福島の淡島様

 福島県の中通りの特色ある石仏・石神として来迎三尊像と共に淡島様があげられる。来迎三尊供養塔は鎌倉時代を中心とした中世のものであるが、淡島様と呼ばれる女神像は幕末から昭和にかけられて像立されたものである。
 淡島様は江戸時代から信望をあつめ、婦人病に効験ありとされ、現在では子授け・安産・浮気封じの神としても信仰を集めている。本社は和歌山市加太の淡嶋神社<祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)・大己貴命(おほなむじのみこと)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)>である。
 福島県では戦前まで淡島願人と称される下級の宗教家が、祭文や功徳を唱えて、女性たちの代参代埃離を引き受ける代わりに賽銭を集めて歩いたという。(淡島願人は女性たちの願掛けの証として黒髪や櫛、衣類の一部を背負いの神棚にくくりつけて諸国を歩いていた。)祭文によると、淡島様は住吉大社の后神であったが、婦人病のために夫神に嫌われ海に流され、紀ノ国の加太に漂着して淡島明神として祀られたことになっている。淡島信仰が広がりにより、淡島講がつくられ、淡島様の石像がつくられていった。
 私が見た一番古い石像は石川町の安養寺の淡島様像で嘉永3(1850)年の紀年銘が残っている。安養寺には、他に明治14(1881)年の紀年銘の像と博多人形のような美しい少女風の像、および3基の淡嶋大明神・粟嶋大明神などと書かれた文字碑がある。須賀川市の小塩江郵便局の近くにある塩田西ノ内の淡島様は、元治元年(1864)年の造立で、少彦名命が鳥の羽を針で縫い合わせたという想像上の衣類を着用している。
 須賀川市塩田飯塚郡山市田村町川曲のきょく宣寺須賀川市の乙字ヶ滝および須賀川市田中の金蔵寺の淡島様は右手に粟の穂を持っている。淡島様は阿波神などといわれ、「あわ」というところから手に粟の穂を持った像になったと思われる。飯塚や乙字ヶ滝の淡島様は袖の中で何かを持っているように見える。小坂泰子氏はそれを三弁宝珠(淡島様の本地仏、虚空蔵菩薩の持ち物)または薬壺と推定されている。棚倉町福井の宇迦神社の淡島様のように扇や鏡を持つ像も多く見られる。白河市東下野出島坂口の鹿島神社の淡島様は何も持たず合掌する姿である。
 浅川町小貫の春日神社には明治時代から平成15年像立までの16体の淡島様が祀られている。これは針供養、雛祭りの日、または3のつく日に、女の人たちが集まって、よもやま話をする淡島講の人々か建立したものである。明治時代の像が3体、大正時代が2体、平成が2体、昭和の像が最も多く9体数えられる。それぞれの像様が時代を反映していて興味深い。