東北の磨崖仏(1) 富沢磨崖仏群 | ||
富沢地区岩崎山西側の凝灰岩が露出した岩肌斜面に、高さ2.4mの阿弥陀如来座像の磨崖仏があり、「富沢大仏」と呼ばれている。富沢大仏は現在は風化を防ぐために昭和40年代つくられたお堂のなかにある。富沢大仏の北には石窟があり、その中に七体の丸彫りの比丘形像などが納められている<富沢六地蔵>。お堂の背後の斜面には江戸時代の石仏が多数見られる。岩崎山の東側にも虚空蔵窟とよばれる石窟があり、4体の比丘形像が安置されている<富沢虚空蔵窟石仏>。富沢六地蔵と富沢虚空蔵窟石仏は磨崖仏ではないが、岩を穿ちて造られた石窟に安置され、岩と一体になって摩崖仏かのような趣がある。 | ||
<富沢阿弥陀磨崖仏> | ||
宮城県柴田郡柴田町富沢岩崎 「嘉元4(1306)年 鎌倉時代後期」 | ||
東北本線槻木駅の北約3qの柴田町富沢の小さな丘、岩崎山の西面する山裾に通称「富沢大仏」と呼ばれる阿弥陀磨崖仏がある。丘陵端の凝灰岩の岩層を利用して作られた磨崖仏で、堂内に保存されていたため保存状態はよい。 岩面を1mばかり彫りくぼめ、像高240pの定印の阿弥陀如来座像を厚肉彫りする。ほとんど丸彫りに近く彫られた角張った大きな顔と大粒の螺髪が、「富沢大仏」という通称にふさわしく雄大である。大きな鼻と厚ぼったい唇など達谷窟大日如来磨崖仏と共通する表現で、いかにも東北らしい鈍重であるが素朴な力強さを感じる磨崖仏である。 像に向かって右壁面に「嘉元4(1306)年」の年とともに恵一坊藤五良なるものが父の供養のために刻んだ旨がかかれた銘文があり、東北地方唯一の在銘磨崖仏として資料的価値も高い。 |
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<富沢六地蔵> | 宮城県柴田郡柴田町大字富沢岩崎 「徳治2(1307)年」 | |
阿弥陀磨崖仏の堂の向かって左側の岩肌に彫り込んだ石龕があり、その中に丸彫りの比丘形像7体が安置されていて、六地蔵と称されている。合掌する1体を除いて、膝の上に両手を置く(右手を膝の上で与願印にしたものも見られる)。二つに身体が割れたり、持ち物が折れたりしている像がみられが、向かって右の3体が痛みが少ない。しかしこの3体も頭部は摩滅していて表情がわからない。しかし、頭光を付けた丸掘りでフォルムはよく、鎌倉期の古仏らしい気品がある。「徳治2(1307)」の年紀銘がある。膝の上の両手には宝珠は見あたらないので、地蔵石仏とは断言できないが、地蔵と同じ比丘形像であることから地蔵石仏と考えてよいのではないだろうか。 | ||
<富沢虚空蔵窟石仏> | ||
宮城県柴田郡柴田町大字富沢岩崎 「永仁2(1294)年」 | ||
富沢虚空蔵窟は富沢大仏の山を挟んだ反対側の離れた場所にあるためほとんどの人が訪れない。民家の裏の山の斜面の岩山にあり、四角い石窟の中に4体の比丘形の丸彫り座像が納められている。 中央の正面を向く2尊は右手を膝から垂らし与願印、左手で丸餅(宝珠?)のような物を掌にのせている。左右の2尊は中央の2尊よりやや小さく、中央の2尊の方を向かい合っている。膝より高い位置で両手を組むようにして何か捧げるようにしているように思えるが、布or着衣をかぶせていてわからない。中央の2尊はほとんど風化・摩滅がなく、木彫風の丸彫り像の秀作で、鎌倉期の古仏らしい気品がある。永仁2(1294)年の紀年銘がある。 |
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東北の磨崖仏(2) 田沢磨崖仏(岩地蔵) | ||
宮城県亘理郡亘理町逢隈田沢宮原34 「鎌倉〜室町時代」 | ||
阿武隈川の河岸の岩塊の横穴墓を利用した石窟に4体の仏像と板碑を刻んだ磨崖仏で「岩地蔵」と呼ばれている。主となる石窟には三体の半跏像の地蔵菩薩が厚肉彫りされている。川に突き出た岩に彫られているため容易には近づけないが2体は川岸から見ることができる。一体は側壁に刻まれていていて、何とか岩を伝って石窟近づいて確認することができた。 風化が進み印相等は確認できない。目鼻の風化も進んでいて側面と向かって左の像は面相はわからないが、向かって左の像は当時の面影を残していて、富沢虚空蔵窟石仏に似た穏やかな面相をしている。虚空蔵窟石仏のような繊細さはないが、茫洋とした魅力がある。 一番手前の石窟には座像の厚肉彫り像が刻まれているが、風化が激しく尊名は確認できなかった。 古墳時代末期に築造された横穴墓群の中に石仏を刻んだもので岩地蔵といわれている。この場所は、昔の要路であった東街道の渡し場「稲葉の渡し」で、左甚五郎が船を待つ間に彫り上げたという伝説が残されている。 |
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東北の磨崖仏(3) 岩切磨崖仏 | ||
宮城県仙台市宮城野区岩切入山22(東光寺境内) 「鎌倉時代?」 | ||
阿弥陀如来・薬師如来 | ||
如来座像・如来座像・菩薩立像・阿弥陀如来 | ||
阿弥陀如来 | ||
薬師如来 | ||
東光寺は留守氏四代留守家政の妹比丘尼性喜の菩提寺といわれ、市内でも最も由緒古い寺院の一つである。東光寺の境内や周辺には古代から中世・近世にかけての横穴群・城跡・板碑群・石窟仏群など遺跡・遺物があり、仙台市教育委員会によって発掘調査が行われた。 その石窟仏群が岩切磨崖仏である。風化が激しく、尊容も明瞭でないものが多いが、主窟は鉄柵が設けられていて、比較的保存状態はよい。高さ約2m、奥行約2.5m、幅約3.1mの横穴状の岩窟の正面に像高約150cmの薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像が、左壁には二体の菩薩立像と二体の坐像、右壁には菩薩立像と天部像が彫られている。石仏の肩から上の部分は水を含みやすい地層なのか黒くなっていて風化も進んでいて、薬師如来の顔面は大きくえぐられている。この磨崖仏は「穴薬師」と称して、慈覚大師円仁が一夜にして3薬師の一つ「宵の薬師」として古くから信仰を集めていた。 |
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東北の磨崖仏(4) 穴薬師磨崖仏(波打薬師) | ||
宮城県黒川郡大和町落合報恩寺字根柄 「鎌倉時代〜室町時代」 | ||
宮城県の磨崖仏の多くは石窟に彫られているのが特徴であるが、横穴古墳などを利用したものが多く、浅い小さな石窟がほとんどで、インドや中国の石窟寺院とは異なる。その中で、最も大きな石窟に彫られた磨崖仏が報恩寺の穴薬師磨崖仏である。丘陵の麓の崖を刳り抜き、広さ8畳ほどの大きな石窟になっている。 石窟の正面には舟形の彫り窪みをつくり、右手を施無畏印、左手を与願に似た形にして薬壺を持ち、蓮台に坐す薬師如来を半肉彫りする。目鼻やや肉髻・螺髪は摩滅していて、のっぺらぼうのようになっている。薬師如来の両側には祭壇のような長方形の彫り窪みが彫られている。奥壁に刻まれた薬師如来を中心とした薄暗い大きな石窟は厳しい宗教的空間を醸しだしている。 |
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東北の磨崖仏(5) 雄島阿弥陀磨崖仏 | ||
宮城県宮城郡松島町松島浪打浜 「不明」 | ||
中世の松島は”奥州の高野”と称される死者供養の霊場でした。その中心は松島の奥の院と呼ばれる雄島でした。ここは平安後期の僧、見仏上人が法華教六万部を読通した見仏堂の跡があり、多くの岩窟が残り、岩窟に卒塔婆を彫りつけた跡がいくつも残る壁が見受けられ、浄土往生を祈念した石造供養塔の板碑や五輪塔が点在している。 その雄島は「松島海岸」駅の南<0.5qの海岸にかかる朱塗りの渡月橋を渡って入る。阿弥陀磨崖仏は渡月橋を渡ったすぐ右手の石龕の壁に半肉彫りされている。座像で風化がすすみ、目鼻や着衣はほとんど残っていない。年号は不明で、様式も風化すすみ確認できないため制作年代はわからないが、なかなか堂々としている。 |
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東北の磨崖仏(6) 達谷窟大日如来磨崖仏 | ||
岩手県西磐井郡平泉町平泉北沢16(西光寺境内) 「鎌倉時代」 | ||
平泉の西南約6キロ、美しい渓谷美を誇る厳美渓(名勝天然記念物)に至る道路の途中に、達谷窟毘沙門堂(西光寺)がある。 達谷窟毘沙門堂は坂上田村麻呂が蝦夷平定の際、京の鞍馬寺を模して毘沙門堂を建立し、108体の多門天(毘沙門天)を安置したのが始まりとされてい.る。現在、毘沙門堂は崩れて浅くなった窟の壁面に半ば食い込む形で建てられている。昔は深い大きな窟で、蝦夷の王、悪路王(アテルイ?)や赤頭らがたてこもったともいわれる。 毘沙門堂の横、高さ40mほどの大岸壁にこの大日如来磨崖仏がある。現在は顔面と肩の線を残すのみであるが、その大きさは十分うかがえる。九州の熊野磨崖仏や普光寺磨崖仏に匹敵する巨像で、日本最北の磨崖仏といわれている。 顔は下ぶくれの角顔で三角形の大きな鼻と厚い唇の大きな口が特徴である。大まかで上作とは言いがたいが、切り立った岩壁の迫力と無骨な東北人を思わせる顔が印象に残る磨崖仏である。髪は螺髪のようなので、阿弥陀如来であるという説もある。 永承6(1051)年、源頼義が、安倍貞任を成敗したときの戦死者の供養のため、弓弭で図像を岩面に描いたのを、彫り出したのがこの大日如来であると言い伝えられている。 |
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東北の磨崖仏(7) 安久津八幡神社阿弥陀磨崖仏 | ||
山形県東置賜郡高畠町安久津2011 「江戸時代初期」 | ||
安久津八幡神社は、貞観2年(860年)、慈覚大師が阿弥陀堂を建てたのが始まりと言われいる。その後、源義家が、戦勝を祈願して、鎌倉鶴岡八幡を勧請したと伝えられている。安久津八幡神社の寛政9年(1797年)に再建された三重塔や室町末期の舞楽殿などの文化財があり、浜田広介記念館とともに高畠町の観光のメインとなっている。 その安久津八幡神社境内に阿弥陀如来磨崖仏がある。岩に四角形の彫りくぼめをつくり、阿弥陀如来座像を半肉彫りしたもので、柔らかい凝灰岩であるため摩滅がすすんんでいる。「寛文5(1665)年」の紀年銘があるというが確認できなかった。後で調べてみると、阿弥陀磨崖仏は右側にもう1体あったのだが、同じ高畠町の「小湯山(こようさん)の石神仏」が主目的のため詳しく調べずに来たので見落としてしまった。 |
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東北の磨崖仏(8) 吹浦十六羅漢岩 | ||
山形県飽海郡遊佐町吹浦字西楯 「元治元(1864)年〜明治元(1868)年」 | ||
(上)釈迦如来・(下)目連 | ||
(上)釈迦如来・獅子 (中)普賢菩薩・文殊菩薩 (下)舎利弗・目連 | ||
<第十六尊者> 注荼半託迦尊者(ちゅだはんだかそんじゃ) | ||
<第四尊者> 蘇頻陀尊者(そひんだそんじゃ) | ||
<第十尊者> 半諾迦尊者(はんたかそんじゃ) | ||
観音菩薩 | ||
<第一尊者> 濱度羅跋羅堕闍尊者(びんどらばらだじゃそんじゃ) <第九尊者>伐闍羅弗多羅尊者(ばしゃらほったらそんじゃ) |
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<第十三尊者> 因掲羅尊者(いんかだそんじゃ) | ||
遊佐町の吹浦(ふくら)漁港の北の岬にこの磨崖仏がある。地元・海禅寺の第21代住職寛海和尚が、海難事故でなくなった人の供養と海上の安全を祈り、岬の海岸の岩に元治元(1864)年から明治元(1868)年にかけて彫ったという磨崖仏で、海岸の岩に釈迦三尊、十六羅漢など22体が厚肉彫りされている。 厳しい日本海の荒波や雨や風雪にさらされてきたためか、風化が激しく、もっと古い時代のものに思えた。磨崖仏自体は必ずしも優れた作とはいえないが、風雪と荒波にさらされた奇岩・奇石と日本海の美しさが、この磨崖仏を引き立たせている。道路が広げられたため、コンクリートに囲まれた羅漢もあり、時代の流れを感じさせる。 |
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