参照文献
「近江の石仏」( 『日本の石仏 近畿篇』) | 川端菊夫 | 図書刊行会 |
『近江の石仏』 | 清水俊明 | 創元社 |
『近江 石のほとけたち』 | 瀬川欽一 | かもがわ出版 |
近江の石仏(1) 比叡山香炉ヶ岡弥勒石仏 | ||
滋賀県大津市坂本本町比叡山西塔 「平安後期」 | ||
比叡山にある香炉ヶ岡弥勒石仏は京都を代表する石仏「石像寺阿弥陀三尊石仏」や「北白川阿弥陀石仏」の様式の源流といえる石仏である。「「金剛輪寺阿弥陀石仏」「西教寺阿弥陀石仏」など近江の如来石仏の源流でもある。 石仏は西塔釈迦堂の背後の山、香炉ヶ岡の笹原の杉木立の中にある。像高2m余りの花崗岩製。下部に別石の反花座もうけ、その上に蓮座・仏身・光背からなる本体を一石でつくられている。右手を伏せて膝の上に、左手を仰げて膝上においた珍しい印相で、弥勒如来・または釈迦如来と思われる。 丸彫りに近い厚肉彫りで、膝におろした右手と胴のあいだや首と光背とのあいだが彫り抜きになっている。満月相の顔、高い肉髻、ひきしまった体部と流麗な衣紋など藤原時代の特徴をみせる。光背は二重円光式で、左肩の一部欠けていて、6個の月輪内に梵字が陽刻されている。光背の背面には、3つの月輪が彫られ、釈迦三尊の梵字が大きく陽刻され、下には経巻を納めるための四角の彫り込みがある。 もとこの付近にあった弥勒堂跡にちなんで弥勒石仏といわれている。釈迦石仏の説もある。 |
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近江の石仏(2) 見世のおおぼとけ | ||
滋賀県大津市滋賀里町甲 「鎌倉時代」 | ||
阿弥陀摩崖仏 | 滋賀里の西の山中に天智天皇の創立という崇福寺の跡がある。その崇福寺跡へ向かう山道(昔の京都への脇街道)の途中に、この石仏がある。石というよりは岩と呼びたい巨石の表面をきれいに加工し、座高3mを越える巨大な阿弥陀如来座像を厚肉彫りに刻み出している。頭部はほとんど丸彫りに近い。通称「見世の大仏(おおぼとけ)」と呼ばれる丈六の石仏である。 磨崖仏ではないか磨崖仏に匹敵する量感をそなえた石仏である。顔は童顔であるがひきしまった優美な姿で、鎌倉期の特色を見せている。衣紋などの表現は大まかであっさりした表現となっているが、それがかえって、石の持つ迫力を引き出していて、木彫仏と違った魅力が感じられる。 この石仏の近くには、小さな岩に阿弥陀如来座像を半肉彫りした磨崖仏もある。 |
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近江の石仏(3) 八講堂千体地蔵阿弥陀石仏 | ||
滋賀県大津市坂本5丁目10-8 「鎌倉時代」 | ||
日吉大社から西教寺へ向かう道の途中、大きな楓の樹がそびえ、その下付近に多くの小石仏・板碑が集められている。その中央に大きな阿弥陀石仏が坐している。高さ1.4mkの花崗岩の石材を削り、表面に高さ1.1mの定印阿弥陀如来を半肉彫りした石仏である。摩耗が進み、衣紋や指先などはよくわからない。しかし、顔は穏やかで力強く、体躯も堂々としていて、厚肉彫りではないが豊かな量感を感じられる石仏である。 村人が昔から伝教大師御自作としてまつってきた石仏である。この付近には大師の作と伝えられる石仏が少なくない。鎌倉時代、浄土教の広がりと共に、比叡山周辺には多くの阿弥陀石仏がつくられた。 |
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近江の石仏(4) 山中西教寺阿弥陀石仏 | ||
滋賀県大津市山中町 「鎌倉後期」 | ||
京都北白川から比叡連峰の田谷峠を越えて大津市南滋賀へ下る山中越えと呼ばれる街道がある。その街道の昔の旅篭町が山中町である。その山中町の街道脇に真宗本願寺派の寺院、西教寺がある。その西教寺の門脇に西教寺阿弥陀石仏が見下ろすよう安置されている。 高さ2.7m、幅1.7mの大きな花崗岩の石材を使って、舟形光背を背負って坐す、像高1.4mの定印の阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、やや大まかな堅い作風であるが大きくて迫力がある。 この街道筋の北白川や近江滋賀里には鎌倉期の大きな阿弥陀石仏(「京都の石仏」「近江の磨崖仏」参照))があり、浄土教普及と共に、街道に沿って阿弥陀石仏を造立することが流行ったようである。 |
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近江の石仏(5) 聖衆来迎寺石棺仏 | ||
滋賀県大津市比叡辻2丁目4-17 「鎌倉時代」 | ||
恵心僧都が念仏修行し、弥陀の来迎を感得したと伝えられる念仏修行の寺、聖衆来迎寺の本堂前の庭の覆堂の中にこの石棺仏はまつられている。 高さ145cm、幅110cmの家形石棺の蓋石を利用した石材の中央に舟形の光背を彫りくぼめ、像高83cmの来迎印の阿弥陀立像を半肉彫りしたものである。左右には同じく舟形光背を彫りくぼめて、腰をかがめ中腰姿で、蓮台を捧げる観音菩薩と合掌する勢至菩薩を半肉彫りしている。二尊の下には合掌する比丘形像と比丘尼形像が彫られている。子どもが両親の極楽往生を願って、造立供養したものではないかといわれている。 |
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近江の石仏(6) 慈眼堂阿弥陀石仏 | ||
滋賀県大津市坂本4丁目6 「室町後期」 | ||
比叡山鉄道のケーブル坂本駅の南に天海僧正が家康をまつるために建てた日吉東照宮がある。その東照宮の県道を隔てた東に天海僧正の廟所、慈眼堂が建っている。その慈眼堂の境内に天台座主や紫式部・後陽成天皇などの供養塔が立ち並んでいる。その石塔群の西の、一段高くなったところに、十三体の阿弥陀石仏がずらりと並んでいる。 これらは高島市にある鵜川四十八体仏から十三体移したもので、花崗岩一石作りの丸彫りの阿弥陀石仏である。膝の前の出が少なく、衣紋も抽象的で硬い表現で、室町後期の作であが、像高約1.5mの大きな石仏が並ぶ姿は見ごたえがある。 |
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近江の石仏(7) 西教寺阿弥陀来迎二十五菩薩石仏 | ||
滋賀県大津市坂本5-13-1 「天正12年(1584) 安土桃山時代」 | ||
阿弥陀三尊・大自在王菩薩 | ||
阿弥陀如来 | ||
阿弥陀三尊(勢至・阿弥陀・観音) | ||
大自在王・金剛蔵・虚空像菩薩 | ||
宝蔵・徳蔵・衆宝王・勢至菩薩 | ||
光明王菩薩 | ||
三昧菩薩 | ||
宝蔵菩薩 | ||
大自在王菩薩 | ||
薬上菩薩 | ||
大津市坂本の日吉大社参道から北へ2qに天台真盛宗総本山西教寺がある。朝倉氏が帰依した真盛上人が中興した寺で、現在も江戸時代再建の本堂をはじめ豪壮なたたずまいが見せている。その西教寺には、笏谷石製の美しい阿弥陀来迎二十五菩薩石仏がある。 本堂前方西側の納骨堂の裏側の一段高い石垣の上に、阿弥陀如来を中心に、不動・天部など計27体の石仏が並んでいる。阿弥陀如来に随行し、笙や横笛・琵琶・琴などを奏でる二十五菩薩を軟質な青緑色の笏谷石の特色を生かして精緻に彫った秀作である。 天正12年(1584)に、近江栗田郡の富田民部進が、幼くして没した息女花清妙蓮童女のため、極楽浄土を願って、造立したもので、その旨を記した刻銘がある。 |
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近江の石仏(8) 鵜川四十八体仏 | ||
滋賀県高島市鵜川1093 「天文22(1553)年 室町後期」 | ||
湖水面に鳥居が立つ、謡曲「白鬚」の舞台、白鬚神社を国道161号線北へ450m進んで、左手の山道に入り300ほどで鵜川四十八石仏がある。鵜川の共同墓地を背景にひかえた入口に、像高約1.6mの丸彫りの阿弥陀石仏が所狭しと並んでいる。48体の内、13体は慈眼堂に移されたため35体になっている(2体盗難に遭い現在は33体)。 全て、定印を結んだ座像で、面相や納衣の摩滅が目立ち、衣紋も抽象的で硬い表現であるが、大型の丸彫りの石仏がずらっと並ぶ姿は壮観である。2回目に訪れたときはイチョウの葉が散った後で、黄色い絨毯のようにになっていて乳白色の阿弥陀石仏とマッチしていて見事であった。 近江の守護職、佐々木六角義賢が、亡母の追善供養のために、弥陀の四十八願にちなんで、天文22(1553)年に造立したものという。 |
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近江の石仏(9) 玉泉寺の石仏 | ||
滋賀県高島市安曇川町田中3459 | ||
五智如来石仏 「室町後期」 | ||
阿弥陀・薬師・大日・弥勒・釈迦如来 | ||
薬師・大日・弥勒如来 | ||
阿弥陀如来 | ||
薬師如来 | ||
大日如来 | ||
弥勒如来 | ||
釈迦如来 | ||
五智如来石仏(大日・弥勒)・阿弥陀石仏 | ||
玉泉寺は天台宗真盛派の寺院で行基菩薩創建と伝えられる古い寺院である。その玉泉寺境内には大きな室町時代の石仏が多数ある。山門をくぐった右、本堂の前方の大きな椿の樹の付近に、丸彫りの大きな石仏が並んでいる。 大日如来を中心とした阿弥陀・薬師・弥勒・釈迦の各如来である。五智如来(元来、五智如来は大日・阿?・宝生・阿弥陀・不空成就であるが、室町以降一般的に知られている大日如来に阿弥陀・薬師・弥勒・釈迦を加えたものが民間では五智如来と信仰されるようになった。)として信仰されているもので、いずれも像高1.5m前後の大きな石仏である。厚さ50pほどの花崗岩の石材を使用して、丸彫りしたもので5体並んだ姿は堂々としている。 しかし、よく見ると顔や衣紋の表現は硬く、体部も扁平で、鎌倉彫刻のような写実的な迫力は感じられない。鵜川四十八体仏と同じ時代につくられたものと考えられる。五智如来の前や右手には同時代の丸彫りの阿弥陀石仏が見られる。 |
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玉泉寺墓地六観音石仏 「室町後期」 | ||
千手観音 | ||
如意輪寺観音 | ||
不空羂索観音 | ||
馬頭観音 | ||
十一面観音 | ||
玉泉寺本堂の北側の道を少し上ると、広大な玉泉寺墓地に出る。ここにも墓碑とともに多くの石仏・石造物がある。まず目に入るのは石鳥居で、鳥居をくぐった道の左側には、ずらりと中世の小石仏が並べられている。 右手の樹の茂った下には大きな石仏がずらりと並んでいる。六観音と六地蔵である。共に六道教化を示す菩薩であり、よく墓地の入口に見られる。 六観音は高さ約1.8m、厚さ約40pの石材に光背と観音像を彫りだしたものである。馬頭観音・如意輪観音など六臂・八臂の像の腕や各像の顔は体部に比べると大きく、アンバランスな表現となっていて、写実性に欠くが、整った表現の江戸時代や近代の六観音像に比べるとおおらかで、固い石材の魅力を生かした魅力ある石仏になっている。 |
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近江の石仏(10) 金剛輪寺の石仏 |
滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874 |
阿弥陀石仏 「鎌倉後期」 |
金剛輪寺は、行基菩薩の創建と伝えられる寺院で、平安時代慈覚大師円仁によって天台宗の道場として興隆した寺院で、湖東三山の一つとして多くの文化財を有する寺院である。紅葉の寺としても知られ訪れる人が絶えない。 惣門をくぐって参道を少し進むと、拝観受付があり、桃山時代の庭園のある本坊がある。本坊の入り口から、本堂に続く長い石階段の参道がある。その参道の途中のに「石仏」と書いた案内板があり、左に少し入った小さな覆堂に鎌倉後期の阿弥陀石仏が祀られている。 花崗岩を使い舟形をつくり像高82pの定印阿弥陀如来座像を厚肉彫りしたもので、写実的で端正な姿の石仏である。光背の上部にキリーク、左右に6個のアの梵字の月輪が刻まれている。比叡山香炉ヶ岡弥勒石仏や京都石像寺阿弥陀石仏など京都・滋賀によく見られる様式である。 |
地蔵石仏 「鎌倉時代」 |
本坊の入口から続く長い石段の参道を登りきり二天門をくぐると国宝の本堂が建っている。その本堂の横の鐘楼奥の階段を登ったところに鎌倉時代の地蔵石仏がある。 高さ74pの舟形ををつくって、基壇の上の蓮華座に坐す像高38pの地蔵菩薩を浮き彫りにしたもので、小石仏であるが穏やかな表情の美しい地蔵石仏である。基壇には格狭間が入っている。 |
阿弥陀石仏 「南北朝後期」 |
鎌倉後期の阿弥陀石仏によく似た様式の阿弥陀石仏が、本堂に続く長い石階段の参道を右に200m程入ったところにある。高さ約1mの花崗岩に、蓮華座に坐す定印阿弥陀如来を半肉彫りしたもので、像の左右に観音・勢至を表す梵字のサ・サクの月輪を刻む。 鎌倉後期の阿弥陀石仏に比べると顔は丸顔で張りがなく、衣紋も形式化した表現となっていて、南北朝後期の作と思われる。 |
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近江の石仏(11) 浄土寺町地蔵石仏 | ||
滋賀県近江八幡市浄土寺町 「南北朝時代」 | ||
浄土寺町は近江八幡市の南端、雪野山から続く丘陵の麓にある日野川沿いの静かな集落である。その浄土寺町はずれ、天神社の参道近くの大きな杉の老木のたもとに、縁切り地蔵と称される地蔵石仏がまつられている。 石仏は、高さ1.2m、幅1.8mの花崗岩の自然石の表面を平らにして、上部の一部をアーチ型にした四角形の彫り窪みをつくって、像高80pの蓮華座に立つ地蔵菩薩を半肉彫りにしたものであ。大きな錫の錫杖を体の前に斜めに持った地蔵で、穏やかて豊かな面貌であるが、納衣等の表現は伸びやかさがなく固く、南北朝時代末期の作と思われる。 |
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近江の石仏(12) 西隆寺の石仏 |
滋賀県守山市岡町246 |
阿弥陀石仏1 「南北朝時代」 |
西隆寺は聖徳太子創建と伝えられる天台真盛宗の寺院で、JR守山駅の北東800mにある。 その西隆寺の本堂の南側の墓地に二体の優れた阿弥陀如来石仏がある。その内、一体は墓地入口にあり、南北朝時代の作である。高さ2.8mの花崗岩に深い舟形の彫り窪みを入れて、像高68pの定印阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、もう一体の阿弥陀如来(鎌倉時代)に比べると厚く彫られ、納衣等の表現もやや固く伸びやかさに欠く。訪れたときは、やや斜めから陽が当たって、厚肉彫りの良さか生きたよい写真を撮ることができた。 |
阿弥陀石仏2 「鎌倉時代」 |
西隆寺の墓地には入口近くの阿弥陀石仏以外に墓地中央に守山市の指定文化財の阿弥陀石仏がある。高さ1.6mの舟形に加工した花崗岩に、二重円光背を彫り窪めて、蓮華座に坐す像高1m定印阿弥陀を半肉彫りしたもので、張りのあるしまった表情で、納衣の表現も的確で、鎌倉時代の特色を備えた優れた石仏である。訪れたときは、陽当たり具合が悪く、黒く変色した部分が目立ってうまく写真が撮れなかったのが残念である。 |
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近江の石仏(13) 少菩提寺跡の石仏 |
滋賀県湖南市菩提寺1731 |
菩提寺集落の西のはずれに「廃小菩提寺跡」という史跡指定の石標が建っている。その石標から北へ少し入ったところが、小菩提寺跡である。少菩提寺は奈良時代創建の寺で鎌倉時代は盛観を極めたが、戦国時代に織田信長の兵火に焼かれて廃寺となった。現在は鎌倉時代の多宝塔(史跡・重文)など中世の石造遺品が往時のなごりをとどめている。 |
三体地蔵 「鎌倉時代・室町時代」 |
中尊 |
左脇侍 |
右脇侍 |
三体地蔵は多宝塔の道をはさんだ東側にある。三体とも花崗岩の一石造りで、石いっぱいに舟形に深く彫り窪めて、等身大の地蔵立像を厚肉彫りしたものである。中央の像は、近江の中世の地蔵石仏によく見られる短い錫杖を持ち、木ぐつをはいた地蔵で、柔和な表情で体躯の均整のとれた、優れた地蔵石仏で、鎌倉時代の作である。頭上に載せた笠石も当初からのものである。 菩提寺跡三体地蔵の両脇の地蔵は少し時代の下った室町時代の作で、中央の地蔵を手本として、制作されたものと思われる。地蔵は阿弥陀如来の脇持の観音・勢至菩薩のように左脇侍(向かって右の地蔵)には蓮華を持たせ(右手に未開蓮、左手に宝珠を持つ)、右脇侍(向かって左の地蔵)は合掌像にしている。中央の地蔵を手本として、制作されたものと思われるが、中央像に比べると伸びやかさに欠け形式化した表現となっている。 |
多宝塔 「仁治2年(1241) 鎌倉時代」 |
小菩提寺は良弁の開基といわれ、良弁の開基の金勝寺の大菩提寺に対して少菩提寺と呼ばれていた寺である。戦国時代に織田信長の兵火に焼かれて廃寺となったが鎌倉時代は盛観をきわめていたという。その頃の面影を最も伝えているのがこの石造多宝塔である。木像の多宝塔を模した造形で、高さ4.54mという巨大な花崗岩製で国の重要文化財に指定されている。塔身に「願主僧良全 仁治二年 辛丑 七月日 施主日置女」の刻銘がある。 |
閻魔石仏 「室町時代」 |
閻魔石仏は三体地蔵石仏から、少し奥に入った木立の中にある。高さ、幅とも160cmの、頂部を山形にした花崗岩板状の石材の中央上部に駒形の彫くぼみをつくり、像高82cmの閻魔座像を半肉彫りしする。閻魔像の左右に合掌する地蔵座像と阿弥陀立像を浮き彫りにする。その三体の下に方形の枠組みをつくり僧形と宝珠と錫杖を浮き彫りにする。このような配置の閻魔石仏は珍しく他には見られない。中央右よりに上下に割れ目があり、右半分の合掌地蔵などは補修されたものである。閻魔像、阿弥陀像などは室町時代の作風である。 |
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