石造十三仏 |
十三仏とは死者の追善の法事を修めるとき、その年忌に配当された十三の如来・菩薩・明王である。十三仏は死語の仏事をあらかじめ自分で営む逆修仏事のために成立したもので、十三仏板碑などの銘刻には「逆修」の文字が多く見られる。十三仏の成立起源については、諸説があるが、十王思想から発達したとの説が最も有力である。「地蔵十王経」による十仏十王の本地仏思想があるが、この十仏十王に三仏三王を加えて十三仏信仰が成立したと推定される。下記の表は、基準的な十三仏の配置を示したものである。
十三仏の成立は死者の追善を行なう忌日の思想が一般化された、南北朝時代と考えられる。 石造十三仏の多くは板碑で一石で十三仏を種子または容像であらわす。最も古いものは千葉県印旛市吉高の羽黒十三仏堂の種子で表された板碑で南北朝時代後期の永和4(1378)年の作である。容像を刻んだものでは、山口県山口市徳地深谷の深谷十三仏が最も古く応永14(1407)年の刻銘を持つ。深谷十三仏は一石一尊仏の十三仏である。 関東の十三仏板碑は種子で表すものが多く、南北朝時代末期から室町時代にかけて多数造立された。奈良県では信貴山成福院十三仏石室が最も古く、文明11(1479)年の刻銘が残る。関西の十三仏板碑は容像を刻んだものが多く生駒山から信貴山の山麓(奈良県生駒市・平群町、大阪府四條畷市など)に天文年間(1532〜1555年)造立のものを中心に多数見られる。 江戸時代になると容像を刻んだ石造十三仏は全国で、墓地入口等につくられるようになり、江戸時代後期には一石一尊仏の立像の十三仏も多くつくられるようになった。 十三仏信仰の最も古い石造物としては十二尊の像を刻んだ岡山県高梁市有漢町の保月六面石憧があげられる。伊行恒(井野行恒)の作で「初七日より十三年の忌日に相当する諸尊十二仏を彫り、大菩提心を証ずる為に造立した」との刻銘があり、十三仏成立の過程を示す貴重な遺品となっている。 このホームページでは「生駒谷・平群谷の十三仏」として、信貴山の成福院十三仏石室 ・椣原墓地十三仏板碑など奈良県の生駒市・平群町・三郷町の十三仏を紹介する。また、保月六面石憧・深谷十三仏・奈良県天理市苣原の大念寺十三仏など各地の十三仏を「全国各地の十三仏」として紹介する。 |
参照文献
「日本石仏事典」 | 庚申懇話会遍 | 雄山閣 |
「奈良県史7 石造美術」 | 清水俊明 | 名著出版 |
「生駒市石造文化財 生駒谷」 | 生駒市教育委員会 | 生駒市教育委員会 |
「平群町石造文化財 平群谷」 | 平群町教育委員会 | 平群町教育委員会 |