自由で素朴で個性的な表現の石仏50
  
 
白滝山の石仏(広島県尾道市因島)
  飛鳥時代に始まる日本の仏教彫刻史は、「奈良・平安・鎌倉を経て、室町でほとんど終息し、江戸時代は取り上げる作例を持たない。」というのが、戦前までの通説であり、通念であった。その通説を覆すことになるのが、円空仏であり木喰仏である。特に戦後紹介された円空仏は、前衛的表現とか現代彫刻に通じる表現として芸術家や文学者から高く評価されることになる。仏教美術の衰退期の江戸時代に、このようなすぐれた造形美を持つ円空仏や木喰仏が、なぜ生み出されたのだろうか。

 美術史家や研究者の間では、円空仏や木喰仏は、日本の仏教彫刻史における異端派として、『江戸時代に咲いたあだ花』 的な存在として、評価されていて、円空仏や木喰仏の造形美は、日本の仏教彫刻の伝統とは無縁であり、あくまでも、円空仏や木喰仏は、円空や木喰という「ひじり」の個性と信仰の表出であるというとらえ方が一般的である。果たしてそうであろうか。

  確かに、飛鳥彫刻や天平彫刻、藤原時代・鎌倉時代の仏像など、国家や貴族、一部の武士などの支配階級によって生み出された仏教彫刻の歴史では円空仏や木喰仏は異端である。しかし、仏教は支配階級だけのものではなかった、幅広い民衆によって支えられ、広がってきたものでもあった。仏像も国家や支配階級がつくった寺院の仏像だけではない。このホームページであつかっている石仏もまた仏像である。幅広い民衆によって支えられ造立されたものである。

 円空仏や木喰仏の表現や様式は、磨崖仏や石仏の歴史、様式の変化からみると、必ずしも異端とはいえない。それどころか、円空仏や木喰仏と共通した表現の石仏が幾つか見られる。それが、岡山市高松付近に多く見られる「文英の石仏」であり、兵庫県加西市の「北条五百羅漢石仏」である。そして、木喰の作という説もある鳥取県倉吉市の「伯耆国分寺石仏」である。

 石仏・磨崖仏の造形美は《石(岩)》の持つ美しさ・厳しさと人々の信仰心が結びついたところにあると思う。同じように、鉈や小刀などで彫られた木彫仏である円空仏や木喰仏の造形美も、神が、命が、宿る《木》の美しさと円空・木喰や彼らを支えた人々の信仰心にあるのではないだろうか。

  大陸から伝わった仏教は山や川や木や石などの自然そのものを神として崇める日本古来の信仰と結びつき日本の民衆の中に広がっていった。そのような仏教を広げたのは全国を放浪し、山岳修行や木食行(五穀断)などをした半僧半俗の「ひじり」であった。円空・木喰こそ、そのような「ひじり」であった。「文英の石仏」・「北条五百羅漢石仏」・「伯耆国分寺石仏」にしても、専門の石工ではなく、円空や木喰のような半僧半俗の「ひじり」によって刻まれた可能性が考えられる。

 江戸時代になると村や字の境界線、辻や追分、野辺や峠道、寺社の境内などにおびただしい数の石仏・石神が造立された。修験道系や仏教系の行者などが指導して、村人たちに広がった民間信仰が講として組織化され、地蔵講・観音講・庚申講・月待講・念仏講などの主尊や供養塔として造立されたものが多い。また墓標として造立されたものもある。地蔵菩薩、観音菩薩、青面金剛像、道祖神、大黒天などの石仏・石神がそれである。観音霊場巡りや四国八十八ヶ所巡礼も流行し、霊場の道しるべや霊場のミニチュア化として観音などの石仏も多く造立された。

   このような江戸時代の石仏は多くは儀軌に則りつくられた、地蔵や観音などの石仏であり、形式化して非個性的なものになっているものが多い。馬頭の名称から身近な生活の中の「馬」に結び付けられて造立された馬頭観音や子どもを守り育てるという観音や地蔵に対する信仰が生みだした子育観音・子育地蔵や道祖神・田の神像などの民間信仰と結びついた石仏・石神は素朴で自由な表現のものも見られるが、「文英の石仏」・「北条五百羅漢石仏」・「伯耆国分寺石仏」などのような個性的で魅力ある石仏は少ない。

 そのような中で異彩を放つ石仏が「修那羅の石神仏50体」としてこのホームページで取り上げている長野県の修那羅山安宮神社の石神仏群である。修那羅山安宮神社は修那羅大天武と称する一修験行者が拓いた霊場で、彼はは石工達を指導して、彼の独創的な信仰世界を表現させた。修那羅の石神仏は自由で素朴で個性的な表現の石仏そのものである。

 修那羅の石神仏と共通する石仏が、大天武に私淑した、明治時代に北川原権兵衛が拓いた長野県千曲市八幡の霊諍山の石神仏や広島県の因島の白滝山の石仏群である。白滝山の石仏は、文政年間に因島重井町の柏原伝六(一観)が、神道・仏教・キリスト教・儒教の宗教の共通理念を一つに融合して「一観教」を編みだし、弟子の柏原林蔵を工事責任者として、 尾道より、石工を呼び寄せ彫らせたものである。信州の修那羅の石神仏と同じく、 仏教儀軌を無視した自由奔放な表現で、庶民の作物の豊穣や安楽を願う強い祈りが感じられ、魅力的である。この尾道地方には他にも、「忠海町黒滝山」・「尾道竜王山」など尾道石工を中心につくられた自由奔放な個性的な石仏群がある。

 また、岡本太郎が絶賛したという長野県の諏訪の謎の石仏として知られる「万治の石仏」や通称「安楽様」「しょうりょう様」などといわれる大分県竹田市の「上坂田磨崖仏」なども自由で素朴で個性的な表現の石仏である。古墳に眠る古代の人々の霊を鎮めるために岩岡保吉氏(1889-1977)が私財を投じ地元の人と共に半生をかけて造立した石仏群、宮崎県の高鍋大師も自由で素朴で個性的な表現の石仏群である。

 ここでは「文英の石仏」・「北条五百羅漢石仏」・「伯耆国分寺石仏」を初めとして、「白滝山の石仏」「霊諍山の石神仏」「高鍋大師の石仏群」など江戸時代を中心とした戦国時代から近代までの「自由で素朴で個性的な表現の石仏」を50選んで紹介する。円空仏や木喰仏と同じように自由で素朴で個性的な表現の石仏の造形美をどうぞお楽しみください。


 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(1)   大崎廃寺跡地蔵石仏
岡山県岡山市北区大崎 「天文4(1535)年」
 秀吉の水攻めで知られる高松城のある岡山市高松付近を中心とした一体には、薄肉彫りと線彫りを組み合わせた素朴で独特な表現の石仏が140体あまりある。三角形の団子鼻と目尻の下がった三日月形の眼、小さなおちょぼ口を配した独特の面相が印象的である。現在これらの石仏は文英様石仏と呼ばれ、年銘資料から天文2年(1533)から天正10年(1582)に至る約50年の間に造立されたものであることがわかる。

 文英様石仏と呼ばれるのは、これらの様式の石仏の先駆となった四体の石仏に「文英」と人名が刻まれいるためである。その四体とは、岡山市中島の関野家裏1号石仏と関野家前の文英座元石仏、岡山市大崎の大崎廃寺跡地蔵石仏および持宝寺十一面観音石仏である。

 これらの石仏には、「文英施」「天文三年五月」(関野家裏1号石仏)、「念佛講文英筆」「天文四年乙未五月□日」(大崎廃寺跡地蔵石仏)、「天文十四年三月吉日」「福成寺文英誌」(持宝寺十一面観音石仏)、「英座元」(文英座元石仏)の銘文がある。これらの銘文から、文英は、福成寺(高松地区の平山にその廃寺跡がある)に所属する僧侶で、念仏講を主催する、天文三年(1534)から天文十六年(1547)にかけて、これらの石仏を彫った、もしくはこれらの石仏の下絵や下図を書いたと考えられる。

 天文四年(1535)の紀年銘の持つの江口家墓地1号石仏(岡山市門前)、天文三年(1534)の紀年銘の持つ報恩寺4号石仏(岡山市門前)、銘はないがほぼ同じ頃の制作と考えられる遍照寺1号石仏などの石仏も、文英銘の石仏と同じ薄肉彫りと線彫りを組み合わせた独特な表現で、文英や文英と関係する人々が係わったと考えられる。

 同じような表現の石仏(文英様石仏)は、高松平野(岡山市)を中心に総社・足守地区(総社市・岡山市)、山陽盆地(山陽町・赤坂町)、旧上道郡地区(岡山市)に148体見つかっている。それらは、天文年間(1532〜1554)から天正10年(1582)にかけての戦国動乱の真っ最中の約50年間の造立で、延命地蔵を中心に十一面観音・客人(まれびと)大明神・法華題目・厳島弁財天などの雑多な神仏が彫られている。「為逆修」「預修□□」「為妙善」「念仏講」「庚申衆」などの銘文から、追善供養・個的供養のため、文英に代表される半僧半俗的性格を持つ僧の指導の下、吉備の民衆によって造立されたものと考えられる。

 仏像の基本図像や規範に縛られることなく、自由に表現した素朴で力強い文英様石仏は、戦国時代の民衆の息吹が感じられる全国に類例の見ない魅力的な石仏群である。

 その文英様石仏の秀作が大崎廃寺跡にある延命地蔵石仏(高さ123cm)である。頭部は薄肉彫り、胴体部や剣菱形の蓮弁は線彫りという、典型的な文英様石仏の表現で、まん丸の顔に大きな三角形の団子鼻、三日月形の大きな目が印象的な、文英様石仏を代表する作である。『念佛講文英筆 天文四年乙未五月日』の記銘がある。水田の畦の横に祀られていて、回りは水田で、秋には黄金に実った稲穂の中に佇む。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(2)   高松中島関野家裏石仏
岡山県岡山市北区高松 「天文3(1534)年 永禄5(1562)年」
 高松中島の路傍にある文英石仏は、高松城周辺から出土したもので、細長い角材に地蔵菩薩と思われる像を薄肉彫りする。石仏の下部に『文英施 天文三年五月』の刻銘がある。胴体部分はほとんど彫られていず、顔だけが石から浮き出たような、一見、不気味な感じの石仏である。この石仏は中央の大きな鼻が目立つ。このように、面相のみ刻むタイプの文英様石仏も何体か見られる。この石仏の下には、文英様式の地蔵石仏の残欠か2体置かれていて、1体は上半身のみ残り、顔だけでなく胴体部も薄肉彫りである。永禄五(1562)年十月の記銘がある。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(3)   持宝院十一面観音石仏
岡山県岡山市北区立田 「天文14(1545)年」
 持宝院にある十一面観音石仏には両側に『天文十四年乙巳三月吉日』と『福成寺 文英誌』の刻銘がある。花崗岩の石材に薄肉彫りと線刻で十一面観音をあらわしたもので、顔の部分は光背部を彫りくぼめて、薄肉彫りする。顔は胴体部と比べて大きく、中央の大きな鼻に特徴がある。剣菱形の蓮弁は薄肉彫りであるが、肩や手部は平坦部に線彫りしている。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(4)   遍照寺地蔵石仏(1号石仏)
岡山県岡山市北区立田 
 大崎廃寺跡の東にある遍照寺の墓地にある遍照寺地蔵石仏(1号石仏、高さ106cm)である。大崎廃寺跡地蔵石仏と同じ円光光背を負う延命地蔵座像の薄肉彫りである。しかし、全体的な印象は大崎廃寺跡地蔵石仏と異なる。大崎廃寺跡地蔵石仏は無骨な農夫のような素朴さが魅力的であるのに対して、遍照寺1号石仏は、尼僧を思わせる上品な美しさが魅力である。鼻は大崎廃寺跡地蔵石仏と同じ団子鼻であるが、顔の形は瓜実顔で、目はまっすぐな小さな目で、おちょぼ口である。胴体部や蓮弁も線彫りというより浮き彫りに近く、非常に丁寧に彫られた美作である。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(5)   江口家墓地地蔵石仏(1号石仏)
岡山県岡山市北区門前 「天文4年(1535)」
 国道429号線脇にある小さな墓地(江口家墓地)に3(2)体の文英様石仏がある。(2号石仏と3号石仏は表裏に彫られている。)江口家墓地1号石仏(高さ83cm)は丁寧に仕上げられた薄肉彫りの秀作で、頭部・胴体部とも薄肉彫りの遍照寺1号石仏によく似た表現の延命地蔵石仏である。「天文四年(1535)願主」「八月二十四日」の記銘がある。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(6)   常楽寺文英様石仏群
岡山県岡山市東区草ケ部 「永禄10年(1567)」
十一面観音 
定印の比丘形像 
 築地山常楽寺は奈良時代、報恩大師が開いたと言われる報恩大師開基・備前48寺の一つで、盛時には20余の院坊があったと伝える。文化年中に大半の堂宇を焼失し、その後再建された。明治16年再び大部分を焼失し、現在は山門と近年改築された本堂がある。築地という地名は山中に弘法大師が築いたという築地があることから地名がついたと言われる。実際、常楽寺の裏山、大廻山・小廻山の山頂近くには土塁(築地)が谷部には石塁が残っていて、古代の山城の跡だという。

 その裏山から戦後の開墾によって発見された文英様石仏が17体、常楽寺の旧客殿下の石垣下に祀られている。すべて、高さ80cm〜30cmの小石仏で、十一面観音像、1体を除いて他は地蔵石仏と思われる。高松平野によく見かける錫杖と宝珠を持つ延命地蔵は見あたらず、合掌印が多い。また、放射光の頭光の光背を背負い、法界定印の比丘形像(地蔵?)も3体見られる。同じ文英様式でも、顔の形が、まん丸・角張った丸・長円・瓜実顔など様々あり、表情も少しずつ違い、それぞれ個性的である。

 放射光光背を負う法界定印の比丘形像の文英様石仏は山陽町の千光寺にも、2体見られ、その内の1体に永禄10年(1567)の紀年があることから、放射光光背を負う法界定印の比丘形像は文英様石仏の末期の作と思われる。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(7)〜(10)   北条五百羅漢
兵庫県加西市北条町北条1293  「慶長年間(1596〜1614)頃」
(7) 五百羅漢 
(8) 女性供養者 
(9) 倶生神 
(10) 文殊菩薩 
 北条鉄道の終点「北条町」駅の北にある住吉神社と酒見寺の境内を北進すると北条五百羅漢で知られた羅漢寺にでる。「慶長十五年(1610)二月廿一□」の刻銘を持つ仁王像が入口にひかえている。境内の奥に、約400体に及ぶ五百羅漢石仏が林立している。釈迦三尊・冥界仏・眷属など20数体以外は方柱形の石材に頭部だけ刻みだした羅漢で、他にあまり例を見ない特異な造形美の石仏である。

 ほとんどの像は60〜100pの角柱状の石材の上方から頭部を彫りだし、肩から下はほぼ元の角柱のままにして、わずかに手や持ち物などを線刻または板状に薄肉彫りしているだけである。
   顔は、釈迦三尊・冥界仏・眷属などを除くと、羅漢と思われる像は、開けているのか閉じているのかわからない不思議なまなざしの目(『モノマニックな眼』と若杉慧氏は表現された。)と鼻筋の通った特色のある鼻、直線または小さな弓形の線で表現した口からなりたっていていて、すべて、共通した表現である。

 それでいて、すべて面貌が異なり、一体一体に個性が感じられ、『親が見たけりゃ 北条の西の 五百羅漢の堂にござれ』という古い民謡があるというのもうなずける。

 制作年代については、現在、仁王像などの刻銘から慶長年間(1596〜1614)頃の制作と考えられている。作者については不明で、岡山県の「文英の石仏」のように、具体的な人物・作者は全く浮かんでこない。

 しかし、「文英の石仏」と同じように、作者の個性が感じられ、円空仏や木喰仏の素朴で自由な表現につながる。「文英の石仏」が木喰仏的表現の先駆であるとすれば、ノミの跡が非常に鋭く美しい「北条五百羅漢」は、石仏における円空的表現といえるのではないだろうか。

 メインページで述べたように、円空仏や木喰仏は石仏も含めた幅広い日本の彫刻史の歴史の中では、異端とはいえない。「文英の石仏」やこの「北条五百羅漢」のような先駆的な彫刻があって、円空仏や木喰仏が存在するのである。そして、「北条五百羅漢」も、突如として生まれたものではない。石棺仏に代表される、播磨地方の石造技術の伝統の中から「北条五百羅漢」も生まれたものである。

 宮下忠吉氏は「石棺仏」(木耳社刊)の中で播磨石棺仏についての全体像を明らかにし、石仏表現の変遷を真禅寺本堂前の阿弥陀石棺仏などの古典(クラシック)表現から真禅寺墓地の阿弥陀石棺仏に代表される抽象表現の流れで説明された。そして、真禅寺墓地の阿弥陀石棺仏に代表される抽象表現の流れの頂点として「北条羅漢石仏」を位置づけらている。(播磨の石棺仏「真禅寺の石棺仏」参照)

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(11)   伯耆国分寺石仏(社五体仏)
鳥取県倉吉市国分寺88
 
如来像1 
如来像2 
薬師如来像? 
如来?or比丘形像? 
菩薩像? 
 鳥取県倉吉市の社小学校の前庭に「伯耆国分寺石仏」または「社五体仏」と呼ばれる謎の石仏が5体ある。その内4体は、北条五百羅漢石仏のように、高さ50cmから85cmほどの角柱状の石材に、顔を大きく薄肉彫りに彫り、首より下は、もとの角柱のままにして、簡略に表現にしている。あとの1体も角柱状の石材ではないが共通した表現である。
 ただ、顔の表情などは、異様さでは北条五百羅漢石仏と共通するが、雰囲気や表現は異なっている。どちらかといえば、文英の石仏の表現に近く、木喰的な表現といえる。特に、向かって左の2体は分厚い唇や三日月状の大きな眼の表現は、木喰仏そっくりである。

 この石仏は近くの伯耆国分寺跡から出土したといわれていていて、石材は伯耆国分寺の地覆石ともいわれている。しかし、制作年代や作者は全く不明で、尊名もまったくわからない。その意味でも謎の石仏といえる。

 木喰が彫った石仏であるという説もある。それによると、木喰は寛政十年(1798年)5月から7月に伯耆を訪れていて、その時つくられたのがこの石仏であり、「御やど帳」には寛政十年五月二十日「国分むら、国分寺」の記録もあるという。しかし、あくまでも推論にすぎず、木喰作であるという確証はない。(表現から見ても、左の2体以外は、木喰仏とは異なるように見える。)

 しかし、「文英の石仏」や北条五百羅漢のように自由で素朴な表現からみて、制作年代は、桃山時代以降と考えられる。そして、作者も専門の石工とは考えにくく、円空や木喰のような、半僧半俗の「ひじり」によって刻まれた可能性は高いのではないだろうか。 

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(12)   万治の石仏
長野県諏訪郡下諏訪町社 「万治3(1660)年」
 岡本太郎が絶賛したという石仏がこの万治の石仏である。諏訪大社の春宮の左を流れる砥川の西、田んぼの中に巨大な阿弥陀如来像がどっしりと座っている。高さ2mほどの半球状の石の胴体に、イースター島のモアイを思わせる高い鼻と深い眼が印象的な首がちょこんとのっている。弥陀定印を結ぶ手や袈裟などは、板彫風に線や面を薄肉彫りし、メキシコのマヤ文明の彫刻を連想するような抽象的な表現となっている。「南無阿弥陀仏 万治三年 願主明誉浄光 心誉慶春」と銘が刻まれている。

 諏訪高島三代藩主忠晴が、諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納しようとした時、命を受けた石工が大鳥居造営の材料としてこの地にあった大石にノミを入れたところ、血が流れ出したので、取りやめてこの石に阿弥陀如来を刻んだという伝説が残っている。この伝説と共に、一度見たら忘れることのできない迫力のある異形の石仏は「自由で素朴で個性的な表現の石仏」にふさわしいものである。

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自由で素朴で個性的な表現の石仏(13)〜(15)   鮭立磨崖仏
福島県金山町山入字石田山2692 「江戸時代」
(13) 鬼子母神・湯殿権現・深沙大将・九頭竜権現・風神・雷神
(14) 飯綱権現
(15) 牛頭天王
 鮭立集落の南西の山麓の小高いところに凝灰岩の洞窟があり、その壁面に像高14pから60pに至る大小様々な刻像が、交互に40〜50体びっしりと、不動明王を中心に密教系の諸仏・天部や垂迹神像が半肉彫りされている。深沙大将(じんじゃだいしょう)や牛頭天王(ごずてんのお)・荼枳尼天(だきにてん)・飯綱権現(いづなごんげん)など石仏としては数少ない像もある。また、一洞窟に、これほど多種多様の像が刻まれているのも珍しい。飯綱権現像や愛染明王像などには彩色の跡が残っていて、もとは、美しく彩色されていたと思われる。

 この磨崖仏は天明の飢饉や天保の飢饉の惨状を見て、現在の岩淵家の祖先である修験者の法印宥尊とその子の法印賢誉が五穀豊穣と病魔退散を祈って彫ったと伝えられている。

 浅く細長い洞窟で3つほどに分かれていて、中央部の壁面は壁全体が奥まった形に掘りこまれていて、その左面と正面に40体ほど像が刻まれている。正面の中央には不動明王と:八大童子が彫られている。不動明王は像高50pほどで、龕を穿ちその中に彫られている。龕の周りは火焔光背になっていて上部は面両側の表壁をつなぎ透かし彫りにしている。八大童子は矜羯羅童子と制た迦童子はともに像高23pで、龕の両側下に彫られている。他の6童子は龕の上部と下部に彫られている。不動明王の向かって右の龕は飯豊山神社を祀る祠になっている。向かって左には龍頭観音・牛頭天王・梵天・釈迦三尊などが並んでいる。

 左面には28体の像が彫られている。左端には45p〜53pの比較的大きな像が並んでいて、左から鬼子母神・箱根権現(or湯殿権現)※2・深沙大将・九頭竜権現でこの磨崖仏で最もよくで紹介されている部分である。その右には、風神と雷神が並び、その右は4段に分かれて、荼枳尼天・淡島様・愛染明王・聖観音・渡唐天神・弁財天など諸像が所狭しと彫られている。左面の右端は摩滅が進んだ尊名不明の像(文殊菩薩?)と飯綱権現が上下に並んでいる。

 3つに分かれた右側には青面金剛・大黒天・水神・地天などが彫られているが、中央の諸像よりは摩滅が進んでいる。左側の壁面は彫られた像は見当たらない。小形ながらどの像も儀軌に準じて彫られていて、一種の曼荼羅のようになっていて魅力的である。砂岩も含んだ軟質な凝灰岩のため摩耗がすすみ、顔の細かい表情がわからず、印相や持ち物の識別が困難な像が何体かあるのが惜しい。

※1 深沙大将の磨崖仏としては他に大分県の高瀬石仏・広島県の竜泉寺白滝山磨崖仏がある。
※2 閻魔王という説が一般的であるが、閻魔王の多くは片手で笏を持つ座像であるのが通常で、閻魔王とは思えない。「仏像図彙」(元禄3年に刊行の「仏神霊像図彙」の復刻版)の伊豆箱根権現もしくは出羽湯殿権現にそっくりなことや湯殿権現・箱根権現は修験道に関わる神であることによって湯殿権現(or箱根権現)とした。
       


 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(16)   力石二体地蔵
香川県さぬき市多和力石 「江戸時代」
 円と三角形と直線の組み合わせによって表現されたあどけない顔の素朴な二体の石仏で、2体とも石材の向かって左端から伸びた細い右手で棒のようなもの(錫杖?)を持ち、左端から伸びた細い手で片手拝みをする像で、棒を振って遊んでいる幼児のような、古墳時代の埴輪のような、プリミティブな表現の像である。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(17)〜(19)   黒滝山三十三所観音磨崖仏
広島県竹原市忠海中町4丁目9?1 「 天保4(1833)年」
(17) 22番穴太寺 聖観音
(18) 9番南円堂 不空羂索観音
(19) 7番岡寺 如意輪観音
 JR呉線の忠海駅を下車し、北西に10分ほど歩くと地蔵禅院という寺がある。その寺の横手が黒滝山の登山口である。 約30分ほどで山頂に達する。 この登山道に沿って西国三十三観音磨崖仏が岩肌に彫られている。 天保4(1833)年に完成した江戸時代の磨崖仏で、 三重県の石山観音磨崖仏とともに西日本の代表的な西国三十三所観音磨崖仏である。

 石山観音磨崖仏のような厚肉彫りではなく、浮き彫りである。造形的な品格はあまりないが、信仰的な迫力を感ずる磨崖仏が多い。2番穴太寺の本尊の聖観音の蓮華座には男性のシンボルが彫られている。9番南円堂の本尊不空羂索観音は本来は一面三目八臂であるがここでは三面になっている。7番岡寺の本尊如意輪観音は浮き彫りというより板彫風で、より素朴な表現になっている。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(20)〜(27)   白滝山の石仏群(五百羅漢)
広島県尾道市因島重井町  「文政13(1830)年」
 瀬戸内海の中央に位置し、村上水軍の島として知られている。 因島市は一島一市の町で造船業によって栄えた。現在は本四連絡橋の尾道・今治ルートがとおり、歴史の島・観光の島として注目されている。  その因島の東北端にある白滝山は、 岩神の霊場、霊山として知られ、15世紀のはじめ、 村上水軍の将、村上吉充によって、観音堂が建立された。

 頂上には阿弥陀三尊・釈迦三尊像・伝六夫婦像・三大師の他、五百羅漢や十字架を刻む観音磨崖仏や烏天狗などの様々な約700体の石仏が安置されている。

 これらの石仏は、 文政年間に因島重井町の柏原伝六(一観)が、神道・仏教・キリスト教・儒教の宗教の共通理念を一つに融合して「一観教」を編みだした。「一観教」は、伝六自ら教祖として布教され、信者は文政八年(1825)には数千人を数えたという。白滝山の石仏群(五百羅漢)は柏原伝六(一観)が文政10年(1827年)発願し、弟子の柏原林蔵を工事責任者として、 尾道より、石工を呼び寄せ彫らせたもので、3年後の文政13(1830)年に完成したという。。

 白滝山の石仏群は江戸時代後期、一人の教祖によって生まれた新興宗教が生み出した、自由奔放な表現の個性的な石仏群という点で、信州修那羅の石神仏と共通している。

 しかし、石仏から受ける印象は修那羅とは大きく違う。瀬戸内という風土の為か、全然じめついたところがなく、非常に明るい。この明るさが瀬戸内の石仏の魅力である。
 
(20) 羅漢?・羅漢・大日如来
 最初の写真でわかるように山頂の阿弥陀三尊から尾根づたいに多くの石仏があり、尾根の両端には羅漢を中心にたくさんの石仏が並んでいる。その中にある羅漢像2体と大日如来像である。右端の石仏は頭部を見て十一面観音観音と思ったのだが、胴体部は菩薩ではなく、明らかに羅漢風である。両手を広げて経典を見ているように見え、迦哩迦尊者(かりかそんじゃ)かもしれない。頭の部分が宝冠とすれば、稚児文殊も考えられるが、顔は明らかに稚児の顔ではなく、象に乗っているようにも見えない。中央の羅漢は半諾迦尊者(はんたかそんじゃ)か。左側は智拳印を結んだ金剛界大日如来である。
 
 
 
(21) 観音? 
 (29)の羅漢や大日如来は尾根の東側である。それに対して、このページの最初の写真やこの像は西側に並べられた石仏群である。ここも羅漢像が多いが、この像のように女性的な像や(30)や(31)のような素朴な幼児のような石仏が混ざっている。この像は蓮華があるので三十三体観音の威徳観音と思われる。ただ、「仏像図彙」などでは威徳観音は左手に蓮華を持っているが、この像では左手を頬に当てているので何とも言えない。
 
 
 
(22) 合掌像
 観音堂の前の小さな山門前に向かい合うように安置されている2体の像の1体で、頭巾をかぶった幼児のような像である。同じような像が尾根づたいに並んだ石仏の中などに見られる。向かいの像もよく似た像でこの像は頭巾のようなものは上が水滴のようにとがっている。
 
 
 
(23) 基壇の石仏 
 過去七仏の基壇にの周りに刻まれた浮き彫り像で、まん丸い顔で胴体もリズミカルに丸や曲線で表した像で、自由で素朴で明るい像形である。合掌する像が多いが宝珠や塔などを持つ像も見られる。
 
 
 
(24) 慈母観音 
 観音堂の山門の手前の大きな岩の上部に彫られた磨崖仏で、赤子をいやすように抱く、子育観音である。像の下には大きい慈母観音と刻銘がある。(21)〜(23)の石仏と比べるとやや硬い表現である。
 
 
 
(25) 弥勒菩薩・合掌像 
 山頂の阿弥陀三尊から尾根づたいに多くの石仏があり、尾根の両端には羅漢を中心にたくさんの石仏が並んでいる。この2体の像は(20)の羅漢や大日如来と同じ尾根の東側の石仏群である。右側の像は宝塔を両手で膝の上で持っているので弥勒菩薩、左の合掌する像は供養者像または羅漢像と思われる。
 
 
 
(26) 不動明王・馬頭観音? 
 観音堂から頂上に向けて最初にある大きな石仏が釈迦三尊像である。その南側の釈迦十大弟子の像の前にある2体の石仏である。左側は不動明王で左の像は合掌する女性のように見える像である。この女性のような像の額の上に突き出た突起のような物があり、これが馬頭だとすると、二臂の馬頭観音ということになる。一般に馬頭観音は三面八臂の忿怒相が一般的であるが、石仏では忿怒相ではない二臂像が多く見られる。白滝山の石仏では女性のような穏やかな顔の像がかなり見られる。
 
 
 
(27) 不動明王・羅漢・宝珠を持つ像 
 山頂の阿弥陀三尊からの尾根のはしに並べられている、このページのトップの写真や(21)の観音像と同じ、西側の石仏群の中の4体である。下に広がっているのは因島重井の町並みですばらしい景色である。左端が不動明王、次は羅漢像で、右の2体は両手で宝珠を膝の上で持った像である。このような両手で宝珠を持った像は(23)の基壇の石仏にも見られ、白滝山の石仏には多く見られる。
 
 

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(28)   瑞巌寺磨崖仏小石窟
大分県玖珠郡九重町大字松本 「江戸時代」
不動三尊・地蔵十王
地蔵菩薩
十王像
 大分県の史跡に指定されている瑞巌寺磨崖仏から20m程離れたところに、小さな石窟があり、不動三尊や地蔵菩薩・多聞天などの小像を薄肉彫りする。彩色が残り、地蔵の光背の周縁には十王像を墨書きして色をつけている。不動三尊の脇持は板絵風にして描いている。江戸時代の素朴な作品で、民芸品のような味わいがある。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(29)   瑞光庵磨崖仏 
大分県豊後大野市緒方町越生 「江戸時代」
 豊肥本線緒方駅の北東、1.5q、徒歩20分。田んぼを横切って、坂を上ると、深く大きな岩窟がある。その奥に、異様な雰囲気の不動明王像が刻まれている。 目はつり上がり、大きな口をくいしばって、 右手に剣、左手に羂索を持っている。 火焔と唇の赤と剣と歯の白の色が鮮やかである。 近世の地方的な作であるか、庶民のエネルギーを感じさせる磨崖仏である。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(30)   上坂田磨崖仏
大分県竹田市上坂田  「嘉永6年(1853)」
  豊肥本線竹田駅から西約10q、竹田市炭竈の宮城簡易郵便局の北西の山中の石窟に彫られている。上坂田東公民館の西200mに小さな鳥居があり、そこが上坂田磨崖仏への入り口である。そこから山道を数百b上ると上坂田磨崖仏のある石窟に着く。

  高さ3m、幅6m、奥行き6mの石窟の向かって右の側壁の一番奥に半肉彫りした像で、通称「安楽様」「しょうりょう様」などといわれている。 大きな顔に三角形の鼻が彫られ、口から歯をむき出し、両肩から羽根をはやしていて、 胴は作られていない。 山岳信仰との関係が考えられるが、詳しいことはわからない。石窟内に「嘉永6丑年(1853)」の銘がある。大きいだけでなく、不気味な凄みのある像である。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(31)〜(35)   霊諍山の石神仏
長野県千曲市八幡大雲寺裏山  「明治時代」
 長野県更埴市八幡郡(現在は市町村合併により千曲市八幡)にある霊諍山の石仏・石神群は、昭和50年代のはじめ、浅野井坦氏によって紹介されてから、 全国の石仏愛好家から知られるようになった。 修那羅と似た奇妙な像が多数あり、修那羅との濃密な関係も含めてそのユニークな存在がクローズアップされている。ほとんどが明治時代およびそれ以降に造られたものと思われるが、民衆の自由な発想による造像でありその信仰形態とともに注目すべきところである。

 霊諍山を開いたのは、この地出身の北川原権兵衛で、彼が書いた「更埴郡八幡村霊諍山開山申書」によると、明治18年から、母の癪の病を信仰の力によって治すために修行にはいり、 明治24年には、「神がかり」ができるようになったと記している。その後、次第に村人の尊敬を受けるようになり、人々の願い事を神に取り次ぎ、信者が増えていき、この霊諍山を開いた。霊諍山本殿には、天神七代、地神五代、人皇三代と大国主命が祀っている。信者の願果として、多数の神々を合祀したのがこの霊諍山の石神仏である。

 修那羅山安宮神社と同じく大国主命を祀る点や、石造の種類様式等から、修那羅山と霊諍山が似通った信仰形態を持っていた事は明らかである。 修那羅を開いた大天武が亡くなったのは明治5年で権兵衛は7歳の幼児で、 直接師事したとは考えにくい、しかし、 先の「更埴郡八幡村霊諍山開山申書」には「修奈羅様の御情により、 云々」とあるので、大天武に私淑し、信仰形態や思想で大きな影響を受けたと思われる。また、大天武の高弟、和田辰五郎という人物も霊諍山にかかわっている。和田辰五郎は北川原権兵衛の親戚筋にあたり、霊諍山に招き、社殿に住んでもらった。

 修那羅と同じように、猫神が中心的な位置に祀られている。その他、子育地蔵や鬼・摩利支天・大日如来など修那羅と共通する石神仏が多い。 一代守り本尊としての石仏や素戔嗚尊像・日本武尊像など修那羅に見られない石神仏もあるが、全体としては形にとらわれない大胆な表現は修那羅と共通している。
(31) 猫神・猫像 
 蓮や桜など花の寺と知られる禅宗の古刹、大雲寺(標高400m)の裏山が霊諍山で、大雲寺から標高で90mほど登った稜線上の広い山頂に新しく建てられた社殿と石仏群がある。その石仏群の中央にあるのが猫の像と猫神である。

 長野県では田畑を荒らしていた巨大な大ネズミを退治するため中国から呼び寄せた大ネコ(唐猫=カラネコ)にかかわる伝承が残っていて、唐猫様、カラネコ大神、猫神(ねこがみ)などとしてとして信仰されてきた。特に養蚕がさかんになると猫が蚕の大敵であるネズミを食い殺すことから、蚕神(かいこがみ)=養蚕の神としてあがめられた。この猫の像や猫神もそのような信仰から生まれてきたと考えられる。

 修那羅にもあるが、猫そのものを像として彫ったのは珍しい、修那羅の像に比べるとリアルで、背を丸めて今にも獲物に飛びかかるような姿勢で、修那羅の像のような愛嬌は感じられない。

 それに対して猫神はユニークでユーモラスな像である。とがった耳や大きな目、手の指などは猫の顔であるが、歯や牙をむき出した口や体は鬼の姿を思わせる。マントのような衣装や胸や腹のマーク、ふんどしの紐のような腰の線、がりまたで足首を外に向けた足などいかにも漫画チックで印象に残る神像である。霊諍山を代表する石神仏の一つである。
(32) 奪衣婆 
 閻魔王に代表される十王は冥界で死者の生前の行いの裁判をして人間の転生先を決定する十名の王である。遺族あるいは本人が供養や作善を行うと裁量されるという。このような十王信仰の広がりによって、鎌倉時代以降、多くの十王像がつくられた。石仏としての十王の造像も鎌倉時代から始まる。鎌倉〜室町時代の十王石仏の多くは地蔵石仏と共に造立された。その代表と言えるのは臼杵石仏の堂が迫石仏地蔵十王像である。

 江戸時代になるとになると閻魔王像や十王像は大量につくられ、村々のの閻魔堂などに祀られた。従者として判決文を記録する司命と司録という2人の書記官や倶生神、人頭杖、奪衣婆などもつ造像された。長野県にも地蔵や奪衣婆・人頭杖などを含む十王石像が各地に残っている。

 霊諍山には十王像は見当たらないが、この像は奪衣婆と思われる。奪衣婆は人が死んで七日目に渡る三途の川で亡者の衣服をはぎ取り、衣領樹(えりょうじゅ)の上に待つ懸衣翁(けんえおう)に渡すという老女の鬼で、片膝をたてた痩せた胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として表される。この像は胸をはだけておらず片膝も中途半端であるが、大きな口を開けて取って食いそうな顔や、手に持った布などから奪衣婆とわかる。不気味な迫力のある像である。
(33) 鬼 
 霊諍山には十王信仰に関わる像は見当たらないが、地獄に関わる鬼の像はある。修那羅にも見られる、獄卒の鬼である。生前にウソをついた者は閻魔に裁かれ舌を抜かれるるという話はしばら前までは知らぬ者がない話であるが、その舌を抜く大きな釘抜きを持つ鬼である。修那羅の像のような迫力はないが、縁日の夜店で売っている鬼の面をかぶった人のような像で親しみを感じる愛嬌のある鬼である。
(34) 摩利支天1
 摩利支天は武士の守り本尊として、護身・蓄財・勝利などを祈る対象とされているが、信州では「生き霊よけ」として信仰もあるという。また木曽の御嶽信仰とともに広まり、各地の山岳に勧請され、江戸末期以降、甲信越や関東で摩利支天像は造立された。長野県では修那羅の摩利支天石仏や茅野市の権現の森や松本市和田の摩利支天石仏などが知られている。霊諍山を開いた北川原権兵衛は御嶽信仰に基づく神道の御岳教の中座(霊媒)であり、摩利支天が祀られて当然といえる。

  この摩利支天像は修那羅の像と同じく船型にした石材に猪に乗る憤怒相の三面六臂の摩利支天を浮き彫りにしたねのである。左の二つの手で弓と軍配、右の二つの手で矢と刀を持ち、残った左右の手で長鉾を構えている。修那羅の像に比べると迫力に欠けるが、修那羅像に比べると風化が少なく、陽が当たると鮮やかに三面の忿怒相や猪の姿が浮き上がり写真写りは抜群である。
(35) 摩利支天2
 摩利支天1のとなりにもう一体、摩利支天像(摩利支天2)がある。こちらは線彫り像である。船型の石材に、板彫り状に猪に乗る摩利支天と火焔を板状に浮き出し、面相や着衣・持物・猪の顔や牙を線彫りで表したもので、勇壮な姿である。(39)の像と同じく、三面六臂で弓矢・軍配・剣・長鉾を持つている。顔は、ボウボウと髭を生やし、摩利支天1より数段すごみがあり迫力満点である。赤く彩色した跡が残る。
(36) 一代守り本尊 普賢菩薩・勢至菩薩
 修那羅にはない霊諍山の石仏として一代守り本尊の石仏がある。一代守り本尊とは一生を守り続けてくれる仏様のことで、生まれ年の干支に基づいて守り本尊が定められてる。昭和時代になって一代守り本尊の信仰は全国で流行したという。普賢菩薩像は辰年と巳年生まれの人の守り本尊で、高さ50pで象の上に経典を開いて座る稚児姿の普賢菩薩である(稚児普賢)。勢至菩薩は午年生まれの守り本尊で、高さ46p、合掌して座る菩薩像である。ともに円光を背負い、穏やかな顔の丁寧な彫りである。
(37)(38) 素戔嗚尊・日本武尊 
 素戔嗚尊像・日本武尊像も修那羅に見られない石神仏である。霊諍山を開いた北川原権兵衛は御嶽信仰に基づく神道の御岳教の中座(霊媒)であったことや霊諍山の信仰に大きな役割を果たした和田辰五郎が神習教(津山藩士芳村正秉が創始した神道系の教団。旧教派神道十三派の一つ。)と関わりがあったことなどから、素戔嗚尊(すさのうのみこと)像・日本武尊(やまとたけるのみこと)像といったの神話上の神や人物の像も祀られている。

 素戔嗚尊像・日本武尊像ともに船型にした石材に半肉彫りしたもので、素戔嗚尊像はヤマタノオロチ退治の場面と思われる像で左手で繩のようなものを持ち右手で剣を突き下ろしている。日本武尊像は角髪(みずら)のような髪型をして、右手に宝棒風のものを持ち、右掌に宝珠をのせた人物の像である。銘に日本武尊とあるのでそれとわかるが、これなしに何の像かわからない。日本武尊は素戔嗚尊が退治したヤマタノオロチから出た草薙の剣を持って戦ったことになっているが、右手に持っているものは鋭さを欠き剣には見えない。
(39) 滝見観音 
 三十三体観音の一員で、その8番目に置かれる滝見観音である。片膝をついて断崖座り滝を見上げる観音で、石仏としては三十三体観音として造立される場合が多く、独尊の作例は少ない。「仏像図彙」にそっくりな姿態の滝見観音があり、「仏像図彙」を参照して刻まれたと思われる。
(40) 大日如来 
 大雲寺からの登山道を登って最初に出会える石仏である。上部の角を取った方形の石材に彫り窪みの中をつくり、その中に定印を結んだ如来像を半肉彫りしたものである。一見すると阿弥陀如来に見えるが、定印は指で輪を作った弥陀定印ではなく両手のひらを上に向けて重ねて、親指同士が触れ合う形の法界定印である。そのためか、この像は宝冠をつけていないが大日如来とされている。おおざっぱで味わい深い納衣や少しとぼけた表情が楽しく印象に残る石仏である。
(41) 不空羂索観音? 
 霊諍山の石仏の中には線彫り像が(35)の摩利支天像以外に2体ある。1体は蔵王権現でもう1体はこの観音像である。この2体は浮き彫りと組み合わせた(35)の摩利支天像と違った素朴で味わい深い像である。この像は蓮台に立つ三眼八臂の像で羂索を持つことから不空羂索観音と思われる。ただ頭部の宝冠は十面の顔にも見えるので十一面千手観音かもしれない。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(42)〜(45)   竜王山の石仏群
広島県尾道市潮見町   「明治時代〜昭和時代」
 尾道は林芙美子や志賀直哉が住んだ 「文学の街」として、小津安二郎の「東京物語」や大林宣彦の「転校生」「ふたり」など映画の舞台となった街として、多くの観光客を引きつけている。大林宣彦監督の尾道の三部作の「さびしんぼう」で主人公の橘百合子が通う明海女子高等学校のロケ地が市立日比崎中学校である。その日比崎中学校の北にある山が竜王山である。千光寺や済法寺のある千光寺山と栗原川を隔てた西側にある山である。

 日比崎中学校校舎の東の道を北へ進むと大きな石門があり、そこからしばらくすすんだ尾根沿いの広場が竜王山の霊場となっている。(この地も「さびしんぼう」のロケ地となった。)竜王山は、四国の石鎚山を信仰する人々の修験道場であった。竜王山の霊場の石垣の上には石造りの石鎚社があり、その周りには石鎚権現や修験道に関わる蔵王権現などの石仏や石祠・石碑などが林立する。(石鎚山は役行者が開いたされる神仏習合の修験の道場で、石鎚権現として全国で信仰を集めている。)竜王山には他にも天狗や不動明王・弘法大使像・五大明王像など修験道や密教に関わるの石仏が林立している。

 竜王山の石仏は因島の白滝山の石仏や済法寺十六羅漢磨崖仏と同じく尾道の石工によって彫られたものである。竜王山の石仏は明治から昭和にかけて造立されたと考えられる。天狗を彫った石柱の裏には「明治三十年酉六月二十八日」「願主 光現院 石鎚 森造」とある。石祠にも「明治十二年六月一日」や「願主 石鎚光現院 石鎚森造」の刻銘がある。

 石仏の一つには「尾道石工角田丈平作」の銘がある。尾道市教育委員会の発行する電子書籍「尾道の石造物と石工」によると角田丈平の作品は「明治 12 年(1879)から昭和 11 年(1936)までで 12 点が確認されている。」とある。(なお、竜王山の角田丈平の刻銘のある石仏は教育委員会の調査から抜けている。)また、昭和59年発行の「日本の石仏 山陰・山陽篇」(図書刊行会)では、尊名を墨で黒々と塗られた三十六童子石仏の写真が載せられ、最近の作であると記されている。
(42) 蔵王権現 
 蔵王権現は、修験道の本尊で奈良県県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られ、竜王山には多くの蔵王権現石仏がある。蔵王権現は三目二臂か二目二臂で、右手を高く上げて独鈷または三鈷を持ち、左手を腰に当て、右足を高く蹴り上げ、左足で立つ、憤怒相が一般的である。石仏は全国的に見ると珍しく、南北朝時代から江戸時代の造立で知られているものは奈良県の三郷町と大淀町の各1基、国東半島の数基などである。明治以降の作としては修那羅や霊諍山の2基か知られている。

 石鎚社の石垣の下に大きな丸彫りの4体の蔵王権現石仏がある。それぞれよく似た像で、二目二臂で右手をあげて杵のような独鈷を持ち、右足を高く蹴り上げ、左足で立つ。テイァラのような冠をかぶり、髪の毛を逆立てた像であるが、顔は太い眉毛であるが憤怒相とは言いがたい独特の顔をしていて、猿回しの猿のようなユーモラスな蔵王権現像である。冠と逆立てた髪が猿回しの猿の帽子のように見える。蔵王権現は石鎚権現として祀られているようで、石造りの祠には蔵王権現が石鎚権現として安置されている。

 参道の石祠には小像ながら憤怒相の迫力のある蔵王権現像がある。また、石垣の片隅にある蔵王権現像の小像は力強く可愛らしい像で、竜王山の蔵王権現の中でも最も印象に残る像である。
(43) 五大明王 
不動明王・降三世明王 
降三世明王 
軍荼利明王 
金剛夜叉明王 
 竜王山には蔵王権現石仏を初めとして他の地ではあまり見られない石仏が多くある。その一つが五大明王像である。五大明王は不動明王を中心として、東西南北のそれぞれに降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の四明王を配置したもので、木造では立体曼荼羅として知られる東寺講堂の国宝五大明王像がよく知られている。石仏では関東や信州などでみられるが、西日本ではあまり見られない。

 竜王山の五大明王は浮き彫り像で、不動明王は上部を浅い山型にした板状の石材を使い半肉彫りする。他の明王は船型の半肉彫りである。降三世明王は大自在天とその妃、烏摩を踏みつけて立つ三面八臂像で、軍荼利明王は一面十臂像、金剛夜叉明王は三面八臂像で、それぞれ火焔光背を負う。細部まで丁寧に彫られた明王像である。大威徳明王は不動明王と降三世明王の後ろに隠れるように置かれていて写真を撮れなかったのが残念である。
(44) 摩利四尊天(摩利支天) 
 竜王山には珍しい尊容の石仏も多くある。摩利四尊天と刻銘のある石仏は摩利支天(摩利支尊天)と考えられるが、三面六臂の猪にのる通常の摩利支天像とは違い、一面で手を智拳印のような印(智拳印とは左右の手が逆)を組む二臂の像となっている。
(45) 弘法大師像 
 等身大に近い2体の弘法大師像は石仏と言うより近代肖像彫刻と言ってもよい魅力的で個性的な大師像である。一体は太い眉毛で目を開いて前をしっかり見つめる力強い弘法大師像で、もう一体は穏やかな目で静かに振り返る優しい姿の見返り弘法大師像である。

 
自由で素朴で個性的な表現の石仏(46)〜(50)   高鍋大師の石仏群
宮崎県児湯郡高鍋町大字持田  「昭和時代」
 個人の宗教的情熱によってつくられた石仏群として宮崎県の高鍋大師がある。高鍋大師は四国八十八ヶ所霊場の勧請と持田古墳群の古墳に眠る古代の人々の霊を鎮めるために岩岡保吉氏(1889-1977)が約1haの土地を購入、私財を投じ地元の方々と共に半生をかけて建造した約700体の石仏群で、「十一めんくわんのん」と名付けた巨大なトーテムポールを思わせる像などユニークな石仏が多くある。
(46) 十一めんくわのん(十一面観音) 
 高鍋町の観光マスコットキャラクター「たか鍋大使くん」のモデルとなった石仏である。小さな石材をつなぎ合わせて作った高さ6mを超える像で、岩岡保吉氏が75歳の昭和33の作である。像の向かって右の端に「十一めんくわのん」と刻銘がある。歯を見せてにっこり笑った顔が印象的で、頭の上に積み上げられた顔もすべて笑っているように見える。普通十一面観音は二臂であるが、この像は十六臂?または十二臂?で十一面千手観音と考えられるが、岩岡保吉氏は仏像の儀軌・図像などに頓着せず自由奔放に制作している。
(47) 十二めんやくし 
 「十一めんくわのん」とよく似た、トーテンポールのような他面多臂像であるが、像の向かって右の端に「十二めんやくし」と刻銘がある。「「十一めんくわのん」と同じ岩岡保吉氏が75歳の作である。顔は歯を見せていないだけで「十一めんくわのん」とそっくりである。一番上の両手の上に輝く太陽を乗せ、左手には「あサ日カカやく」右手には「ゆう日サん」と刻まれている。その他の手には「あくまカぜ」「をしはらい」「くサ木くすり」と刻んであるので薬師如来と同じ御利益を願って制作されたことがわかる。
(48) 火よけみまもり 
 「十一めんくわのん」や「十二めんやくし」と同じ6〜7m級の大きな石仏は他に7体あり、そのうちの1体がこの「火よけみまもり」である。これらの像の全てが70〜80代にかけて製作されたものある。右手で剣を持ち、左手で子供を抱いた不動明王or鬼の像で、剣には「火よけみまもり」の刻銘がある。不動明王or鬼の目はガラスの器、子供の目は電球を使っているように見える。
(49) 正一いいない大神 (正一位稲荷大神) 
 「正一いいない大神」も6mを越える大きな石仏である。顎髭をはやした相撲取りのような顔をした像で、赤い袴を着けて、左手に鎌を持っている。「正一いいない大神」という刻銘があるので「正一位稲荷大神」であることがわかる。「仏像図彙」(元禄3年に刊行の「仏神霊像図彙」の復刻版)では稲荷大明神は稲穂かけた天秤棒を肩に担ぎ、鎌を持った髭をはやした姿としている。
(50) 祝言像(夫婦像or道祖神?) 
 南洋や東南アジアの結婚式を挙げる夫婦の姿に見える像である。新婦の手の上に新郎がそっと手を置いている。「エんをぬ(む)すんで よしひとと しらガなるまで くらすよに」と刻まれている。