巨像の割に迫力を欠くように思える。 精進池沿いの遊歩道に戻ると、遊歩道と国道の間の三角形の自然石に、地蔵菩薩が半肉彫りされているのが目に入る。像高50pほどで右手に錫杖、左手に宝珠を持つ、通称「火焚地蔵」で「応長元年(1311)」の年紀銘がある。向かって右には小さな2体の地蔵が追刻されている。 先祖の霊が精進池の対岸の山を越えて駒ヶ岳に赴くと信じられていて、現在でも、身内に不幸があったとき、四十九日以内に六道地蔵に参り、この地蔵の前で送り火を焚く信仰がある。「火焚地蔵」はそのためについた名前である。 精進池沿いの遊歩道をしばらく進むと、高さ3mほどの大きな宝篋印塔が見えてくる。通称、「多田満仲の墓」と呼ばれ、元箱根石仏群でもっとも古い年紀銘、「文永四年(1296)」が基壇に刻まれている。故川勝政太郎博士によるとこの宝篋印塔は関西形式と関東形式の2つの様式がみられ、関西形式から関東形式に移行する最初の塔であるという。塔身の一面にはみごとな厚肉彫りの釈迦如来座像が彫られている。 |
宝篋印塔から精進池に沿って遊歩道を進むと、三角状に突き出た高さ3mほどの大きな岩が見えてくる。この岩に阿弥陀如来(図16)と蓮台を捧げる供養菩薩(図6)と21体の地蔵菩薩が厚肉彫りされている。国道を挟んだ岩に彫られた3体の地蔵菩薩と合わせて26体(菩薩は25体)になり、「二十五菩薩」と呼ばれている。(下記図参照)
その中でも、優れているのが、阿弥陀如来(図16)〔像高98p〕や東面の向かって右端の地蔵菩薩(図1)〔像高90p〕やそれに続く図2や図3の地蔵菩薩など大型の石仏である。ともに、木彫風の精巧で丁寧な彫りで、衣紋の表現も写実的で、見ごたえがある。岩に舟形を彫りくぼめてそこに厚肉彫りで彫られているため、岩の存在感、生命感が感じられ、磨崖仏としては六道地蔵よりは優れているように思える。 二十五菩薩から国道をわたって、しばらくいくと曾我兄弟の墓と伝えられる五輪塔がある。 |
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アクセス |
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JR「小田原」駅から(または小田急、箱根登山電車「箱根湯本駅」から)、伊豆箱根バス、箱根登山バス(箱根町、元箱根行)で「六道地蔵」下車すぐ。 | |
(東京方面)
東名厚木より小田原厚木道路・箱根新道へ、芦ノ湖大観ICから国道1号線に入り、北東へ4.5q。 (大阪・名古屋方面)東名御殿場ICより、国道138号線と国道1号線で24q。または東名沼津ICより、国道1号線を30q。 |
参照 | 『石仏』 日本の美術36 | 久野 健 | 昭和50年 | 小学館 |
『箱根の石仏』 箱根叢書19 | 澤地 弘 | 平成元年 | 神奈川新聞社 |