南山城の石仏
  
   
 
  京都府の南部、木津川に沿った木津川市加茂町・相楽郡笠置町・和束町は石仏の宝庫である。特に、浄瑠璃寺・岩船寺と浄土信仰の霊地として栄えた加茂町当尾(とおのお)地区は国宝や重文の仏教美術品とともに鎌倉時代の優れた磨崖仏・石仏が多くあり、石仏の里として知られている。

 また、奈良時代創建の笠置寺は本尊が巨大な弥勒磨崖仏で弥勒信仰の聖地であり修験道の行場である。この弥勒磨崖仏は元弘の変〔1331〕の兵火に焼かれて現在はその姿はとどめていないが、線刻の磨崖仏としては、傑作といわれる虚空蔵石磨崖仏など多くの石造美術品がある。



南山城の石仏(1) 大門仏谷磨崖仏
京都府木津川市加茂町南大門芋谷5  「平安後期」
 他の当尾石仏群から一体だけ離れているため、訪れる人も少なく、「笑い仏」とくらべるとあまり知られていない。 しかし、当尾石仏中、最古最大の磨崖仏であり、堂々たる体躯や幅のある丸い厳しい顔の表情など、近畿地方を代表する磨崖仏の一つである。

 二重光背形を浅く彫り、 その中をさらに彫りくぼめて、裳懸座に座る如来形を半肉彫りしている。 手の部分の一部が不明瞭で印相がわからず、 像名は阿弥陀・釈迦・弥勒など諸説がある。造立年代については奈良時代後期・鎌倉時代など諸説があるが、幅広い丸顔や豊満な仏身の表現から平安後期造立説が有力である。
アクセス
・JR大和路線・奈良線「加茂」駅下車。「加茂駅東口」より木津川市コミュニティーバス当尾線に乗車「東小」下車。北東へ1.2q(東小高庭の集落から林道に抜けて、林道を北西へ進んだ谷沿い)。
自動車・京奈和道「木津料金所」から東へ7.7q。(加茂町西小阪口の三叉路を「加茂青少年山の家」の方へ山道を0.5q進んだ付近の谷沿い。)



南山城の石仏(2) 東小会所阿弥陀石仏
京都府木津川市加茂町東小上高庭49 「弘長2(1262)年 鎌倉時代」
 浄瑠璃寺の東方、藪の中地蔵から北へ少し入った東小高庭の集落にある会所の前の広場にこの石仏が安置されている。長方形の石の表面に彫りしずめを作り、その中に定印の阿弥陀座像を半肉彫りにしている。 洗練された技法の「笑い仏」に較べると顔はやや硬い表現となっているが、 それだけ厳しく引き締まり、石の硬質感をうまく生かしていて、魅力的である。近くの藪の中磨崖仏と顔や衣紋の表現がよく似ており、同作者の彫刻と考えられる。首が深くくびれて切れているように見えるためか「首切り地蔵」と呼ばれている。(刑場跡にあったためという説もある。)

 舟形内の像の横に「弘長2年(1262)‥‥」の銘があり、当尾の在銘石仏としてはもっとも古い。石材の上に低い突起があるのでもとは笠をのせたことがわかる。
アクセス
・JR大和路線・奈良線「加茂」駅下車。「加茂駅東口」より木津川市コミュニティーバス当尾線に乗車「東小」下車。北東へ1.2q。
自動車・京奈和道「木津料金所」から東へ7.7q。(加茂町西小阪口の三叉路を「加茂青少年山の家」の方へ山道を0.5q進んだ付近の谷沿い。)



南山城の石仏(3) 藪の中三尊磨崖仏
京都府木津川市加茂町東小上 「弘長2年(1262)」
 東小高庭の集落の南、府道を隔てた樹林の中に「藪の中地蔵」または「やぶの地蔵」と呼ばれる磨崖仏がある。露出する二つの岩面にそれぞれ船型の彫り窪みをつくり、向かって左から阿弥陀・地蔵・十一面観音の各像を厚肉彫りしたものである。中尊の地蔵菩薩は像高153pで、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ引き締まったおおらかな面相の重厚感のある秀作である。

 右の岩に彫られた像高111pの定印阿弥陀座像は東小会所阿弥陀石仏によく似た硬い表現の磨崖仏である。像高113pの十一面観音は右手に錫杖を持つ長谷寺型の観音像で穏やかな女性的な顔である。「弘長二年」の紀年銘や願主とともに「大工橘安繩 小工平貞末」と石工名の刻銘があり、尾の在銘石仏としては東小会所阿弥陀石仏とともにもっとも古い。



     
南山城の石仏(4) 唐臼の壺阿弥陀・地蔵磨崖仏
京都府木津川市加茂町東小上内山 「康永2年(1343) 南北朝時代」
阿弥陀磨崖仏
 
地蔵磨崖仏
 藪の中地蔵から岩船寺方面に府道を進むと、府道から分かれて「笑い仏」「岩船不動磨崖仏」などを巡って岩船寺へ行くハイキングコースがある。その道を400mほど進と「カラスの壺」と呼ぶ三差路の辻があり、そこに「唐臼(からす)の壺磨崖仏」がある

 辻に面した小さな田んぼに巨岩が突き出ていて、その岩の真ん中に船型の彫りしずめをつくり、像高69pの阿弥陀座像を半肉彫りしたもので、左側の岩肌にも地蔵菩薩が刻まれている。両像とも衣紋や顔は誇張したく表現で共に康永二年(1343)の紀年銘を持ち南北朝時代の作である。阿弥陀像の右横には火袋を彫り込んだ線刻の灯籠が刻まれている。



南山城の石仏(5) さんたい阿弥陀三尊磨崖仏(笑い仏)
〒京都府木津川市加茂町岩船三大 「永仁7年(1299) 鎌倉後期」
 大門仏谷磨崖仏とともに、当尾の里を代表する石仏である。岩船寺から西南500mの山裾に露出する大きな花崗岩の岩に、 舟形に彫りくぼめをつくり、 蓮座に座した定印の阿弥陀像と蓮台を持つ観音像と、合掌する勢至菩薩像を半肉彫りにしている。

 「永仁七年(1299)二月十五日、願主岩船寺住僧‥‥‥大工末行」と3行にわたる刻銘があり、宋から渡来した石大工伊派の一人、伊末行の作とわかる。花崗岩の岩肌を生かして柔らかい丸みのある表現になっていて、 「笑い仏」 という愛称もつけられている。



南山城の石仏(6) 岩船不動磨崖仏(一願不動)
京都府木津川市加茂町岩船八丁 「弘安10年(1287) 鎌倉時代」
 「唐臼の壺磨崖仏」から岩船寺へ向かうハイキングコースをしばらくすすむと、三差路に出るその辻を右に数メートル行くと「笑い仏」があり、左の山道を進むと岩船寺に出る。その山道を数メートル進んだところから下りた谷間の藪の中に露出した大きな岩面に薄肉彫りさた岩船不動磨崖仏がある。やや斜め向きの顔は両眼を見開き、眉をつり上げた憤怒相で、剣を右手にかまえ、索を左手に持った不動明王立像である。風化が少なく、午後になると木漏れ日があたり、憤怒相であるがどこか穏やかな顔が浮かび上がり、印象的である。

 像の向かって右下方に「弘安十年丁亥 三月廿八日 於岩船寺僧□□令造立」の刻銘がある。



南山城の石仏(7) みろくの辻弥勒磨崖仏
京都府木津川市加茂町岩船三大   「文永11年(1274) 鎌倉時代」
 「笑い仏」から細い道を東へ400mほど行くと、府道47号線に出る。この交差点がみろくの辻である。この辻の南の露出した岩肌に「みろくの辻の弥勒仏」が彫られている。

 二重光背型の深い彫り窪みをつくり、その表面を平らにして磨き如来立像を線刻したものである。像はやや右下を見下ろすように斜めを向き、右手を与願印、施無印とする。宇陀市の室生区にある大野寺弥勒磨崖仏と同じ姿で、大野寺弥勒磨崖仏と同じく元弘の変(1331年)で消失した笠置寺の大弥勒仏の模刻である。像の脇に「文永十一年(1274)」の紀年や偈や願主名などと共に「大工末行」と石工名も刻まれている。「笑い仏」と同じく伊末行の作である。




南山城の石仏(8) 岩船寺三体地蔵磨崖仏
京都府木津川市加茂町岩船 「鎌倉時代後期」
中尊
左脇侍
右脇侍
 「みろくの辻磨崖仏」の府道を隔てた向かいに細い山道がある。この山道を進むと岩船寺に出られる。その山道を200mほど行った右手の高い岩壁に、三体地蔵磨崖仏が彫られている。

  四角形の彫り窪みをつくり、像高90p程の三体の地蔵を半肉彫りしたもので、三尊とも右手に短い錫杖を斜めに持ち、左手で宝珠を胸の前で持った地蔵立像で中尊は少し大きい。三体とも穏やかな顔の優れた容姿の地蔵菩薩である。



   
南山城の石仏(9) 岩船寺の石仏
京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43 
岩船寺不動石仏龕 「応長2(1312)年 鎌倉時代」
 
地蔵石仏 「鎌倉後期」
 岩船寺は開基は行基と伝える古寺で、本尊は阿弥陀如来像で10世紀を代表する仏像として知られている。三重塔(室町時代)は中世後期の代表作ともいわれており、重要文化財に指定されている。現在は真言律宗の寺院で紫陽花の寺としても知られている。

 岩船寺には鎌倉時代から室町時代にかけての多くの石造物か残されていて、五輪塔・十三重石塔などが重要文化財となっている。不動明王を奥壁に刻んだ石室も建造物として重要文化財に指定されている。

 この石室は屋形風の石造建築で奥壁と二本の柱で寄せ棟造りの屋根を支えたもので、奥壁に頭上に蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣を構え、左手に索を持つ不動明王立像を浅く半肉彫りされている。石室の下は霊水を溜めるようにできていて、この水が眼病に効くとしてもらいに来る人が多かったという。「応長第二(1312)初夏六日  願主盛現」の刻銘がある。

 石室の左には覆堂がもうけられ地蔵石仏が安置されている。二重円光背を背にした像高78pの地蔵座像を厚肉彫りしたもので、里人から厄除け地蔵として信仰されている。覆堂は近年になって建てられたもので、それまでは紫陽花の花に囲まれて美しい姿を見せていた。鎌倉後期の作と思われる。



南山城の石仏(10) 長尾阿弥陀磨崖仏
豊後高田市田染平野陽平  「徳治2年(1307) 鎌倉後期」
   加茂町西小から浄瑠璃寺へ向かうバス道(府道752号線)のカーブした所の崖上に笠を載せた長尾阿弥陀磨崖仏がある。

 突き出た岩の表面を平らにして方形の彫り窪みをつくり、像高76pの蓮華座にのる定印阿弥陀如来座像を半肉彫りしたもので、鎌倉後期の作である。光の関係か面相ははっきりしないが、よく見ると穏やかな整った顔である。「徳治二年丁未廿九日造立之願主僧行乗」の刻銘がある。



   
南山城の石仏(11) 鹿背山の磨崖仏
地蔵磨崖仏 「鎌倉後期」
京都府木津川市鹿背山大木谷49 「鎌倉時代後期」
 
貝吹き地蔵磨崖仏 
京都府木津川市鹿背山鹿曲田88 「南北朝時代」
 JR木津駅の東の丘陵地帯にあるゴルフ場の北、鹿背山の南の麓に鹿背山不動がある。像高45pの南北朝時代の不動磨崖仏が祀られていて昔から厚い信仰を集めている。不動堂石室の奥の岩肌に彫られていて、「建武元年(1334)甲戌十一月卅一日」「大工末次」の刻銘がある。

 鹿背山不動の境内から急坂を登って裏山山頂に出ると大きな岩石が突き立っていて、そこに地蔵磨崖仏が彫られている。岩いっぱいに船型の彫り窪みをつくり、そこに錫杖と宝珠を持つ像高128pの地蔵立像を半肉彫りしたもので、引き締まった写実的な顔の磨崖仏である。「しょんべんたれ地蔵」と呼ばれていて、お参りを続けるとこの地蔵が子供の寝小便の代わりをしてくれると言われている。

 鹿背山の西麓の西念寺の近くの林道の道端にも地蔵磨崖仏がある。「回復地蔵」または「貝吹き地蔵」と呼ばれ磨崖仏で、林道の曲がり角の露出した大きな岩に船型の彫り窪めをつくり、その中に整った美しい顔の地蔵立像(像高120p)を半肉彫りしたもので南北朝時代の作である。




南山城の石仏(12) 西念寺地蔵石仏
京都府木津川市加茂町河原橋ノ本 「弘安4(1281)年」
JR加茂駅の北西、木津川の北の田園地帯はかって恭仁京が造営された地である。その田園地帯にある集落が加茂町河原である。その集落の西に西念寺がある。西念寺に接して村墓の河原墓地があり、その墓の中の地蔵堂に等身大の地蔵菩薩立像が安置されている。

 二重円光背を背にした像高155pの地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので右手に丁寧に彫られた錫杖頭の錫杖を持ち、左手で胸前に宝珠をささげる。温厚でふくよかな面相で衣紋も写実的な秀作である。弘安四年(1281)の紀年銘を持つ鎌倉中期の作である。



 
南山城の石仏(13) 森八幡宮線刻不動明王・毘沙門天石仏
京都府木津川市加茂町森  「正中3(1326)年 鎌倉後期」
不動明王石仏 
毘沙門天石仏 
 毘沙門天の単独としての造立として古いのが普光寺多聞天磨崖仏とともに京都府木津川市加茂町の森八幡宮毘沙門天石仏である。森八幡宮は岩船寺の4qほど北の山間の村、加茂町森にある古社で、境内の二つの大石の正面に頭部をアーチ形にしたほりこみを作り、不動明王と毘沙門天の立像を達者な線で線刻する。不動像は直立でやや右方を向く。右手に剣、左手に索をとり、全身から火焔が立つ姿は勇壮である。

 毘沙門天は体をやや左に曲げ、眼を大きく見開いて口髭のはやした顔を斜め左に向けている。右手を高く上げて戟を持ち、左手で宝塔を捧げる。伸びやかな線刻で武神にふさわしい雄々しく力強い像である。

 毘沙門天像の左肩に「武内之本地」、不動像の左肩に「松童之本地」とある。不動像には「正中三年虎丙二二月十八日」という造立銘文がある。武内・松童は八幡宮の摂社。現在、岩面が剥落するおそれがあるため、雨露に直接触れないように覆屋根がもうけられている。



南山城の石仏(14) 撰原峠地蔵石仏
京都府相楽郡和束町撰原 「文永4年(1267)」
J峠の道のそばに、石室風に石を組んで、その中に安置されている。右手を垂れ与願印にし、左手で胸前に宝珠を持つ古式の形相の厚肉彫の地蔵立像である。おおらかな古い趣のある石仏である。像の両側に「釈迦如来滅後二千余歳、文永二二年(1267)丁卯、僧実慶」と刻む。



南山城の石仏(15) 和束弥勒磨崖仏
京都府相楽郡和束町白栖長井 「正安二年(1300)年」
 JR加茂駅から東北5qの木津川の支流の和束川の北岸の岩壁に彫られた像高230pの磨崖仏である。岩面に二重光背形に彫り込み、右手をあげて施無畏印、左手を下げて与願印の弥勒如来立像を厚肉彫りしたもので、対岸の府道から川を挟んで拝した姿は壮観である。向かって右のの岩壁面に「‥‥正安二年四月日 当釈迦牟尼仏滅年数後 二千二百余歳比」と刻銘がある。撮影に行った時は雲一つない晴天で周りの木々の枝葉の影がかかってよい写真が撮れなかった。



南山城の石仏(16) 谷山不動磨崖仏
京都府木津川市山城町平尾峰山 「鎌倉時代」
 JR京都線「棚倉」駅の東北東、約1.5q。木津川の支流不動川の谷沿いの山腹にある。谷沿いの道から石段を百数十段、登ったところの岩にさしかけるようにお堂がつくられ、その中に不動磨崖仏がある。

  内部の岩肌に瑟々座を刻み、その上に船型の彫り窪みをつくって、蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣を構え、左手に索を持った不動明王座像を半肉彫りしたもので、鎌倉中期の作と思われる。温和な中にも迫力がある不動磨崖仏である。



南山城の石仏(17) 笠置寺虚空蔵石磨崖仏仏
京都府相楽郡笠置町笠置笠置山29 「平安後期」
 花崗岩の壁面を二重光背式に浅くほりさげて、内部を平らにし、そこに太い彫線で彫刻した高さ約9mの石仏である。宝相華文を刻む宝冠をいだき、瓔珞を胸に飾り、右手を上げて指頭を捻じ、左手を膝上にのべる結跏趺坐の像、寺伝では虚空蔵菩薩像というが、如来のように持物を持たず、宝冠・瓔珞を加えて菩薩形にしている点から、弥勒菩薩と思われる。造立年代については本尊と同じ奈良時代説もあるが、現在の所、平安後期説が有力である。宇陀市の大野寺弥勒磨崖仏と並ぶ線刻の磨崖仏の傑作である。