弥勒・釈迦石仏50選
奈良時代・平安時代・鎌倉時代
  
 インドで現存する仏像は圧倒的に仏教の開祖、釈迦が圧倒的に多い。ガンダーラやマトゥラーで仏像が作り始められると、仏伝に基づいた誕生、出家、苦行、降魔、説法、禅定・涅槃などの重要な場面の釈迦像が作られ、やがて三十二相などの規則によって定形化し、人間的な姿を基本におきながら、人間自体でない、仏教的理想を象徴する形態として仏像が生まれた。

 日本では釈迦の仏像は比較的少ない。特に石仏は少ない。なかでも奈良時代から鎌倉時代にかけての単独の釈迦石仏は数少ない。釈迦如来の像形は、施無畏・与願印か転法輪印を結ぶ説法像が普通であが、奈良や京都では弥勒信仰が盛んで弥勒如来の印相も施無畏・与願印など釈迦と同じのため釈迦とも弥勒とも断言できない像が多い。

 奈良時代の釈迦石仏としては奈良市の頭塔の南面の釈迦三尊と東面の如来及四菩薩二比丘像がある。他に奈良奥山の芳山二尊仏の南面の転法輪印如来像と京都の一乗寺下り松付近の藪里釈迦堂石仏も釈迦如来像と考えられるが弥勒仏などの可能性もあり断言できない。平安時代の釈迦石仏は近畿地方には少なく、単独仏としては比叡山香炉ヶ岡弥勒石仏など弥勒と釈迦ともどちらともいえない石仏と奈良県の桜井市の金屋石仏以外は見あたらない。九州の臼杵石仏には弥勒石仏は見あたらないが、釈迦石仏は4体ある。福島の泉沢大悲山薬師堂磨崖仏は釈迦と弥勒を中心とした磨崖仏である。 



サルナート説法釈迦像(模刻)

 京都の鎌倉時代の釈迦石仏では清涼寺釈迦像を模した善導寺釈迦三尊がよく知られている。化野念仏寺門前の二体仏の1体も釈迦如来である。他に行者の森如来石仏など弥勒仏か釈迦仏か判断できない如来像も何体か見られる。  

 弥勒菩薩は釈迦の次に仏となることが約束された菩薩で、釈迦の入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行・説法しているという。将来において過去仏の釈迦の業績を受け継ぐところから、当来仏とされ、弥勒如来とか弥勒仏とも呼ばれ、しばしば如来の姿で表される。平安・鎌倉期の弥勒石仏の多くは弥勒如来である。

  弥勒の信仰は我が国においても早い時代から盛んであったようで、広隆寺像(飛鳥時代・木彫)や中宮寺像(飛鳥時代・木彫)など多くの遺品が残されている。これらの初期の弥勒信仰は、弥勒菩薩の兜率天(天界にある弥勒浄土)に往生しようと願う信仰(上生信仰)から生まれたものである。

 石仏としては1991年、弥勒堂立替に伴う発掘調査で出土した石光寺(奈良県葛城市)の弥勒仏や奈良県宇陀市向淵の飯降磨崖仏などが古く、白鳳時代から奈良時代前期の作と思われる、共に痛みが大きく完全な姿では残っていない。奈良時代の弥勒石仏としては笠置寺の本尊の線彫りの弥勒磨崖仏が知られているが、元弘の乱によって焼かれ弥勒仏の姿は見出せない。

 奈良市の頭塔の北面石仏は、塔四方仏の北方に配されていることから、弥勒仏と考えられる。完全な姿で残っている弥勒石仏としては最古のものである。平安時代前期(奈良時代後期の説もある)の作と思われる滋賀県の狛坂寺跡磨崖仏は朝鮮の新羅時代の南山の七仏庵磨崖仏とよく似た優れた磨崖仏で中尊の如来像は弥勒仏(阿弥陀仏説もあり)と思われる。

 平安後期になると末法思想の広がりと共に、厭世観が強まり、未来への憧れから弥勒の下生を願い、弥勒浄土への往生を願って弥勒信仰が広がる。この時代経塚が多く作られたのも弥勒信仰と関わっている。弥勒が兜率天から下生する際に真っ先に救済してもらおうと、人々は書写した経を筒に納めて山中に埋めたのである。石仏では金屋石仏(説法印弥勒仏)や比叡山香炉ヶ岡弥勒石仏、禅華院にある雲母坂の石仏などが平安後期の作である。信越地方にある「いけ込み式」あるいは、「植え込み式」と表現される地面に直接、植え込んだ新潟県妙高市の関山石仏群や長野県の湯田中弥勒石仏なども平安後期の作である。

 大和では特に弥勒信仰が盛んで、鎌倉時代、多くの弥勒石仏がつくられた。弥勒菩薩への信仰は奈良法相宗の寺、興福寺などで盛んであった。未来世救済の仏としての信仰のほかに、法相宗では第一祖を弥勒とするからでる。鎌倉時代に台頭した新仏教(浄土教など)に対する旧仏教側の代表的な僧として知られる貞慶(解脱上人)は笠置寺に隠棲して弥勒信仰を広めた。その、笠置寺の本尊の大弥勒像を模して、 承元3年 (1209) に完成させたのが奈良県宇陀市の大野寺弥勒磨崖仏で ある。

 大和の鎌倉時代の弥勒石仏は柳生街道沿いの朝日観音・夕日観音と呼ばれる弥勒磨崖仏や月ヶ瀬ののど地蔵・瀧倉神社弥勒石仏などがある。天理市の長岳寺弥勒石棺仏や桜井市の談山神社弥勒石仏も鎌倉時代の優れた弥勒石仏である。鎌倉時代以降は弥勒石仏は大和ではあまり見られなくなり、天理市のみろく丘弥勒石龕仏(南北朝時代)・白毫寺弥勒石仏(江戸初期)などのみである。

弥勒・釈迦石仏50選U 



弥勒・釈迦石仏50選(1) 芳山二尊仏(南面釈迦如来)
奈良市誓多林町 芳山    「奈良時代」
 仏師であり石仏研究家でもある太田古朴氏によって世に知られることになった、天平後期の様式を示す石仏である。  林の中の急斜面を登った芳山の峰の上に、この芳山二尊石仏は立っている。高さ184p、幅152p、奥行き約1mk自然石風の花崗岩の南面と西面に、説法印の如来立像を半肉彫りしている。両像とも、広い肩幅、がっしりとした腰や、薄い絹衣をまとったような刻みの衣紋など唐招提寺や大安寺の天平後期の木彫仏と共通する表現となっている。

 両像とも形姿はほぼ同一であるが、受ける印象は少し違う。西面像は貞観仏に通じる量感と逞しさが感じられるのに対して、南面像は天平仏の深い精神性を感じさせる顔が魅力的である。印相が同じであるので、尊命は決めにくいが、南面像を釈迦如来、西面像を阿弥陀如来として、このページに掲載した。

 石仏写真家佐藤宗太郎氏は芳山二尊石仏が立石として石が生きている点を高く評価され、「石に対する固有信仰を基礎とした仏像造型の様々な精神性を一個の石像に見事に凝結せしめたものとして、やはり日本の石仏の一つの出発点と考えられる。」(『石仏の美V 古仏への憧れ』木耳社)と述べられている。



弥勒・釈迦石仏50選(2) 頭塔の弥勒・釈迦石仏
奈良県奈良市高畑町921番地    「奈良時代」
 頭塔は、頭塔は方形の7段からなる奈良時代の土の塔で国の史跡になっている。古くより僧玄ムの頭を埋めた墓との伝説があり、その名の由来とされてきたが、本来の土塔「どとう」がなまって頭塔(ずとう)と呼ばれるようになったものと思われる。頭塔の造営については、神護景雲元年(767年)に東大寺の僧で二月堂修二会(お水取り)を創始した実忠が、造った塔であるとされている。

 頭塔の各段には、浮彫の石仏が配置されている。復元前には13基の石仏が露出していていたが、最近の発掘によってあらたに14体と抜き取り痕跡5個所を発見された。東西南北の各面に11基ずつ、計44基設置されていたものと推定される。
 
頭塔北面如来三尊像(弥勒如来)
 七段の階段状の石組みの四方の一段目中央には大型の如来三尊像の浮き彫り像が配置されている。四体とも如来座像の中尊と座像または半跏像・立像の両脇持からなる三尊で、上方に宝相華の天蓋と飛雲を配し、群来のある蓮華座で、宝相華の飾りをつける。中尊下方の左右に合掌する小菩薩(侍者)を刻む。四方の大型如来三尊の中尊はそれぞれ東は多宝如来、西は阿弥陀如来、北は弥勒如来、南は釈迦如来と考えられる。

 北面の一段目中央の如来三尊は中尊如来座像は二重円光背を背負って、左手を上げて掌を開き、右手を垂下して右膝で掌を伏せる印相で弥勒如来と考えられる。頭光を付けた両脇持立像は腰を左右に捻った優美な姿である。
 
頭塔東面如来及四菩薩二比丘像(釈迦如来)
 東面の第五段の北にある石仏である。中尊の如来座像の左右に脇持の菩薩座像、その左右に合掌礼拝する小菩薩、中尊の背後に2体の比丘像を浮き彫りしたもので、彩色の跡が残り、1986年から始まった奈良文化財研究所発掘調査で新しく見つかった石仏である。宝樹を背景にして花茎を伸ばした蓮華上に坐す中尊如来は、右手は第一指と第二指を捻じた施無畏印で、左手は掌を上にして膝上に置く。

 宝珠の下、菩薩や比丘像を従えたこれと同じ印相の如来像は、奈良時代に描かれた現在ボストン美術館にある「法華堂根本曼荼羅図」や奈良国立博物館の国宝「刺繍釈迦如来説法図」に見られ、霊鷲山(りょうじゅせん))で釈迦が法華経を説く情景を表わしたものと考えられる。
 
頭塔南面如来三尊像(釈迦如来)
 南面の第一段の中央には東西北面と同じく上方に花蓋と飛雲宝珠を配した大型の如来三尊像の浮き彫り像がある。中尊下方の左右に合掌する小菩薩(侍者)を刻むが、見学路からは土に隠れて確認できない。

 二重円相光背を負う中尊如来座像は、右手は大指と頭指を捻じた施無畏印、左手は掌を開いて与願印を結ぶ。左右に頭光を付けた二菩薩像が腰を軽く捻って立つ。忠尊の印相等は「法華堂根本曼荼羅図」や大仏蓮弁線刻画の釈迦浄土の中尊と一致することから、この石仏は釈迦浄土を表したものと考えられる。



弥勒・釈迦石仏50選(3) 藪里釈迦堂石仏
京都府京都市左京区一乗寺釈迦堂町10    「奈良時代」
 左京区の白川通りの「一乗寺下り松町」バス停から曼珠院道を東へ180mほど行った三叉路にある松が一乗寺下り松である。ここで宮本武蔵と吉岡一門が決闘したという。この下り松より50mほど進み、左に折れる細道に入ると「藪里釈迦堂」の建物がある。この釈迦堂の軒つづきに地蔵堂が設けられ、堂内に「夜泣き地蔵」と呼ばれる大きな石仏か立っている。

 この石仏も芳山二尊仏と同じく仏師であり石仏研究家でもある太田古朴氏によって世に知られることになった、天平後期の様式を示す石仏である。高さ2mほどの船形光背に像高1.5mの如来立像を厚肉彫りで表現した像である。その像容は堂々としている様に見えるが、白・黄・黒・赤と絵の具でどっぷりと塗られていて、本来の姿はわからず、石仏の古さは、しのぶことができない。

 京都では地蔵盆で毎年、町内の人々によってこのように石仏を化粧する習わしはよく見かける。衣紋表現や手足などの表現を見ることができれば、天平彫刻の面影を見ることができるのであろうが、般若心経が書かれた大きな前掛けが奉納されていて、見ることができなかった。仏師で石仏研究家の清水俊明氏は著書の「京都の石仏」で、この石仏を「左手の印相か降魔印(蝕地印)で、弥勒仏の可能性もあるが、釈迦堂町と言う地名から釈迦如来像と考えたい。」としている。



弥勒・釈迦石仏50選(4)   狛坂寺跡磨崖仏
滋賀県栗東市荒張 金勝山  「平安時代初期」
 近江アルプスとよばれる金勝連峰は、花崗岩の巨岩が露出した独特の風景を見せ、絶好のハイキングコースとなっている。その金勝連峰には東大寺の良弁僧正がが開いたといわれる金勝寺があり、その金勝寺の西部の山中に狛坂寺跡がある。狛坂寺跡には、現在、この磨崖仏とともに、石垣の跡が残るのみである。狛坂寺は平安初期に興福寺の僧、願安が伽藍を建てたといわれているが、詳細は不明である。

 狛坂寺跡磨崖仏は、寺跡の南側の、北面する巨大な花崗岩石に刻まれている。高さ、約6m幅6mの岩肌に像高約3mの如来座像と像高約2.3mの菩薩立像2体を彫る。

 格狭間入りの基壇の上の須弥座に結跏趺坐する弥勒仏(阿弥陀仏の説もあり)と思われる中尊は、たくましい体躯で、威厳があり堂々としている。脇侍はやや腰をひねって、如来側の手を胸に、外側は下げる立像である。三尊とも半肉彫りであるが、立体感のある重厚な像である。この三尊の上部に2組の小さな三尊像と3体の小さな菩薩形立像を浮き彫りする。また、この磨崖仏の向かって左には別石の三尊像もある。

 作風は朝鮮の新羅時代の南山の七仏庵磨崖仏とよく似ていて、花崗岩という硬い岩を加工する技術から考えて、渡来人系の石工の作と考えられている。

 この磨崖仏を初めて見たのは30数年前のことであるが、何回訪れても、大きな感動を与えてくれる磨崖仏である。量感や迫力においては、熊野磨崖仏などに劣るが、威厳と優美さにおいてはこの磨崖仏に匹敵する磨崖仏は日本には見あたらない。 



弥勒・釈迦石仏50選(5)  比叡山香炉ヶ岡弥勒石仏
滋賀県大津市坂本本町比叡山西塔    「平安後期」
 香炉ヶ岡弥勒石仏は西塔釈迦堂の背後の山、香炉ヶ岡の笹原の杉木立の中にある。像高2m余りの花崗岩製。下部に別石の反花座もうけ、その上に蓮座・仏身・光背からなる本体を一石でつくられている。右手を伏せて膝の上に、左手を仰げて膝上においた珍しい印相で、弥勒如来・または釈迦如来と思われる。

 丸彫りに近い厚肉彫りで、膝におろした右手と胴のあいだや首と光背とのあいだが彫り抜きになっている。満月相の顔、高い肉髻、ひきしまった体部と流麗な衣紋など藤原時代の特徴をみせる。光背は二重円光式で、左肩の一部欠けていて、6個の月輪内に梵字が陽刻されている。光背の背面には、3つの月輪が彫られ、釈迦三尊の梵字が大きく陽刻され、下には経巻を納めるための四角の彫り込みがある。もとこの付近にあった弥勒堂跡にちなんで弥勒石仏といわれている。




弥勒・釈迦石仏50選(6)  雲母坂の石仏
京都市左京区修学院烏丸町20 禅華院 「大治2年(1125)年 平安後期」
 「修学院」駅より、音羽川にそって東へ800mほどすすみ、後安堂橋を渡り、修学院総門に向かって50mほどいくと、左手に石垣と特色ある鐘楼門が見えてくる。臨済宗大徳寺派の一院「禅華院」である。風雅な鐘楼門を入った右側に、鎌倉後期の地蔵石仏や阿弥陀石仏など多くの石仏が並んでいる。その中に雲母(きらら)坂にあった小さな風化した石仏が2体あり、その内の一体が弥勒菩薩で、背後には平安時代の大治2年(1125)年の刻銘がある。

 雲母坂は修学院離宮や林丘寺の南の音羽川沿いを少し上ったところにある坂で比叡山へ向かう古道である。登り口は雲母寺の旧跡である。この登山道の登り口に小さな摩滅した2体の小さな石仏が雲母坂の石仏である。1体は二十輪光背を負った定印の像高53pの厚肉彫り像、もう1体が像高66pの厚肉彫りこの如来像である。船形光背を負った右手を胸前によせて施無畏印、左手は風化してわからないが下に向けている様に見えるので降魔印(蝕地印)と思われ、弥勒仏と考えられる。

 京都では白川石と呼ばれる花崗岩を使った石仏が多く、「岩倉目なし地蔵」や「行者の森釈迦石仏」のように面相がわからないほど摩滅した鎌倉〜室町時代の石仏が多くある。そのため、この2体も大治2年(1125)年の刻銘が無ければ注目されることはなかったと思われる。昭和52年にこの石仏背面に大治元(1125)年五月八日」と刻まれていることが発見されて注目されることになった。京都では京都国立博物館にある今宮四面石仏の天治2(1125)年に次ぐ古銘である。昭和52年以降、近くの禅華院に移されて現在に至っている。




弥勒・釈迦石仏50選(7)  安楽寿院釈迦三尊石仏 
京都市伏見区竹田中内畑町74 「平安後期」
 安楽寿院は鳥羽上皇により、阿弥陀三尊を祀るために、保延3年(1137)、鳥羽離宮の東殿に、、建てられた御堂を起源とする寺院である。その後、本御塔、九躰阿弥陀堂、閻魔堂、不動堂などの諸堂が建てられ、全国に広大な寺領を持つ寺院となったが、中世以降衰え、現在は江戸時代の大師堂や書院などが残のみで、本尊の阿弥陀如来などに当時の面影をとどめる。

 三尊石仏は大師堂の西側の三宝荒神社の参道ぞいに仮堂がもうけられて2基安置されている。江戸時代に、安楽寿院の西の聖菩提院跡から掘り出されたものである。凝灰岩の高さ1mあまり、幅1.1m〜1.2m、厚さ0.4mの方形の切石に釈迦三尊と薬師三尊を厚肉彫りしたものである。軟質の凝灰岩のため痛みがひどく当時の面相が残るのは釈迦三尊の蓮華をささげた右の脇侍のみである。

 三尊石仏はもう一基、出土していて、現在、京都国立博物館の西の庭に安置されている。阿弥陀三尊像で最も保存状態がよく、豊満な顔、丸みのある体躯など、平安時代後期の様式がよく残る。



弥勒・釈迦石仏50選(8)   地獄谷聖人窟
奈良市白毫寺町 地獄谷  「奈良時代〜鎌倉時代」
 首切り地蔵の分かれ道を左に行くと、地獄谷に通じる。地獄谷の名は、昔この付近に屍をすてたところからでた地名とも、春日山中の地中に地獄があると考えられたところから生まれた地名ともいわれる。その地獄谷の山中の凝灰岩層の露出した岩場に石窟が彫られていて、壁面に数体の線刻像が刻まれ彩色されている。それが、通称聖人窟と呼ばれる、線刻の磨崖仏の傑作である。

 現在、はっきりと残っているのが3体で、奥壁の中央には、座高1mあまりの施無畏・与願印の如来像が彫られている。胸には卍が刻まれているとのことであるが、金網で保護されていて近づけないので確認できなかった。尊名は弥勒・釈迦・盧遮那仏など諸説がある。のびのびとした流麗な線で衣紋を描き、顔は東大寺大仏の蓮弁に刻まれた如来像によく似ていて、豊かな気品のある顔である。造立年代は天平から鎌倉まで諸説がある。

 如来像の向かって左側には、二重円光背を背負った施無畏・与願印の如来立像(吉祥薬師像という説がある。)が、右側には同じく二重円光背を背負った十一面観音が彫られている。中尊に比べると線は伸びやかさに欠け時代は下ると思われる。東壁面には妙見菩薩が刻まれているとのことであるが金網の外からは確認できなかった。 



弥勒・釈迦石仏50選(9)   金屋石仏
奈良県桜井市金屋  「平安時代後期」 
弥勒如来
釈迦如来
 大神神社から南へと山辺の道は続いていて、大神神社から300m進むと大神神社の廃仏毀釈が起こるまで神宮寺として栄え、昭和52年3月に復興された平等寺がある。そこから細い道を250mほど歩くと金屋石仏がある。金屋石仏は元々、三輪山の南の「みろく谷」にあったもので、廃仏毀釈後ここに移されたと言う。初めて金屋石仏を見た、50年ほど前は木造の覆屋に入っていたが、現在はコンクリートで造られた立派な収蔵庫に安置されている。

 金屋石仏は2枚の高さ213pと215p、幅82pと88p、厚さ約20pの板石に、各1体の如来形立像が薄肉彫りされたもので、向かって右が釈迦如来、左が弥勒如来と伝えられている。共に線を陽刻した二重円光背を背負って、蓮華座に立つ如来形像の薄肉彫りで、右の釈迦如来像は像高164pで、両手を上げて指を捻じる説法印、左の弥勒如来は像高163pで、右手をあげて施無畏印、左手は与願印を示す。幾筋の衣紋線を省略せずに彫り出している。面相は重厚で、肩幅の広い堂々とした体部で、複雑な説法印も違和感なく見事に彫りあげていて、浮き彫り像の傑作である。

 各板石とも片方にはめ込み用の浅い作り出しがあり、下面にほぞがあり、「みろく谷」にあった石厨子の扉と扉だという説がある。しかし、現在でははめ込み用の浅い作り出しは、組み立て式石棺に見られる技法として、古墳石棺材を利用したものと考えられている。造立年代については平安後期以外に平安初期や鎌倉初期の説もある。 



弥勒・釈迦石仏50選(10)   臼杵石仏の釈迦如来像
大分県臼杵市深田804−1 「平安後期」
 質・量・規模ともわが国を代表する石仏、「臼杵石仏」は大分県臼杵市深田の丘陵の山裾の谷間の露出した凝灰岩に刻まれた磨崖仏群である。平安後期から鎌倉時代にかけて次々と彫られたもので、谷をめぐって「ホキ石仏(ホキ石仏第2群)」「堂が迫石仏(ホキ石仏第1群)」「山王山石仏」「古園石仏」の4カ所にわかれている。ほとんどが丸彫りに近い厚肉彫りで、鋭い鑿のあとを残す。現在61体の石仏が国宝指定を受けている。

 その中でも特に優れているのが、「ホキ石仏(ホキ石仏第2群)」の阿弥陀三尊像と「古園石仏」の大日如来像であ。釈迦石仏は臼杵石仏には4体見られ、「堂が迫石仏(ホキ石仏第1群)」の3体と「山王山石仏」の本尊である。
 
堂が迫石仏(ホキ石仏第1群) 「平安後期」
第3龕釈迦如来像
第2龕釈迦如来像
第1龕釈迦如来像
 ホキ石仏に続いて、堂が迫石仏(ホキ石仏第1群)がある。4つの龕に分かれていて、最初の龕(第4龕)は地蔵十王像を厚肉彫りする。中央の地蔵菩薩は右手は施無畏印、左手に宝珠を持つ古様で、石仏では珍しい右脚を折り曲げ、左足を垂らして座る半跏椅像である。左右に五体づつの十王像は鮮やかな色彩が残っている衣冠束帯の道服の姿で、個性的な怪異な顔が魅力的である。鎌倉時代以降の制作と考えられ。

 次の龕(第3龕)は金剛界大日如来を中心とした龕で、如来座像は1mに満たない小像である。第1龕や第2龕に比べる、やや硬いいが引き締まった彫りである。衣紋は形式化しているので12世紀末〜13世紀の作と思われる。各如来の台座には願文や教典を入れたと思われる孔がうたれている。

 続く第2龕は堂が迫石仏の中心となる龕で、像高も一番高く、等身大より大きい(釈迦如来座像は2m、他の如来は173〜178p)。制作年代も堂が迫石仏ではもっとも古く、ホキの阿弥陀三尊、古園石仏につく゜。重厚感のある体躯と引き締まった威厳に満ちた顔は貞観仏を彷彿させる。よく見ると、ホキの阿弥陀三尊のような鑿跡の冴えはなく、衣紋は平行状に刻まれていて形式化が目立ち、やや鈍重な印象である。

 一番奥の第1龕も第2龕と同様に阿弥陀・釈迦・薬師の3如来を中心とした石仏群である。破損の甚だしい石仏群であったが修復が進み昔の面影をとり戻した。像高は第2龕よりやや小さく、153〜171pで、素朴な明るい表情が特徴である。12世紀後半の制作と思われる。
 
臼杵磨崖仏山王山石仏 「平安後期」
 堂が迫石仏の向かいの山が山王山である。遊歩道は堂が迫石仏からカーブして山王山の山裾を通る。この山裾に通称「隠れ地蔵」と呼ばれる山王山石仏がある。地蔵ではなく一光三尊形式の三体如来像である。中尊は像高約270pで、釈迦如来と伝えられている。(印相は施無畏与願印と思われるので釈迦如来であろう。)丸顔で額は狭く、頸が短く、目鼻口が小さい童顔で、ホキの阿弥陀三尊や堂が迫の第2龕の如来座像の厳しい顔とは対照的である。
 脇侍は向かって右が薬師、左が阿弥陀と称されているが、中尊と同じような印相で区別はつけがたい。薬師像は破損が激しかったが修復された。脇侍の2尊もおだやかな親しみのもてる顔である。



弥勒・釈迦石仏50選(11)   宮迫西石仏
大分県豊後大野市久士知38 「平安時代後期」
 宮迫東磨崖仏から100mほど離れた小高い丘の中腹の大きな石龕の中に釈迦・阿弥陀・薬師の三如来の丸彫りに近い裳懸座に座す厚肉彫りがある。いずれも基壇、台座、仏像の三段から構成されている。 いずれも彩色されており、 螺髪は方眼状に刻出されているところなど、やや形式的な作風が見られる。 保存状態は非常によく、仏身や光背に原初の色彩や文様が残っている。

 中尊の釈迦如来は像高143mで阿弥陀・薬師よりやや大きく、右手を胸前によせて施無畏印、左手の印相は手先が欠けていてわからない。阿弥陀・薬師像と違って顔の彩色が落ちてまだら模様になっている。




弥勒・釈迦石仏50選(12)  関山石仏群弥勒仏
新潟県妙高市関山 「平安後期」
関山弥勒像
関山神社境内の如来像
関山仲町の如来像
 関山石仏群は奈良時代より妙高山を霊山と仰ぐ修験道の道場として繁栄した関山神社の境内の妙高堂脇の覆屋内に25体、近所の民家の前などに10体散在している。かっては妙高山登山道に並べられていたといい、土地の人は、「ミルクさん」または「ミロクさん」と呼んでいる。

 その内最大の石仏は関山神社の南東約100mにある空き地のコンクリート製の小さな覆屋に安置されている。総高120pほどであるが、いけ込み式の胸像という大胆な造形のため磨崖仏巨像のような雄大さを感じさせる石仏である。螺髪を略しているが肉髻の高い如来形で、右手は胸前に上げ、施無畏印のように見え、弥勒如来と思われる。豊満に張った顎、かすかに微笑む引き締まった面相、豊かに盛り上がった肩など充実感あふれる石仏である。

 関山神社の境内の覆屋内に25体の石仏が並んでいる。いずれも高さ60p前後で、上半身のみ彫り、膝より下の彫りを省略したを省略した丸彫りの座像である。軟質の石材(凝灰岩)によって作られているため摩滅が大きくようやく目鼻立ちがわかる程度である。頭部に大きな肉髻を戴き、右手は胸まで上げた施無畏印のような印相をした如来像である。昔から弥勒如来説と阿弥陀説の二説がある。前述した最大の石仏に比べると顔は丸みをおびた像が多く、素朴でふくよかな温かさを感じさせる。中には、貞観仏を思わせる厳しい面相の像も見られ、一体一体個性的である

 前述した最大の石仏の近くにも粗末な覆屋5体ほどの上半身だけ彫られた如来像が安置されている。これらの像は関山神社境内の覆屋の像とよく似た像で、関山神社覆屋の像と比べると摩滅が激しい。




弥勒・釈迦石仏50選(13)  湯田中弥勒石仏
長野県下高井郡山ノ内町大字平穏  「大治5(1130)年 平安後期」
 志賀高原の麓、湯田中温泉にある湯田中弥勒石仏(平穏弥勒石仏)は、湯田中温泉の外れの山麓に立派な八角形のお堂があり、その中に安置されている。「大治五(1130)」という平安後期の紀年銘のある資料的にも貴重な石仏である。

 駒形の安山岩の自然石に像高165pの如来座像を厚肉彫りしたもので、膝の下半から地中に埋もれている生け込み式の石仏である。頭部が大きく、顔は満月相で豊満な感じの石仏でる。右手は胸まで上げた施無畏印で胸に吉祥相の卍が彫られている。関山石仏群の関山神社の東南にある弥勒石仏と比べると迫力に欠けるが、巨像の風格のある弥勒石仏である。




弥勒・釈迦石仏50選(14)  泉沢大悲山薬師堂磨崖仏
福島県南相馬市小高区泉沢薬師前 「平安後期」
弥勒如来・釈迦如来像
釈迦如来・弥勒如来像
釈迦如来像
弥勒如来像
弥勒如来像
泉沢の大悲山には丘陵地の岩層を利用して開いた石窟が3か所現存する。その中で、最も保存状態がいいのが、この薬師堂磨崖仏である。中央に3mを超える高さの如来三尊[釈迦・弥勒・弥勒]と菩薩立像などを厚肉彫りする。中央の釈迦如来は蓮台を含めれば5mを越え力強いフォルムである。 覆い堂がかかっているが、岩質がもろく、 相当崩れていて、痛ましいが量感や迫力は少しも失っていない。



弥勒・釈迦石仏50選(15)   大野寺弥勒磨崖仏
奈良県宇陀市室生大野 「承元3年(1209) 鎌倉時代初期」
  高さ約30mの岩に二重光背を彫りくぼめ、像高11.5mという巨大な弥勒立像を線彫りしている。大野寺の前、宇陀川の清流をはさんだ大岸壁に刻まれた大磨崖仏は周りの風光と相まって雄大で魅力的である。

 興福寺の雅縁僧正が、笠置寺の大弥勒像を模して、宋人の石工二郎 ・三郎らに彫らして、 承元3年 (1209)に完成させたのがこの弥勒磨崖仏である。



弥勒・釈迦石仏50選(16)  夕日観音
奈良市春日野町 滝坂道 「鎌倉時代」
 能登川の渓流沿いの石畳の道・滝坂の道を2qほど歩くと、寝仏と呼ばれる転落した大日如来石仏がある。そこから北側の山手に急な道を20mほど登るとこの磨崖仏がある。夕陽に映える姿が美しいので、通称「夕陽観音」と呼ばれている。

 「夕陽観音」は、傾いた大きな三角形の花崗岩の巨岩に、二重光背を彫りくぼめ、右手を下にのばし、左手を上げた施無畏・与願印の立像(像高1.6m)を半肉彫りした磨崖仏で、観音ではなく如来形の弥勒仏である。滝坂の道の数ある磨崖仏の中では最も整った優美な石仏である。



弥勒・釈迦石仏50選(17)  朝日観音
奈良市春日野町 滝坂道 「文永2(1265)年 鎌倉時代」
地蔵・弥勒・地蔵
弥勒如来
  夕陽観音から滝坂の道を500mほど進むと、東面した高い岩壁に、通称「朝日観音」と呼ばれる3体の磨崖仏が彫られている。夕陽観音と同じように観音ではなく中尊は約2.3mの弥勒如来立像である。左右に地蔵立像が彫られている。弥勒如来の左右の刻銘に「文永弐年乙丑十二月」の紀年があり、文永2(1265)年に造立されたことがわかる。

 夕陽観音とよく似た作風であるが、夕陽観音と比べるとやや彫りは浅く、浮き彫り風である。左の錫杖・宝珠を持つ地蔵も同じ作風を示す。右の舟形光背の地蔵は錫杖を持たず、春日本地仏の姿をしていて、後世の追刻である。



弥勒・釈迦石仏50選(18)  のど地蔵
奈良市月ヶ瀬桃香野 野堂 「建長7(1255)年 鎌倉時代」
 目ダムの湖の東岸の山添村腰越より東に 800mほど入った谷あいの一角、茶畑の脇にこの弥勒菩薩が立っている。二重光背をつくり、 像高107cmの如  来像を高肉彫りする。 右手は施無畏印、左手は触地印で、当来仏(将来仏)としてあらわされた、 弥勒菩薩(如来)である。この地方の小字、「野堂」から、「のど地蔵」と呼ばれている。



弥勒・釈迦石仏50選(19)  長岳寺弥勒石棺仏
奈良県天理市柳本町508 「鎌倉時代」
 長岳寺本堂から東南の丘の上に、この石仏がまつられている。高さ240p、幅180p、厚さ30cmの組合せ石棺の蓋石と思われる石材に、蓋裏の面に二重光背形を彫りくぼめ、その中に像高194p弥勒如来立像を蓮華上に半肉彫りする。像は右手を施無畏印、左手は垂れて掌を前にする与願印ではなく、のど地蔵と同じ掌を伏せる蝕地印(降魔印)である。大和の弥勒石仏によく見かける印相である。風化も少なく、美しく保存されていて、おおらかな雄大な表現の石仏である。



弥勒・釈迦石仏50選(20)  談山神社弥勒石仏
奈良県桜井市大字多武峰 「文永3(1266)年 鎌倉時代」
 談山神社弥勒石仏は高さ150p、幅70pの船型光背状にした花崗岩に蓮華座に坐す弥勒仏を半肉彫りしたもので、長岳寺弥勒石棺仏と同じく右手が施無畏印、左手が触地印である。光背左右に「藤井延清」という石工名とともに「文永3(1266)年」の刻銘がある。



弥勒・釈迦石仏50選(21)  般若寺十三重塔四方仏
奈良市般若寺町221 「建長5年(1253) 鎌倉時代」
南面 釈迦如来
北面 弥勒如来
 高さ12.6mで宇治浮島十三重石塔につぐ高さの十三重石塔塔である。初重軸部の四方に薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒の四仏が浅い薄肉彫りで刻まれている。昭和39年の解体修理で「建長5年(1253)」の墨書のある木造教箱が発見され、造立年時がはっきりした。

 境内にある二基の笠塔婆の「宋人伊行吉が父の亡き伊行末と母の後世ために造立した」という内容の銘文から、この十三重石塔塔は伊派石工の祖、伊行末が晩年に創立したものと考えられ。

 十三重石塔塔の初重軸部の四方に東面、薬師・南面、釈迦・西面、阿弥陀・北面、弥勒の四仏が浅い薄肉彫りで刻まれている。



弥勒・釈迦石仏50選(22)  善導寺釈迦三尊石仏
京都市中京区東生洲町533-3  「弘安元年(1278) 鎌倉時代」
 京阪三条」駅、または地下鉄「京都市役所前」より、木屋町通りに出て、木屋町通りを北に上り、二条どおりに突き当たったところに、小さな竜宮門が見えてくる、その門をくぐると、終南山と号する浄土宗の寺、善導寺の本堂前に出る。

 その本堂の前庭に国の重要美術品に指定されているこの釈迦三尊石仏がある。高さ90p、幅60p、厚さ20pほどの自然石(砂岩系?)に立像の三尊を半肉彫りする。中尊の釈迦如来は、像高68pで、施無畏与願印の立像で、衣紋はひだを平行的に細い陰刻線であらわす、インド風の流水文式の像で、三国伝来という清涼寺釈迦像の姿を模したものである。

 右の脇侍の如来像も中尊とおなじ流水文式の衣紋である。左手は下げて甲をみせているところから弥勒如来とみられる。左の脇侍は五髻(ごけい)の文殊菩薩で、右手に宝剣、左手に梵篋を持つ。弥勒如来の脇に「弘安元年(1278)」造立の銘が刻まれている。京都では珍しい半肉彫りであるが立体感があり、絵画的な趣もある京都を代表する石仏である。



弥勒・釈迦石仏50選(23)  行者の森如来石仏
京都市左京区銀閣寺町12   「鎌倉時代」
 銀閣寺の門前を左折して、八神社手前で右折し東に行くと行者の森にでる。ここは、「大文字送り火」で知られた大文字への登山口に当たる。 行者の森には、不動や役行者、地蔵など多くの石仏が安置されている。その中でもひときわ目を引くの向かって右端に大日如来として祀られているこの石仏である。

 高さ105p、幅75p、高さ58pの舟形の花崗岩に、右手は胸前で施無畏印、左手は膝上において与願印を結ぶ如来像を厚肉彫りしたもので、印相から釈迦如来もしくは弥勒如来と思われる。軟質の花崗岩白川石に彫られているため風化か進んでいて面相はわからない。しかし、厚肉彫りの体躯や円満相の顔など豊かな迫力のある石仏である。鎌倉時代中期を降らない造立と考えられる。



弥勒・釈迦石仏50選(24)  化野念仏寺門前の釈迦如来
京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17番地    「鎌倉時代」
向かって右は阿弥陀石仏
 化野念仏寺は、約千百年前、弘法大師がこの地を訪れ野ざらしとなった遺骸を埋葬しとむらうため、五智山如来寺を開創されたのがはじまりと伝えられている。中世になり法然上人の常念仏道場となり、現在は華西山東漸院念仏寺と称す浄土宗寺院である。

 化野(あだしの)は古来より葬送の地で、境内に奉る多くの小石仏・石塔はあだし化野(あだしの)一帯に葬られた人々のお墓で、明治中期に地元の人々の協力を得て集め、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀したものである。境内に集められた石仏は室町・江戸期のものがほとんどであるが、賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた石仏の群像は壮観で見応えがある。

 石仏自体として魅力あるのは門前参道に安置された鎌倉後期の阿弥陀・釈迦の二石仏である。ともに、花崗岩製で舟形光背を負い、蓮華座に坐す。像高は60p弱で右の阿弥陀像は定印を結び、左の釈迦像は施無畏与願印である。二石仏は穏やかな顔の整った像容の石仏で、衣紋なども写実的で、作風は酷似していて同一作者と思われる。



弥勒・釈迦石仏50選(25)  松ヶ崎二体石仏
京都市左京区松ヶ崎小脇町   「鎌倉時代・南北朝時代」
釈迦如来・弥勒如来?
弥勒如来?
釈迦如来
 地下鉄「松ヶ崎」駅から北山通りを東へ600m、または、叡電「修学院離宮」駅から北山通りを西へ500m、大型家電販売店の角を南へ少し行った民家の前に、大きな石仏が2体ある。

 右の石仏は、高さ130p、幅90p、厚さ30pの舟形の花崗岩に弥勒または釈迦と思われる如来座像を厚肉彫りしたもので、鎌倉時代の作風をしめす。右手は胸前にあてた施無畏印、左手は膝前に置いている。摩滅がすすんでいるため指先など細部はわからない。弥勒如来もしくは釈迦如来と思われる。

 左の石仏は高さ190p、幅100p、厚さ52pの長方形に近い舟形の板状の花崗岩に施無畏与願印の如来立像を厚肉彫りする。釈迦如来と思われる。右の石仏に比べると彫りは硬く伸びやかさに欠ける。時代は南北朝から室町時代の作と思われる。

 ともに白川石と呼ばれている軟質の花崗岩でつくられているため、岩倉の三面石仏のように摩滅風化がすすんでいる。


弥勒・釈迦石仏50選U