近江の磨崖仏 |
近江の国、滋賀県は、大和の国と並ぶ石仏の宝庫である。その代表といえるのが、金勝山にある、わが国屈指の磨崖仏である狛坂磨崖仏である。この磨崖仏は完全な姿で残る本格的な磨崖仏としてはわが国最古(平安初期)のものである。 その他、延暦寺香炉岡弥勒仏や藤尾寂光寺磨崖仏・富川磨崖仏など、平安後期〜鎌倉時代の石仏・磨崖仏の秀作が多数ある。また、時代は下るが大津市坂本の西教寺には越前の笏谷石でつくられた、美しい阿弥陀二十五菩薩来迎石仏がある。 近江の国は、古墳時代以降、朝鮮半島からの渡来人が移り住み、様々な文化を伝えた地で、石棺や石室などの石を扱う技術もこれらの人々によって伝えられたと考えられる。日本の古代の石仏や石塔の石造美術は、朝鮮半島の百済や新羅の国々との交流や渡来人の活躍によって生まれたものである。 百済人が大挙して移り住んだ近江国蒲生郡にある石塔寺には奈良時代前期の百済式の石造三重塔がある。また、狛坂寺磨崖仏は、韓国の慶州の石仏庵磨崖仏や南山七仏庵磨崖仏との技巧や表現様式の類似や影響が論じられていて、近江の石造美術も渡来人や新羅・百済文化の影響なしでは語れない。 鎌倉時代以降の近江の石仏の多くは阿弥陀石仏や地蔵石仏・不動石仏で、そこには天台宗や天台宗から生まれた浄土教の影響が考えられる。また、良質の花崗岩が多くあり、素材にもこと欠かない。 このような文化的歴史的土壌が近江を大和と並ぶ石仏の宝庫としたのである。このページは、近江の石仏を磨崖仏を中心にとりあげた。 |
近江の磨崖仏(1) 狛坂磨崖仏 | |||
滋賀県栗東市荒張 金勝山 「平安初期」 | |||
弥勒如来座像? | |||
右脇侍菩薩像 | |||
左脇侍菩薩像 | |||
別石の三尊仏 | |||
近江アルプスとよばれる金勝連峰は、花崗岩の巨岩が露出した独特の風景を見せ、絶好のハイキングコースとなっている。その金勝連峰には東大寺の良弁僧正がが開いたといわれる金勝寺があり、その金勝寺の西部の山中に狛坂寺跡がある。狛坂寺跡には、現在、この磨崖仏とともに、石垣の跡が残るのみである。狛坂寺は平安初期に興福寺の僧、願安が伽藍を建てたといわれているが、詳細は不明である。 狛坂磨崖仏は、狛坂寺跡の南側の、北面する巨大な花崗岩石に刻まれている。高さ、約6m幅6mの岩肌に像高約3mの如来座像と像高約2.3mの菩薩立像2体を彫る。 格狭間入りの基壇の上の須弥座に結跏趺坐する弥勒菩薩と思われる中尊は、たくましい体躯で、威厳があり堂々としている。脇侍はやや腰をひねって、如来側の手を胸に、外側は下げる立像である。三尊とも半肉彫りであるが、立体感のある重厚な像である。この三尊の上部に2組の小さな三尊像と3体の小さな菩薩形立像を浮き彫りする。また、この磨崖仏の向かって左には別石の三尊像もある。 作風は朝鮮の新羅時代の南山の七仏庵磨崖仏とよく似ていて、花崗岩という硬い岩を加工する技術から考えて、渡来人系の石工の作と考えられている。 この磨崖仏を初めて見たのは30数年前のことであるが、何回訪れても、大きな感動を与えてくれる磨崖仏である。量感や迫力においては、熊野磨崖仏などに劣るが、威厳と優美さにおいてはこの磨崖仏に匹敵する磨崖仏は日本には見あたらない。 |
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近江の磨崖仏(2) 金勝山の磨崖仏 | |||
滋賀県栗東市荒張 金勝山 | |||
茶沸観音 | |||
平安時代 | |||
重岩 | |||
室町時代 | |||
狛坂寺跡より金勝寺へのハイキングコースをたどると、狛坂寺跡磨崖仏と同じ頃の造立と思われる茶沸かし観音磨崖仏がある。また、その途中には重岩とよばれる奇岩の岩肌にも阿弥陀石仏が刻まれている。 「茶沸かし観音」は尾根道に面した花崗岩の岩肌に、高さ57pの小石龕を彫り込み、像高32pの立像を厚肉彫りしたもので小像ながら奈良時代前期の小銅仏を思わせる秀作である。「茶沸かし観音」と俗称されているが、観音ではなく、如来である(釈迦如来?)。 「重岩」は巨岩が上下に二岩重なって立っている。この岩肌の三方に、石仏が刻まれているというが、薄肉彫りの阿弥陀像の一面を除いて、磨滅していてほとんどわからない。室町頃の作と思われる。 |
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近江の磨崖仏(3) 福林寺跡磨崖仏 | |||
滋賀県野洲市小篠原 | |||
三体仏(観音・阿弥陀・阿弥陀) | |||
室町時代 | |||
地蔵石仏 | |||
江戸時代 | |||
野洲中学校の東の裏山の中に福林寺跡磨崖仏がある。野洲中学校の東側の遊歩道に沿って小川があり、その小川にかかる小さな橋を渡り、林道を10mほど進むと、観音と阿弥陀・阿弥陀の3体の磨崖仏がある。ともに、舟形光背を彫り込み、蓮華台に立つ像高30p〜50pの諸尊を半肉彫りする。形式化した室町後期の作風であるが、一番大きな観音菩薩像は端正な作で福林寺跡の磨崖仏群の中では一番の秀作である。 その3体の磨崖仏のある岩の奧にある、木の下の平たい岩の側面には、十三体の地蔵菩薩と思われる小さな像が並べて浮き彫りされている。いずれも両手を胸前に合掌していて、顔はすべて独特の丸顔で、ユーモアあふれる群像である。制作年代は江戸時代のと思われる。稚拙な作品であるが、福林寺跡磨崖仏の中では最も印象に残る石仏である。 |
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近江の磨崖仏(4) 妙光寺山地蔵磨崖仏 | |||
滋賀県野洲市妙光寺 「元亨4年(1324年) 鎌倉後期」 | |||
近江富士と称される三上山の北の尾根づたいの峰が妙光寺山とよばれる山で、その山の北斜面にこの地蔵磨崖仏がある。野洲中学校方面から入るとわかりやすい。現在、案内板がきちんと整備されていて、登山口さえわかれば、迷わずにたどり着ける。 妙光寺山の北面中腹に露出する岩壁に長方形の彫り込みをつくり、像高約1.6mの地蔵菩薩立像を半肉彫りする。地蔵は柄の短い錫杖と宝珠を持ち、木ぐつをはいている。「元享四(1324)年」の造立銘があり、近江を代表する地蔵磨崖仏である。六頭身から七頭身のすらっとした体躯であるため、力強さはあまり感じられないが、整った写実性豊かな優れた磨崖仏である。 |
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近江の磨崖仏(5) 富川磨崖仏 | |||
滋賀県大津市大石富川町 「鎌倉時代」 | |||
阿弥陀三尊 | |||
勢至菩薩 | |||
観音菩薩 | |||
不動明王 | |||
信楽川沿いの山腹の40mを越える大岩壁に刻まれた阿弥陀三尊磨崖仏である。像高6.3mで線刻彫りの大野寺や笠置寺の磨崖仏を除くと近畿では最大の磨崖仏である。 一見線彫りのように見えるが、中尊の阿弥陀如来は、像の周りをやや深く彫り沈め、板彫風に線や面を薄肉彫りした陽刻である。そのために、口や目などの表現が不自然になっている。観音と勢至の脇持は普通の手法の薄肉彫りである。 九州の磨崖仏のほとんどは厚肉彫りか半肉彫り・薄肉彫りで、線刻の像は少ない。中には臼杵磨崖仏や菅尾・元町磨崖仏のように丸彫りに近い磨崖仏もある。それに対して、近畿の磨崖仏は線刻彫りや薄肉彫りの像が多い。それは、技術の違いというよりは素材の違いである。つまり、近畿地方の岩のほとんどが硬質の花崗岩であるのに対して、九州は加工しやすい柔らかい凝灰岩であることが、この違いを作り出したといえる。 特に、この富川磨崖仏のような大規模な磨崖仏となると、花崗岩の岩に半肉彫りをすることは非常に困難なことと思われる。そのため、笠置寺虚空蔵磨崖仏(像高約9m)や大野寺弥勒磨崖仏(像高約11.5m)は線刻彫りである。笠置寺虚空蔵磨崖仏や大野寺弥勒磨崖仏は近畿を代表する磨崖仏として知られているが、私はあまり魅力を感じられない。確かに、線は美しく優美であるが、表現は絵画的で岩の雄大さ、力強さを生かしていないように思える。 富川磨崖仏は、笠置寺虚空蔵磨崖仏や大野寺弥勒磨崖仏のような優美な表現でないが、薄肉彫りや陽刻の線彫りといった方法で、岩の厳しさに正面から取り組んでいて、大岩壁をうまく生かした力強い表現で、忘れがたい磨崖仏である。 富川磨崖仏は、右耳の脇から山水がしみ出るので、「耳だれ不動」とよばれ、耳病の人の信仰を集めている。阿弥陀如来の向かって左側には線刻の絵画的な表現の不動磨崖仏がある。この不動磨崖仏も阿弥陀三尊磨崖仏と同じく鎌倉時代の作である。 | |||
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近江の磨崖仏(6) 多羅尾磨崖仏 | |||
滋賀県甲賀市信楽町多羅尾 「正中2(1325)年 鎌倉時代」 | |||
阿弥陀座像 | |||
不動明王 | |||
陶器の町として知られた信楽町の南部、三重県上野市や京都府南山城村にはさまれた県境の山里が多羅尾である。この多羅尾から御斉(おとぎ)峠を越えて上野市へ抜ける街道沿いには磨崖仏が点在している。その中でも、最も古く、多くの石仏が刻まれているのが、多羅尾の集落の東のはずれにあるこの多羅尾磨崖仏である。 大戸川沿いの細長い花崗岩の巨岩に、像高約60pの阿弥陀座像を中心に不動明王など多くの石仏を刻まれている。阿弥陀座像の光背面に鎌倉後期の正中二(1325)年の造立銘がある。他の地方の鎌倉石仏のような写実的な表現ではないが、素朴で暖かみのある磨崖仏である。 | |||
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近江の磨崖仏(7) 息障寺の磨崖仏 |
滋賀県甲賀市甲南町杉谷3774 |
地蔵座像磨崖仏 |
「至徳2年(1385) 南北朝時代」 |
不動立像磨崖仏 |
室町時代 |
三重県伊賀市との県境にそびえる岩尾山の中腹にある天台宗の息障寺は、伝教大師最澄によって開かれたと伝えられる古刹であり、周りには大岩や奇岩が点在していて修験者や忍者の修練の場所となっていたと伝えられている。 本堂の前から鐘楼脇の奥の院に続く石段を40段ほど登ると、巨岩に貼り付けるように覆堂が建っていて、奥壁に小さな磨崖仏が彫られている。高さ60pほどの船形光背を彫りくぼめ、像高32pの結跏趺坐する僧形の座像を厚肉彫りしたもので、結跏趺坐して膝上で定印を結ぶ。案内板で確認すると法界定印地蔵菩薩であるという。一見すると小像でおおざっぱな作風の像に見えるが、よく見ると柔和で豊かな表情、二重の鱗葺の蓮弁の蓮華座など整った地蔵磨崖仏である。像の左下に「至徳二年(1385)」の紀年銘があり、南北朝時代の作である。 地蔵磨崖仏よりさらに200段ぐらいの石段を登ると息障寺奥の院で眼前に屹立する高さ20m以上も巨岩がせまる。私が訪れた時はこの巨岩に接して切り妻の社殿の屋根が建てられていた。奥の院の本尊はこの社殿の上の巨岩の岩肌に彫られた像高の不動明王の立像である。火炎を背負い、右手に剣、左手に羂索を持って立つ不動明王を線彫りする。伝教大師自作の伝承がある。室町時代初期の作と考えられ、写真では伝えられないが大きく迫力がある。残念なことに、現在、崩落のためか社殿はなくなり崩落防止のため岩山全体を網の目状のワイヤーで厳重に補強している状態である。 |
アクセス |
・JR草津線「貴生川」駅下車(タクシー乗り場あり)、タクシーで12q。またはJR草津線「甲南」駅下車、タクシーで10q。 |
自動車・新名神「甲南IC」料金所より南南西へ7.2q。(料金所より「甲南IC口」交差点を右折して県道337号線に入り南へ750m、「磯尾口」交差点を右折して県道49号線を南西へ700m、三叉路を右折して新田公民館まで西へ2.2q、左折して県道132号線へ2.7q。「岩尾山息障寺」の案内板付近を右折して600mで息障寺。 |
近江の磨崖仏(8) 善水寺の磨崖仏 |
滋賀県湖南市岩根3518 「建武元(1334)年 南北朝時代」 |
地蔵立像磨崖仏 「鎌倉後期」 |
阿弥陀座像磨崖仏 「江戸時代」 |
岩根山の中腹にある善水寺は、和銅年間(708年〜715年)に創建され、最澄(伝教大師)によって中興された古刹であり、国宝の本堂をはじめとする多くの文化財を有している。善水寺には磨崖仏が3体ある。観音堂の東側の巨大な岩の高い位置にある室町時代の不動磨崖仏、地蔵堂の北側にある地蔵磨崖仏、そして歩行者用の参道の仁王門跡の北側に彫られた阿弥陀磨崖仏の3体である。ここでは、地蔵磨崖仏と阿弥陀磨崖仏について紹介する。 地蔵磨崖仏は、千体地蔵をまつった地蔵堂の北側の岩肌に船形光背を深く彫りくぼめ、像高40pほどの地蔵立像を半肉彫りしたものでよく整った美しい姿である。妙光寺山地蔵磨崖仏や少菩提寺跡地蔵石仏と同じように、柄の短い錫杖を持っていて鎌倉後期の作風である。 阿弥陀磨崖仏は、参道に面した大きな岩に座す像高90pの阿弥陀定印如来を浅く半肉彫りしたものであり、蓮華座は、花弁だけでなく茎も表現されている。体の線や衣紋、蓮華座などの表現は抽象的で写実性に乏しい。面相や像容も堅く稚拙な表現で、江戸時代の作と考えられる。しかし、参道という雰囲気と岩そのものの魅力が補って、それにりにあじわいある磨崖仏になっている。 |
アクセス |
・JR草津線「甲西」駅下車。甲西駅北口より湖南市コミュニティバス「めぐるくん」下田線・甲西駅線またはひばりヶ丘線で「岩根」下車。北へ0.8qで善水寺本堂。磨崖仏は本堂手前の参道と地蔵堂にあり。(岩根集落の北の山裾から歩行者用の参道が2カ所あり。集落内数カ所に案内板あり)。 |
自動車・名神「栗東湖南IC」より栗東水口道路/国道1号線を東へ6.6q、「正福寺東」交差点を左折し、十二坊林道に入り「日枝山手台」住宅地南端まで東へ3.1km、右折し南へ林道を南へ0.6q、右折して約0.3qで善水寺駐車場。 ・名古屋方面からは新名神「土山IC」より西へ約20q。( 「土山IC」より県道24号線を経て国道1号線で西へ17.4q、「山根」交差点を右折して県道13号線を0.7qの交差点を左折して山根集落に入り、案内板にそって集落の北より林道に入り、途中で案内板にそって左折して善水寺駐車場。)。 ・彦根方面からは名神「竜王IC」より国道477号、県道13号経由下田南交差点右折し「日枝山手台」住宅地から林道をへて善水寺駐車場。 |
近江の磨崖仏(9) 車谷不動磨崖仏 |
滋賀県湖南市岩根 「江戸時代」 |
善水寺の周辺には近江を代表する不動磨崖仏が2つある。その一つはここで紹介する岩根山の北西の車谷と呼ばれる谷にはある巨大な車谷不動磨崖仏である。高さ6mあまりもある花崗岩の巨岩に、像高4mの不動磨崖仏立像を半肉彫りしたもので、江戸時代の作である。顔をはじめ衣紋の表現など形式的で写実性に欠けるが、近江では富川磨崖仏につぐ大作で、蔵王権現のように、左足膝を左に張って、右足を大きく踏み込みこんだ姿が動きがあっておもしろい。周囲の自然ととけ合った姿は魅力的で絶好の被写体となっている。 |
アクセス |
・JR草津線「甲西」駅下車、北東へ徒歩約3q。(駅から野洲川にかかる甲西橋を渡って北東へ約2qで岩根小学校前。岩根小学校前より花園集落の北の谷沿いの山道を約1qで車谷不動磨崖仏。 ・JR草津線「甲西」駅下車。甲西駅北口より湖南市コミュニティバス「めぐるくん」ひばりヶ丘線で「花園東口」下車。谷沿いの山道を北へ約1q。 |
自動車・名神「栗東IC」or「栗東湖南IC」より国道1号線を東へ、「国道岩根花園」交差点で左折し、すぐに右折してて岩根小学校前より花園集落へ(約1q)。細い集落内の道を通って北の谷沿いの山道を約1qで車谷不動磨崖仏。 ・名古屋方面からは新名神「土山IC」より西へ約20q。( 「土山IC」より県道24号線を経て国道1号線で西へ、「山根西」交差点を右折して、三叉路を左折して花園集落へ。集落の北の谷沿いの道を北へ。) |
近江の磨崖仏(10) 岩根山不動磨崖仏 |
滋賀県湖南市岩根 「建武元(1334)年 南北朝時代」 |
善水寺への自動車用参道近くにある不動寺の岩根山不動磨崖仏である。不動寺は無住の寺で、不動磨崖仏を拝礼する拝殿があるのみである。花崗岩の巨岩に高さ約1.6mの不動磨崖仏を半肉彫りする。顔は磨滅しているが、南北朝時代の不動磨崖仏の秀作である(建武元(1334)年の紀年銘)。拝殿があるため、正面からの写真は撮れず、拝殿の下から見上げる写真となった。 |
アクセス |
・JR草津線「甲西」駅下車。甲西駅北口より湖南市コミュニティバス「めぐるくん」下田線・甲西駅線またはひばりヶ丘線で「岩根」下車。北へ約1q(岩根集落の北から自動車用参道の林道へ)。 |
自動車・名神「栗東湖南IC」より栗東水口道路/国道1号線を東へ6.6q、「正福寺東」交差点を左折し、十二坊林道に入り「日枝山手台」住宅地南端まで東へ3.1km、右折し南へ林道を南へ1q。 ・名古屋方面からは新名神「土山IC」より西へ約19.3q。( 「土山IC」より県道24号線を経て国道1号線で西へ17.4q、「山根」交差点を右折して県道13号線を0.7qの交差点を左折して山根集落に入り、案内板にそって集落の北より林道に入り,集落中心地から0.5q。)。 ・彦根方面からは名神「竜王IC」より国道477号、県道13号経由下田南交差点右折し「日枝山手台」住宅地南端から林道を南へ1q。 |
近江の磨崖仏(11) 妙感寺地蔵磨崖仏 | ||
滋賀県湖南市三雲1758 「鎌倉後期」 | ||
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掌善童子・掌悪童子 | ||
妙感寺は臨済宗妙心寺派の禅寺で建武の中興で活躍した万里小路藤房(妙心寺二世授翁宗弼和上)が開基し晩年を過ごした寺という。この、妙感寺の裏山に「山の地蔵磨崖仏」とよばれるこの地蔵磨崖仏がある。大きな花崗岩の岩壁に、舟形光背を彫りくぼめ、約170pの地蔵菩薩立像を半肉彫りする。錫杖は妙光山地蔵磨崖仏のような短い柄ではなく通常の長さである。地蔵の左右に像高約40pの掌善童子・掌悪童子が脇侍として彫られている。鎌倉後期のすぐれた地蔵石仏である。 |
アクセス |
・JR草津線「三雲」駅下車。南西へ徒歩2.5q。 |
自動車・名神「栗東湖南IC」より東南東へ12.8q(「栗東湖南IC」より栗東水口道路/国道1号線を東へ9.6q「岩根」交差点を右折し、県道13号線に入り0.7q、「吉永」交差点を左折し |