守屋貞治の石仏50体
  
 
  江戸時代の石仏の魅力は修那羅の石神仏や因島白滝山の石仏に代表されるような、教典や儀軌にとらわれない自由奔放な表現にある。もちろん、江戸時代の石仏が全て教典・儀軌にとらわれず、制作されたわけではない、多くは儀軌に則りつくられた、地蔵や観音などの石仏である。しかし、教典・儀軌にとらわれているがゆえに、形式化して非個性的なものになってしまっている。

 そのような江戸時代の石仏の中で、教典・儀軌に基づいて写実的な表現で制作し、しかも、形式化に陥らず、個性的である種の精神性を感じられる石仏がここに紹介する、高遠の石工である守屋貞治の彫った石仏である。
守屋貞治(1765〜1832年)は、 長野県の高遠町に生まれ、十四、五歳の頃から石工の修行に励み、 二十代で自立して以来、 六十八歳で大往生するまでの間に、三百四十体余の石仏を残した。

 貞治に大きな影響を与えたのは上諏訪の温泉寺の住職・願王和尚で、貞治の彫技と人物を深く愛し、彼の大作には偈や讃を書き与えて彫りつけさせ、布教の先々では彼を推薦紹介した。貞治は仏門に帰依し、香を炊き、念仏を唱えながら、ひたすら彫像に励んだという。そのような貞治の姿勢が、彼の天性の素質と培われた彫技とあいまって、次々と傑作を生みだしたのである。

 そのような貞治の石仏の中で特に優れた石仏や私の気に入った石仏を50体選んで紹介する 。まず最初に、温泉寺願王地蔵大菩薩など貞治の最高傑作とされるものを選び、その後、貞治の30歳代の作品から亡くなる68歳までの作品を年代順に紹介していく。


 
守屋貞治の石仏50体(1)   温泉寺願王地蔵大菩薩
長野県諏訪市湯の脇 1-21-1 「文政12(1829)年 65歳」
 温泉寺は臨済宗妙心寺の末寺で高島藩の二代藩主・諏訪忠恒によって慶安2年(1649)に創建された。忠恒からの諏訪氏歴代の墓がある。この温泉寺の住職であったのが、守屋貞治が師として仰いだ願王和尚である。若き貞治は、温泉寺で願王和尚に仕え、雲水として仏道修行に励んだと伝えられている。

 願王地蔵大菩薩は、本堂の裏山、歴代住職の墓所にひっそりとたたずむ。願王和尚の墓標として、貞治が全精魂を傾けて彫った貞治の最高傑作である。願王和尚の慈悲に満ちた姿を彷彿とさせる地蔵菩薩である。文政12年(1829)、貞治65歳の時の作である。

 
守屋貞治の石仏50体(2)〜(5)   温泉寺西国三十三所観音石仏
長野県諏訪市湯の脇 1-21-1 「天保2年(1831) 67歳」
十一面観音 
千手観音 
如意輪観音 
馬頭観音 
 温泉寺の旧参道沿いの覆屋には西国三十三所観音石仏が安置されている。貞治は若い頃の美濃土岐の禅躰寺を第一作に、生涯4ヶ所へ西国三十三ヶ所観音を彫像した。温泉寺が最後の作で、貞治が亡くなる前年の天保2年(1831)に完成している。師の願王和尚代、藩主忠粛公の発願によると寺の縁起に記されている。

 これらの像は貞治の最晩年67歳に制作されたもので眼病悪化のため弟子たちの協力を得て彫られた。貞治が書き残した「石仏菩薩細工」には33体のうち23体を彫ったと記している。しかし、どれが弟子の作か判別しがたく、残りの10体も貞治が関わっていたと思われる。最後の磨きをかけずノミの跡す手法を採っていて、海岸寺百観音に比べるとシャープで気品のある観音像となっている。25番清水寺千手観音などは少女のような清らかなやさしい姿で印象に残る。5体ある如意輪観音もすばらしく、各像それぞれ表情が違う。

 
守屋貞治の石仏50体(6)   大聖不動明王
長野県伊那市高遠町勝間  「文政年代 50歳代」
 高遠を流れる三峰川は、たびたび洪水をおこした。その氾濫を鎮めるために、水切り不動として造立したのか、高遠町勝間の 常盤橋西袂にある、全長1.5mの大聖不動明王である。貞司の最高傑作の一つである。大火焔を背に右手で剣を構え、左手に羂索を持った座像で、眼下を流れる三峰川を静めるかのように、憤怒相で見つめている。

 
守屋貞治の石仏50体(7)〜(12)   海岸寺百観音、西国三十三所観音石仏
山梨県北杜市須玉町上津金1222 「文化11(1814)年頃〜文政7(1824)年  50歳代」
十一面千手観音観音観音(5番葛井寺) 
十一面観音観音(8番長谷寺) 
不空羂索観音(9番南円堂) 
十一面観音観音(24番中山寺) 
如意輪観音(27番圓教寺) 
馬頭観音(29番松尾寺) 
 八ヶ岳の南、津金山の南腹に構える海岸寺は、行基菩薩が庵をひらいたのが始まりという古刹である。 応安年間(1368〜1375年)に鎌倉・建長寺より石室善玖和尚を招いて、律宗から、臨済宗に改め、海岸寺の開祖としたという。海抜約千mの位置にあり、 南アルプスの連峰と相対する眺望を誇っている。

 その海岸寺にある百観音石仏や地蔵石仏は一部を除いて、全て、守屋貞治が、 願王和尚と親交のあった桃渓和尚の依頼を受け、文化11年頃から10年の歳月をかけて彫ったものである。貞治の代表作といってもよい作品群で、油が乗り切り、気力充実した50代の傑作である。 特に最初に手がけた西国三十所観音の各像は穏やかで引き締まった顔で、精緻な彫りの石仏である。特にここにあげた8番長谷寺十一面観音・27番圓教寺如意輪観音・24番中山寺十一面観音・9番南円堂不空羂索観音などは印象に残る秀作である。

 
守屋貞治の石仏50選(13)〜(17)   建福寺西国三十三所観音石仏
長野県伊那市高遠町西高遠1824 「文化・文政年代  40歳代末〜50歳代」
千手観音(5番葛井寺) 
如意輪観音(13番石山寺) 
如意輪観音(14番三井寺) 
馬頭観音(29番松尾寺) 
十一面観音(33番華厳寺) 
 高遠の城下町を見下ろす高台にある建福寺は、城主保科氏の菩提寺であり、臨済宗の名刹として知られている。この建福寺には、貞治の石仏として、西国三十三ヶ所観音や延命地蔵尊・願王地蔵尊などがある。

 貞治が40歳代末から50代初めの文化年間に完成したと思われる建福寺の西国三十三所観音像は、黒光りをする青石に彫られたもので、温泉寺などの像と比べると顔も丸く、独特の顔をした観音像である。29番松尾寺馬頭観音像は迫力のる憤怒相で貞治の馬頭観音像の中でも傑作の一つである。その他、5番葛井寺千手観音像や14番三井寺如意輪観音など建福寺西国三十三所観音像のどれをとっても貞治の代表作の1つと言える。

 
守屋貞治の石仏50体(18)   福岡東墓地聖観音
長野県駒ヶ根市赤穂福岡東  「享和3(1803)年 39歳」
 福岡東墓地には2体の貞治作の聖観音像がある。墓の片隅に西向きに坐す聖観音像は貞治の39歳の作で、単体聖観音像の処女作である。刻銘から福沢氏が享和元年に亡くした次女と、享和三年に亡くした次男のため、貞治に頼んで造立したことがわかる。丸顔で口元に微笑みをふくむ。貞治の30代の作品を代表する秀作である。

 
守屋貞治の石仏50体(19)   光前寺佉羅陀山地蔵
長野県駒ヶ根市赤穂29番地  「文化元(1804)年 40歳」
 宝積山光前寺は、天台宗の寺で、貞観2年(860)に本聖上人によって開基されたれたという古刹である。信州では、善光寺につぐ大寺で、鎌倉・室町期の庭園をはじめ、三重塔・本堂・三門 などが、樹齢数百年をこえる杉の巨木の間に建ち並び、往時の盛況を偲ばせてくれる。

 この寺に残っている貞治の石仏は、三陀羅尼塔并四天王・阿弥陀如来・賽の河原地蔵尊・佉羅陀山地蔵菩薩・聖観音菩薩(真応塔)の5体で、その内4体が貞治が四十代に彫った作品で、従来の石仏の域から、貞治独自の造形仏へと、 踏み込み始めた事を明確に体現した優作である。

 佉羅陀山地蔵菩薩は山門付近の池のほとりにある。2段の台石のの上に角石、反花、円座と積み上げた上の蓮華座に両膝をたて、口元に微笑みを含んで坐している。文化元年、貞治40歳の作。

 口元は、鼻の付け根から下顎にかけて円形の彫りくぼみをつくり、その中に微笑みを含む口と円形の顎を浮き彫りにする表現で、一見すると二重顎のように見える。このような口元の表現の像は駒ヶ根市周辺の貞治仏によく見られ、守屋貞治の石仏50体(19)として紹介した福岡東墓地聖観音も同様である。(伊那谷石造物文化財研究所の田中清文氏はこれを「円形微笑型表現」と名付けられている。)

 
守屋貞治の石仏50体(20)   北の原墓地十一面観音
長野県駒ヶ根市赤穂14616  「文化2(1805)年 41歳」
 北の原墓地にある原家の十一面観音座像は貞治41歳の作で、単体の十一面観音の処女作である。福岡東墓地聖観音や光前寺佉羅陀山地蔵と同じ頃の作品であるが、「円形微笑型表現」ではなく、あっさりとした口元でやさしい初々しい顔の像である。旧三和森墓地より昭和2年に移したものである。

 
守屋貞治の石仏50体(21)   善福寺如意輪観音
長野県駒ヶ根市東伊那 大久保6174  「文化3(1806)年 42歳」
 東伊那の善福寺には4体の貞治仏があり、その内2体は裏山の西国三十三所観音石仏で、18番六角堂の如意輪観音と11番上醍醐の准胝観音である。如意輪観音は貞司42歳、文化3(1806)年の作である。小像であるが、光前寺佉羅陀山地蔵と同じく、口元は、鼻の付け根から下顎にかけて円形の彫りくぼみをつくり、その中に微笑みを含む口と円形の顎を浮き彫りにする円形微笑型表現である。貞治が書き残した「石仏菩薩細工」には願主は、「上穂町枡屋」とあるが、これには施主大沼嘉蔵の刻銘がある。

 
守屋貞治の石仏50体(22)   福岡西墓地准胝観音
長野県駒ヶ根市東伊那 大久保6174  「文化4(1806)年 43歳」
 貞治の四十代の代表作の一つは福岡西の福沢家墓地にある准胝観音である。杉の木立に南面して花崗岩の角石の大石の上に反花と三重の蓮華座を載せその上に丸彫りの准胝観音が坐す。「読誦大乗妙典塔」と基壇の角石いっぱいに刻む。塔と言うにふさわしく総高2.53mにもなる大作である。

 丸彫りのため、諸手を光背に彫りつけることができず、剣・金剛杵・宝輪・鈴などを持っ手を直に曲げて背後に一つ一つ独立して、彫りつけていて、高い技量が伺える作品である。口元は善福寺如意輪観音や光前寺佉羅陀山地蔵と同じ円形微笑型表現で、微笑みを浮かべた穏やかでひきしまった顔もすばらしい。

 
守屋貞治の石仏50体(23)   善福寺准胝観音
長野県駒ヶ根市東伊那 大久保6174  「文化年代 40歳台」
 善福寺の裏山の西国三十三所観音石仏のひとつで11番上醍醐の本尊にあたる准胝観音である。善福寺の西国三十三所観音石仏は上記の18番六角堂の如意輪観音とこの像以外は他の石工の作で、造立年代は記録がなくはっきりしないが、駒ヶ根市市のホームページでは文化・文政期(1804〜1830頃)の作としている。

 西国三十三所観音石仏の多くは貞治作の18番六角堂の如意輪観音と同じく船型光背を背負った小像であるが、この像は像高50pを超える像である。蓮葉を組み合わせた基壇の蓮華座に円形光背を背にした馬口印を結んだ十八臂の座像を厚肉彫りしたものである。口元は18番如意輪観音や福岡西墓地准胝観音と同じ円形微笑型表現で、福岡西墓地准胝観音とともに貞治の40代を代表する傑作の1つである。

 施主は上穂村(現駒ヶ根市)に生まれた歌人小町谷吉英でェ成から文化の初年に掛けて活躍した伊那南部で活躍した文化人で、仏教を深く信じ、貞司に依頼してこの像以外にも上穂追分に不動明王像を造立した。

 
守屋貞治の石仏50体(24)   建福寺延命地蔵立像
長野県伊那市高遠町西高遠1824  「文化年代 40歳台」
 建福寺延命地蔵立像は建福寺の門前の階段の西側に、階段をはさんで東側の立つ貞治の弟子の渋谷藤兵衞作の楊柳観音と対のように立つている。高145pの大作で蓮華台などの技法に貞治の40歳年代初期の特徴がうかがえる。

 
守屋貞治の石仏50体(25)   光前寺サイノ河原地蔵
長野県駒ヶ根市赤穂29番地  「文化8(1811)年 47歳」
 サイノ地蔵尊は、光前寺の奥まったところ、 人知れず寂しい杉林の中にある。 貞治作の地蔵を中心に小さなお地蔵さまが幾体も並んでいて、 それらの地蔵の膝や頭の上には小石が積まれている。また、貞治作の地蔵の膝元には、小石を積み重ねている童子が彫り出されている。「早世した子供らが、小石で塔を積んで、生前に善事の出来なかったつぐないをしょうとすると、地獄の鬼が来て積んだ塔を突き崩してしまう‥‥‥」と「賽の河原地蔵和讃」にうたわれている世界がここにある。

 光前寺の御院主が願主となって彫られたもので、半跏像像で膝の上の左手に宝珠を持つ。顔は光前寺佉羅陀山地蔵のような円形微笑型表現の微笑みを浮かべたひきしまった顔ではなく、穏やかで優しい子供のような表情である。

 
守屋貞治の石仏50体(26)   光前寺三陀羅尼塔并四天王
長野県駒ヶ根市赤穂29番地  「文化8(1811)年47歳」
広目天像 
 三陀羅尼塔并四天王は光前寺の本堂の向かって右脇に立つ高さ約4m、貞治の作品中唯一の石塔である。三重の方形基盤の上に反花、方座と重ね、その上の蓮華座に高く三層の塔を積み、その上に請花、伏鉢、九輪、請花、宝珠の相輪が乗る。三層の塔身の北面各層に、バイ(薬師如来)・ 最上軸部の四隅には、邪鬼を踏まえた四天王がたっている。文政8(1811)年、貞治47歳の造立で、願主御主院は光前寺住職寂応。貞治の作品中で最も特殊な1つであるともに、貞治の傑作である。

 
守屋貞治の石仏50体(27)   福岡東墓地聖観音
長野県駒ヶ根市赤穂福岡東  「文化10(1813)年 49歳」
 福岡東墓地にある2体の貞治作の聖観音像の一つ。もう1体の聖観音像「守屋貞治の石仏50体(18)」と同じく左手で未敷蓮華を持った座像であるが(18)の聖観音像と違って、右手を膝に置かず、葉付きの未敷蓮華にそっと添える。(18)の聖観音像が丸顔で口元に微笑みをふくむ円形微笑型表現であるのに対して、やや面長で引き締まった微笑みを浮かべる、50歳代の重厚さに繋がる秀作である。

 基壇の正面に願主、白峰尼の名を、南面に造立年を、北面に「奉造、西国・四国・秩父・九州、巡拝供養塔」と刻銘があり、霊場を巡礼した白峰尼により諸国霊場供養塔として造立されたことがわかる。

 
守屋貞治の石仏50体(28)   見性寺佉羅陀山地蔵
山梨県北杜市須玉町江草7772  「文化13(1816)年 52歳」
 守屋貞治が、 願王和尚と親交のあった桃渓和尚の依頼を受け、文化11年頃から10年の歳月をかけて彫った北杜市須玉町の海岸寺の西国三十三所観音石仏を初めとした百観音石仏は貞治の代表作の一つである。貞治は須玉町津金に滞在していたとき海岸寺以外にも須玉町に作品を残していた。その内の一体が見性寺佉羅陀山地蔵である。

 佉羅陀山地蔵は貞治の地蔵ではよく見かけるもので、半跏像像で膝の上の左手に宝珠を持ち、右手を頬に当てている。美しい蓮弁の線の三重の蓮華座に坐し、ふくよかでわずかに微笑む引き締まった顔が美しい。

 ※ 佉羅陀山(からだせんorきゃらだせん)は須弥山を囲む七金山の一で地蔵菩薩が住む浄土

 
守屋貞治の石仏50体(29)   深叢寺十三仏
長野県諏訪郡原村中新田13512  「文政2(1819)年 55歳」
延命地蔵 
阿弥陀・不動・勢至・観音 
 深叢寺(しんそうじ)は、元和4(1618)年に原村新田(現原村中新田)の村人達がこぞって檀徒となって開かれた臨済宗妙心寺派の寺院である。2代目高島藩主、諏訪忠恒によって「福寿山 新相寺」から現在の「御射山 深叢寺」に改称され、高島藩の庇護のもと栄えた寺である。明治年間に、中新田の村に大火があり、堂宇はほとんど焼失した。現在の本堂は平成になって再建されたものである。この深叢寺に2体の守屋貞治の石仏が残されている。十三仏と辨財天像である。

 十三仏は文政2(1819)年、貞治が55歳の時に造立されたものである。延命地蔵を主尊にした全高、2.6mの大作の十三仏搭である。基壇、基礎、請花を設けて、搭身部分の三面に不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閃如来・大日如来・虚空菩薩の十二体を刻み、その上に地蔵菩薩をのせて十三仏としている。惜しいことに、石質がもろいためか、大火の影響か、延命地蔵尊は摩耗が目立ち、目鼻立ちがはっきりしない。

 
守屋貞治の石仏50体(30)   深叢寺辨財天
長野県諏訪郡原村中新田13512  「文政2(1819)年 55歳」
  辨財天は本堂南側の庭の池のふちに安置されている。八臂像で、弓・矢・剣・宝珠などを持つ。小さな像であるが、貞治仏らしい端正な顔だちが印象的である。貞治が晩年に彫造した石仏を記録した『石仏菩薩細工』には「辨財天 諏訪中新田村深草寺」との記あり(336躯の石仏中67番目)。

 
守屋貞治の石仏50体(31)(32)   桂泉院延命地蔵・准胝観音
長野県伊那市高遠町東高遠2322  「文政3(1820)年 56歳」
准胝観音 
延命地蔵 
 桂泉院は臨済宗の寺院で元々は法幢院と言って高遠城内にあったが、住僧荊室広琳が来て1600年に東高遠の今の場所に移し、龍沢山桂泉院と改めた。この桂泉院の正面石段の左右、向かって右に准胝観音、左に延命地蔵の2体が坐している。

 准胝観音は円形光背を背にした三眼十八臂の座像を厚肉彫りしたものである。中央で馬口印を結び、背後の諸手は右に剣・斧・金剛杵など、左に未敷蓮華・宝輪・羂索などを持ち、二重の蓮華座に結跏趺坐する。貞治の40代の作の善福寺准胝観音に比べると面長の面相で穏やかで調和のとれた像である。苔によって像の表面が荒れているのが惜しい。准胝観音と対をなす延命地蔵も面長の面相で衣紋の流麗な線など准胝観音と作風・手法も同じである。ともに基壇の横に文政辰年の紀年銘と正面に願王和尚の讃を刻む。

 
守屋貞治の石仏50体(33)   筒沢追分不動明王
長野県駒ヶ根市福岡筒沢  「文政年代 50歳代」
 駒ヶ根市の伊那街道沿いには光前寺への道しるべを兼ねた守屋貞治の不動明王像が2体ある。1体は小町谷村不動明王で自然石に彫り抜いた立像で貞治40代の作で、側面に「左光前寺道之より三十丁」と刻む。もう一体がこの筒沢追分不動明王で、側面に「左光前寺道四十丁」と刻む。この像も小町谷村不動明王と同じく自然石に彫り窪みをつくり、半肉彫りで彫ったものでこちらは座像である。善福寺准胝観音と同じく歌人小町谷吉英が願主である。貞治50歳代の作。

 
守屋貞治の石仏50体(34)   善福寺聖観音
長野県駒ヶ根市東伊那 大久保6174  「文政年代 50歳代」
 善福寺聖観音は善福寺の本堂前の庭に安置されている。三重の蓮華座の上に趺坐する、左手に未敷蓮華を胸前に持ち、胸前に右手をたてた像で、面長で引き締まった顔で物静かに微笑みを浮かべる。基壇正面には「無畏光」と大きく3文字刻まれている。像容全体から貞治円熟期の五十代作と推定される。

 
守屋貞治の石仏50体(35)   海岸寺佉羅陀山地蔵
山梨県北杜市須玉町上津金1222  「文政年代 50歳代」
 海岸寺参道入口に祀られていた地蔵で、現在は海岸寺境内の西国三十三所観音石仏が並べられた覆屋の前に安置されている。明治時代の廃仏毀釈で、左膝・左腕・頬を支える右手首をこわされなくなっていたそうであるが、私が訪れたときには欠けた輪光を除いて修復され造立時の姿に戻っていた。貞治の書き残した「石仏菩薩細工」では「佉羅陀山地蔵大菩薩 甲州上津金村大和願主 小尾氏」と記されている像である。

 自然石の岩盤の上に見事な三重の蓮華座を彫り、その上に右膝を立てて坐している。同じ須玉町にある見性寺の佉羅陀山地蔵がふくよかでわずかに微笑む引き締まった顔なのに対して、この像は面長で優しく瞑想する女性的な姿の像である。貞治五十歳代<の円熟期の作である。

 
守屋貞治の石仏50体(36)   海岸寺延命地蔵
山梨県北杜市須玉町上津金1222  「文政年代 50歳代」
 板東三十三所観音の並ぶ前面、本堂の西側にに建つ地蔵で、百番観音造立の途中、下津金庄左衛門のの娘宗嶽妙高大姉が願主になって貞治に依頼したものである。半跏の延命地蔵で右手に持つ錫杖が欠けている。(35)の佉羅陀山地蔵と同じように気品のある優しい眼差しの面相である。

 
守屋貞治の石仏50体(37)   海岸寺墓地延命地蔵
山梨県北杜市須玉町上津金1222  「文政年代 50歳代」
 海岸寺の上段墓地の入り口にある。貞治の唯一のレリーフ調の墓石である。角石いっぱいに方形の彫り窪みをつくり、その中に光背として船型の深い彫り窪みをつくり、宝珠と錫杖を持って立つ延命地蔵を半肉彫りする。顔は(35)や(36)の地蔵のような女性的な顔立ちではなく、同じ須玉町にある(28)見性寺佉羅陀山地蔵によく似た引き締まった顔である。願主の小須田弥兵衛は佐久に住む学者で筆子塚としてこれを建立したという。

 
守屋貞治の石仏50体(38)   海岸寺百観音、板東三十三所観音石仏
山梨県北杜市須玉町上津金1222 「文化11(1814)年頃〜文政7(1824)年  50歳代」
十一面千手観音(25番大御堂) 
 板東三十三所観音石仏は西国三十三所観音石仏の完成後着手されたもので、貞治が全力を注いだと思われる西国三十三体仏に比べると、精彩を欠く。西国三十三所観音石仏の引き締まった顔で、精緻な彫りの像と比べると、やや緊張感を欠き、一部が簡略化された表現の像も見られる。板東三十三所観音石仏は本堂の西側の庭に並べられているが、同じく本堂西側の西国三十三体仏に目をとられて、あまり板東三十三所観音石仏を撮影しなかった。この十一面千手観音観音観音はつくば市にある25番札所、大御堂の本尊で穏やかな顔が目にとまったので、撮影した。 

 
守屋貞治の石仏50体(39)〜(43)   海岸寺百観音、秩父三十四所観音石仏
山梨県北杜市須玉町上津金1222 「文化11(1814)年頃〜文政7(1824)年  50歳代」
准胝観音(5番語歌堂) 
聖観音(13番慈眼寺) 
十一面千手観音(19番龍石寺) 
聖観音(29番長泉院) 
如意輪観音(30番法雲寺) 
 海岸寺の古い歴史を物語る長い石段を登ると、まず目にはいるのが江戸時代の観音堂や本堂・経堂などの伽藍とともにこの秩父三十四所観音石仏である。2回目に訪れたときには百合の花が各観音の周りに咲いていた。

 秩父三十四所観音は海岸寺百観音の中で最後に彫ったもので、板東三十三所観音で精彩を欠いていたが、再び西国三十三所観音の時に戻ったように引き締まった作になっている。

 5番語歌堂の准胝観音は貞司四十歳代の力作の福岡西や善福寺の准胝観音と比べると顔つきは細長く穏やかなで優しい眼差しの像で40歳代の准胝観音と違った魅力がある。秩父三十四所観音は西国三十三所観音と違い約3分の2の本尊が聖観音である。貞治はその聖観音をそれぞれ個性的に表現している。13番慈眼寺の聖観音は穏やかに瞑想する青年のような顔立ちであるのに対して、29番長泉院の聖観音は女性的な優しい顔である。19番龍石寺の十一面観音観音も観音像の横に咲く百合のように女性的な顔つきの像である。30番法雲寺は如意輪観音は頬に手を当て遠くを見つめるように思索する引き締まった顔が印象的な像である。

 
守屋貞治の石仏50体(44)   温泉寺延命地蔵
長野県諏訪市湯の脇 1-21-1 「文政6(1823)年 59歳」
 この像は温泉寺本堂横の鉄骨でつくられた覆い屋根の裏側が鏡状になっている覆堂に安置されている。高島藩の家老家である千野氏が願主となって文政6年に彫り上げた延命地蔵菩で、貞治の59歳の円熟期の作である。丁寧に蓮弁が彫られた見事な三重の蓮華座の上に坐す。尻上がりの眼差しできりっとしまった口元、端正で流麗な技法の力作である。

 
守屋貞治の石仏50体(45)   温泉寺墓地延命地蔵
長野県諏訪市湯の脇 1-21-1  「文政7(1824)年 60歳」
 温泉寺背後の山一帯は当寺が管理する墓地になっている。その中腹に願王和尚の墓標の貞治の最高傑作の一つ願王地蔵大菩薩などのある雲水墓地がある。その墓地の入り口のにあるのがこの延命地蔵である。願王和尚の後継者といわれた曹谷素省の供養塔で、立像地蔵尊の傑作である。文政7(1824)年、貞治 60歳の作である。

 
守屋貞治の石仏50体(46)   光前寺阿弥陀如来
長野県駒ヶ根市赤穂29番地  「文政8(1825)年 61歳」
 光前寺本堂の南側の歴代住職の墓がある墓地の中に、この阿弥陀像がある。方形、六角、反花と積み上げた台の上に高さ約40pの円柱を据え、三重の蓮華座に坐す上品上生の定印を結ぶ阿弥陀如来座像を丸彫りする。円柱正面に「大阿闍梨寂応」と彫る。貞治が彫った唯一の阿弥陀如来像である。

 口元は、鼻の付け根から下顎にかけて円形の彫りくぼみをつくり、その中に微笑みを含む口と円形の顎を浮き彫りにする「円形微笑型表現」である。貞治の「円形微笑型表現」の像としては貞司四十歳代の力作の福岡西や善福寺の准胝観音、光前寺佉羅陀山地蔵などがある。

 「円形微笑型表現」の最初の作とされるのが光前寺の寂応和尚をモデルにし彫像したとされている上赤須福沢家墓地にある延命地蔵で、貞治の三十歳代の作である。そして「円形微笑型表現」の最終作のこの阿弥陀如来が寂応本人の墓碑または供養塔である。他に寂応との関連性を認めるのは、福沢家など願主の大方が光前寺主要檀家である点である。(福岡西墓地准胝観音も福沢家墓地にある)

 以上のような理由から、「円形微笑型表現」と名付けた伊那谷石造物文化財研究所の田中清文氏は、口元円形微笑型表現は、寂応と貞治との信頼の上に生まれた表現方法と捉えている。

 温泉寺の願王和尚とともに貞治が師と仰いだ寂応和尚の墓上に捧げた生涯唯1体の阿弥陀如来がこの像で、願王和尚の墓標として彫った温泉寺願王地蔵大菩薩とともに、貞治の傑作である。

 
守屋貞治の石仏50体(47)   片田墓地佉羅陀山地蔵菩薩
三重県志摩市志摩町片田片田共同墓地  「文政11(1828)年 64歳」
 風光明媚なリアス海岸がつづく志摩市の志摩町片田の海の見える共同墓地に貞治の64歳の作である地蔵石仏がある。右頬に手を置き左手で宝珠を持つか佉羅陀山地蔵菩薩で、もとは伊勢河アの宝珠院にあり、廃寺となった宝珠院より明治4年にこの墓地に移したものである。太平洋を望む墓地の高台に置かれている。

 この石仏の造立についての経緯は「石仏菩薩細工」とともに貞治が残した「旅日記」に詳しくかかれている。「旅日記」によると、地蔵尊建立のため貞治は文政(1828)11年3月4日に高遠を出発し、3月15日に伊勢河崎に着いている。伊勢参りなどをしたあと現地で石材を探すが見つからず、結局、伊勢では気に入った石材を得られず、その後石材調達の旅に出て美濃池尻村で石材を手に入れ、その地で二ヶ月かかって地蔵尊を彫像している。6月18日に完成し、地蔵は舟で長良川を下り桑名から伊勢河崎まで海路運んでいる。

 
守屋貞治の石仏50体(48)   安楽寺如意輪観音
長野県駒ヶ根市上穂栄町9-5  「文政13(1830)年 66歳」
 赤須地蔵堂にあったものを安楽寺に移管した如意輪観音像で、安楽寺の本堂脇の立派な覆堂の中に安置されている。三重の蓮華座に右膝を立てて座り、右手を軽く頬にあて慈悲にあふれる眼差しで思惟する大型の如意輪観音である。

 基壇には「観音経書写」の銘があり、右側面には「金剛石上現慈顔 水月松風満九□ 唯為人間抜苦 養蚕悲願重於山 太宗謹題」と讃を刻み、左側面には「願主仙桂尼信施主謹立」と裏側には文政十三年歳舎庚寅冬十二月之吉」と刻まれている。西国三十三所観音石仏などとして多数、造立してきた如意輪観音の集大成と言える作品である。

 
守屋貞治の石仏50体(49)   建福寺願王地蔵
長野県伊那市高遠町西高遠1824  「文政13(1830)年 66歳」
 建福寺の本堂の西脇に坐す小さな地蔵尊が貞治の最高傑作の一つ、願王地蔵尊である。岩座に坐し、右手を上げて施無畏印、左手で膝の上で宝珠を持つ、石材は高遠石の閃緑岩で、顔から胸にかけてよく磨かれていて、雨に濡れたときなどは青光りする。守屋貞治が師として仰いだ温泉寺住職願王和尚は文政12年2月19日、この像のある建福寺での受戒会の時、急病になり、翌日、この寺でなくなっている。その願王和尚を偲んで文政13(1830)年、貞治が66歳の時に万感をこめて完成させたのがこの願王地蔵尊である。

 願王和尚の墓標である温泉寺願王地蔵大菩薩とともにこのページの最初の方に最高傑作として載せたかったのだが、よい写真が撮れず、最後の方での掲載になってしまった。(保存のため像の上に屋根が設けられていて、よい光線が得られず、この像のすばらしさを撮せなかった)

 
守屋貞治の石仏50体(50)   金剛證寺延命地蔵
三重県伊勢市朝熊町岳548金剛證寺  「天保3(1832)年 68歳」
 金剛證寺は、朝熊山の山頂にある空海ゆかりの古刹で伊勢神宮の鬼門を守る寺としても有名である。参道に追善供養の卒塔婆が林立する奥の院に、このた延命地蔵尊がある。錫杖と円光が欠損し、首の稚拙な修理が気になるが、静かで知的な表情が魅力的である。天保3(1832)年11月19日、守屋貞治は68歳でなくなる。その最後の年に彫像した像の一つがこの延命地蔵である。この像は伊勢河崎で野村家の為に彫ったもので、基柱には「石工信州高遠守屋浄律敬白」と署名の刻銘がある。