近畿の石棺仏 |
石棺材を使った石仏(石棺仏)が多くあるのは加西・加古川・姫路などの播磨地方である。(播磨の石棺仏参照)しかし、石棺仏の古いものは大和・河内地方にある。 石棺仏で最も古いものは、藤原時代の作で、奈良県香芝市の正楽寺石棺仏や大阪府柏原市の高井田石棺仏などである。ともに定印阿弥陀座像で、石材いっぱいに薄肉彫りしていていて、穏やかな面相や繊細な造形とおおらかな曲線表現などに藤原仏の特色を見る。しかし、これらの石棺仏は板状石材をつかっていることはわかるが、案内板や本などを見ないと石棺仏とはわからない。 柏原市にはもう一つ、藤原時代の石棺仏がある。瑠璃光寺石棺仏がそれである。一見して石棺材を使ったとわかる石仏で、上部に蓋石の合わせ目部分が、上部外側に縄付突起が残っている。正楽寺石棺仏のような優美さには欠けるが、縄付突起や蓋石の合わせ目部分を生かした石棺仏らしい石棺仏として、播磨石棺仏につながる秀作である。 鎌倉時代の石棺仏としては、奈良県天理市の長岳寺弥勒石棺仏や光蓮寺跡石棺仏、専行院阿弥陀石棺仏などが知られている。これらは、石棺材に舟形光背、もしくは二重円光背の深い彫りくぼみをつくり、仏像が厚肉彫りで彫られいるのが特徴である。 鎌倉時代の石棺仏では大和高田市の池田地蔵石棺仏や柏原市の青谷地蔵石棺仏などは石棺蓋石の内側を使っていて、一見して石棺材を使っていることがわかる。 石棺という古墳時代の石の世界を生かした、これらの石仏は、普通の石仏とはまた違った不思議な美しさに充ちている。どうぞ、「石棺仏の造形美」をお楽しみください。 |
近畿の石棺仏(1) 瑠璃光寺石棺仏 | |||
大阪府柏原市山ノ井町 「平安後期」 | |||
柏原市の北部、八尾市との境近くの、山ノ井町の東の山麓に曹洞宗の小さな禅寺、瑠璃光寺がある。その瑠璃光寺の門を入った左側に小さな堂があり、石仏が三体、安置されている。 その中央に高さ1.4m、幅75cmの石材に二重円光背を彫りくぼめ蓮華座に坐す像高67cmの如来像を半肉彫りした石仏がある。一見して石棺材を使ったとわかる石仏で、家形石棺の蓋を横断カットして使用していて、上部に蓋石の合わせ目部分が、上部外側に縄付き突起が残っている。 如来像は右手をあげ、左手をさげて膝上に置くが、親指先を欠損しているため、尊名は断定できないが阿弥陀如来か釈迦如来と思われる。体部の充実感や衣紋の表現などから見て、藤原時代の造立と考えられる。 |
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近畿の石棺仏(2) 高井田石棺仏 | |||
大阪府柏原市高井田 「平安後期」 | |||
JR大和路線「たかいだ」駅から西へ細い道を200mほど行ったところに、高井寺がある。その寺の南側の塀に接して石仏が数体並んでいる。その中に大きな長方形の平板な石材に彫られた阿弥陀石仏がある。石棺の蓋石、または棺台石を使った石棺仏である。(案内板は棺台石となっている。)
高さ1.7m、幅1m、厚さ30cmの石棺材の表面に像高1mあまりの定印阿弥陀如来座像を薄肉彫りしている。かなり摩滅が加わっているため衣紋の線はわからないが、穏やかな面相や裳架座と呼ばれる古式の台座などから藤原時代の造立と思われる。 |
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近畿の石棺仏(3) 正楽寺石棺仏 | |||
奈良県香芝市平野 「平安後期」 | |||
西名阪道「香芝IC」の北の集落が香芝市平野である。平野の集落の北に正楽寺がある。コンクリートつぐりの本堂の北側のコンクリート覆堂にこの石棺仏が安置されている。 古墳石棺の棺台を転用したと思われる高さ230cm、幅95cmの板状石に、二重蓮華座の上に上品上生印を結んで端座する定印阿弥陀如来座像を薄肉彫りしたものである。年号は記されていないが、繊細な造形とおおらかな曲線の表現に平安時代後期頃の作風を残す。石棺を利用した石仏では最も古い遺品である。 |
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近畿の石棺仏(4) 池田地蔵石棺仏 | |||
奈良県大和高田市池田 「鎌倉時代」 | |||
大和高田市の西、大和高田市池田の小池寺の門前に建てられた小さな地蔵堂の中に安置されている。長持石棺の蓋石内部に地蔵立像を彫ったものである。 高さ175cm、幅1mの石棺内壁に蓮華座を刻み、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ像高79cmの地蔵立像を半肉彫りしたものである。面長で、細身、大きく裾広がりにつくった裳裾で、光蓮寺跡石棺仏など柳本方面に残る建治年間の石仏、石棺仏とよく似た様式である。石棺の向かって右上部分と、顔の下部と錫杖が欠損している。 奈良県の石棺仏は一目見ただけではでは石棺材を利用したものとは思えないものがほとんどであるが、この石仏は網掛け突起もついていて一見して石棺仏であることがわかる。 |
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近畿の石棺仏(5) 長岳寺弥勒石棺仏 | |||
奈良県天理市柳本町508 「鎌倉時代」 | |||
長岳寺本堂から東南の丘の上に、この石仏がまつられている。高さ240p、幅180p、厚さ30cmの組合せ石棺の蓋石と思われる石材に、蓋裏の面に二重光背形を彫りくぼめ、その中に像高194p弥勒如来立像を蓮華上に半肉彫りする。像は右手を施無畏印、左手は垂れて掌を前にする与願印ではなく、のど地蔵と同じ掌を伏せる蝕地印(降魔印)である。大和の弥勒石仏によく見かける印相である。風化も少なく、美しく保存されていて、おおらかな雄大な表現の石仏である。 | |||
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近畿の石棺仏(6) 専行院阿弥陀石棺仏・地蔵石棺仏 | |||
奈良県天理市柳本町1474 「鎌倉時代」 | |||
阿弥陀石棺仏 | |||
建治二年地蔵石棺仏 | |||
地蔵石棺仏 | |||
柳本町の東に卑弥呼の時代の鏡、三角縁神獣鏡が多数出土したことで知られる黒塚古墳がある。その古墳の南に藩主であった織田一族の菩提寺、専行院(せんぎょういん)が建つ。本堂の前にこの阿弥陀石棺仏が立っている。 高さ121cm、幅91cm、厚さ30cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に立つ阿弥陀来迎像を厚肉彫りする。建治年間の刻銘はないが、面長で、細身、大きく裾広がりにつくった裳裾など建治2(1276)年の光蓮寺阿弥陀石棺仏と同じ作風である。 阿弥陀石棺仏の右には建治2(1276)年の地蔵石仏、また、境内の無縁仏内にも石棺材を使った地蔵石仏がある。これらも光蓮寺阿弥陀石棺仏と同じ作風である。 |
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近畿の石棺仏(7) 中山観音堂阿弥陀石棺仏 | |||
奈良県天理市中山町493 「鎌倉時代」 | |||
阿弥陀石棺仏 | |||
長岳寺の田んぼを隔てた北の小さな集落が天理市中山町で、そこには小さな観音堂がある。境内に十数基の小石仏が集めてられている。その中にこの阿弥陀石棺仏がある。 高さ89cm、幅42cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に坐す像高31cmの定印阿弥陀像を半肉彫りする。建治年間の刻銘はないが光蓮寺などの建治年間の石仏につながる石仏で鎌倉時代の作と思われる。光蓮寺や専行院の阿弥陀石棺仏に比べると彫りは浅く、穏やかな端正な顔である。 |
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近畿の石棺仏(8) 光蓮寺跡阿弥陀石棺仏 | |||
奈良県天理市柳本町830 「建治2(1276)年 鎌倉時代」 | |||
阿弥陀石棺仏 | |||
古びた家屋が残る柳本の街の細い路地を入ったところにに光蓮寺跡があり、小さな毘沙門堂と石仏を集めた仮堂がある。仮堂の中心となっているのが、高さ113cm、幅49cm、厚さ26cmの石棺の一部を使用したと考えられる長方形石材に、舟形光背を深く彫りくぼめ、その中に来迎阿弥陀立像を厚肉彫りしたこの石仏である。鎌倉中期の建治2(1276)年の刻銘がある。面長で、細身で、技巧的な個性の強い石仏で、このような石仏は柳本の町や長岳寺周辺には30体ほどあり、そのおおくが建治年間(1275〜1278)の刻銘がある。 | |||
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近畿の石棺仏(9) 聖衆来迎寺石棺仏 | |||
滋賀県大津市比叡辻2丁目4-17 「鎌倉時代」 | |||
恵心僧都が念仏修行し、弥陀の来迎を感得したと伝えられる念仏修行の寺、聖衆来迎寺の本堂前の庭の覆堂の中にこの石棺仏はまつられている。 高さ145cm、幅110cmの家形石棺の蓋石を利用した石材の中央に舟形の光背を彫りくぼめ、像高83cmの来迎印の阿弥陀立像を半肉彫りしたものである。左右には同じく舟形光背を彫りくぼめて、腰をかがめ中腰姿で、蓮台を捧げる観音菩薩と合掌する勢至菩薩を半肉彫りしている。二尊の下には合掌する比丘形像と比丘尼形像が彫られている。子どもが両親の極楽往生を願って、造立供養したものではないかといわれている。 |
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